ええ、使い廻しです(笑)。
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1.作家について
作者のシャーロット・パーキンス・ギルマンは1860年生まれ。アメリカ建国以来、多くの自由主義的な宗教家や作家を輩出したビーチャー一族(ちなみに『アンクル・トムの小屋』を著したストウ夫人も一族の出身である)の末裔として、ニュー・イングランドの名家、ビーチャー家に生まれる。
ただし、シャーロットが生まれた時期は、一族に往時の面影はなく、父親はシャーロットが四歳の時に家を出、一家は貧困に陥ったため、シャーロット自身も四年間の学校教育しか受けていない。
1881年、彼女が21歳の時、風景画家であるチャールズ・ステットソンに紹介され、24歳で結婚、間もなく女の子を出産する。
ところがこの出産を前後し、シャーロットは鬱病に罹る。そののちサナトリウムに入院することになるのだが、そこでのおもな治療は、あらゆる肉体的・知的な活動を禁止する、というものだった。
一ヶ月後、シャーロットは極度の神経衰弱に陥り、夫と娘の元に帰る。そののち1888年、シャーロットは夫と別れ、娘を連れてカリフォルニアに移住。そこで彼女の精神状態は、劇的に好転する。
シャーロットが作家活動に入ったのは、1890年代である。
シャーロット・パーキンス・ギルマンの代表作として名高いこの『黄色い壁紙』は、当時の一流文芸誌『アトランティック・マンスリー』に掲載される予定だった。
ところが当時の編集長ホレス・スカッダーは「自分が感じたmiserableな感情を、ほかの人間に味会わせることなど、とうてい容認できない」として、掲載を断るのである。
結局1892年の『ニュー・イングランド・マガジン』に掲載される。
発表直後から大きな反響が巻き起こり、ボストン在住の医師は「こんな小説は書かれるべきではなかった。読んだ者はみな、まちがいなく正気を失ってしまう」と抗議したらしい。
そののち、詩集や、1898年に『女性と経済』(原題"Women and Economics")を発表。この作品は七カ国語に翻訳され(日本では未訳)、国際的に高名な作家となる。
1900年、従兄弟のヒュートン・ギルマンと結婚、それから三十年近くに渡って、作家として多くの書を著す。なかでも1916年に出版された"Herland"(強いて訳せば「彼女の土地」とでもいうことになるのだろうか)は、フェミニズム的ユートピアを描いた作品と言われている(未見のため詳細は不明)。
1932年、乳癌を患っていることが判明。三年後、75歳で自殺する。
今日では、フェミニズム運動に関わった最も重要な著述家のひとり、という評価のされかたをしており、ある女性団体が行った1993年の調査では、20世紀にもっとも大きな影響を与えた女性のうちの第六位に選ばれている。
2.作品について
最初期の作品である『黄色い壁紙』は、こうしたシャーロット・パーキンス・ギルマンの実生活をもとに書かれたものだ。
ギルマン自身が語るところによれば、その徹底した「安静療法」のために、彼女の精神状態は、ほとんどボーダーラインまでいった、という。そののち、賢明な友人の忠告を容れて、一切の療法を止め、仕事と、日常生活、家事や育児を始めた。すると力がよみがえってきた、と彼女は書いている。
彼女はこの『黄色い壁紙』を、まず自分に安静療法を課した医師に送った。ところがその医者は、その療法こそが患者を狂気に追い込むものであるということを、決して認めようとはしなかった、という。
だが後年、この医師も、親しい友人に、自分はあの本を読んで、治療法を改めた、と語ったらしい。
ギルマンは「なぜわたしは『黄色い壁紙』を書いたか」(1913)という一文を、このことばで締めくくっている。
「わたしは人を狂わせるためにこの書を書いたのではない。そうではなくて、狂気に追いやられそうな人々を救うために書いたのだ。そして、その効果は実際にあった」
今日では、この作品はもっぱらフェミニズム的な観点から読まれ、解釈されている。
19世紀後半の、中流階級の女性は、夫の監視下におかれ、使用人の監督と、家事と育児以外のしごとは認められていなかった。徹底して保護される反面、与えられた自由というのは、非常にささやかなもの。
たとえばケイト・ショパンの『めざめ』なども、こうした当時の女性、自立を求めながら得られず、崩壊していく女性が描かれている(こちらはまったくホラー的な要素はない)。
……いや、いいんですけどね。わたしはあんまりそういう読み方が好きじゃないってだけで。ごめんなさい、フェミニズムの活動家のみなさん、石を投げないでください。
ただ、これは「狂気」か「超自然」か、というと、もちろん「狂気」のほうにウェイトがかかっているのは言うまでもないのだけれど、やはり「超自然」という要素をまったく読みとばしてしまうと、それはちょっともったいないような気がするのだ。
壁に、こすれた筋がついている。
その筋がなんでついたかは、お読みになったみなさんは、よくおわかりでしょう。
だが、だれがつけたんだろう?
なんでその部屋はそんなに荒れていたのか?
その部屋には、確かに子どもたちがいたのだ。その子どもたちはどうなったのか。
荒れた温室は?
どうして長い間、借り手がいなかったのか?
なにか、でたのかも。
後ろ、ちょっと気になりませんか?
向こうでカサカサ、って音が聞こえたみたいじゃない?
振り向いても大丈夫?
そこに……。
女が這っていたりして。
(この項終わり 新ネタ考えてない……)
よろしくお願いします。
>壁に、こすれた筋がついている。
その筋がなんでついたかは、お読みになったみなさんは、よくおわかりでしょう。
だが、だれがつけたんだろう?
なんでその部屋はそんなに荒れていたのか?
その部屋には、確かに子どもたちがいたのだ。その子どもたちはどうなったのか。
荒れた温室は?
まず、「筋」について。
最終パラグラフの二行目
「だけどここだと、床の上は這いやすいし、肩の位置がちょうど、あの長い筋にぴったりくる。だから迷わないですむ。」という部分と、
最終行
「だからわたしはそこへくるたびに、這いながら男を乗り越えていかなければならなかった!」というところから、この筋は「わたし」が部屋のなかを何周も這いまわりながらつけていたことがわかります。つまり「なんで」の答えは、「這うことによって」です。
では、だれが?
少なくとも確かなのは、「最後の日」に、壁紙に筋を作っていた(あるいは濃くしていた)のは、「わたし」です。
「最後の日」以前にこの筋をつけたのはだれなのか。
いくつかの可能性が考えられると思います。
少しずつ精神に破綻を来しつつあった「わたし」が、無意識につけた。
部屋の前の住人がつけた。
「壁紙の中の女」がつけた。
ほかにもあるかもしれません。
論説文、あるいは評論というのは、筆者がある問題意識を持ち、それを解くために、調べ、考えた結果です。多くの場合、本のなかにはその答えしか書いてありませんから、読み手はまず、序文とか、冒頭部分とかを良く読んで、「問いはなんだろう」と見つけておかなければなりません。その問いを見つけて、答えを知る。そういうのが、評論の読み方です。
いっぽうで、フィクションというものは、そのように明確に、問いがあり、答えがある、というものではありません。あえていうなら、全体が問いであり、全体が答えなんです。
だから、問いも答えも自分でみつけていかなければならない。
推理小説は、はっきりしてますよね。
誰が殺したか。なんで殺したか。すみずみに至るまで、この最後の答えに向かって、伏線がはりめぐらされている。
1.「出来事Pが起こる」
2.「Aはそれに対してひどい不利益を被る」
3.「Pの原因を作ったBを憎む」
4.「BをAは殺害する」
この流れをひっくり返しているのが推理小説です。
けれども、多くの物語、とくに、二十世紀に入ってからの小説は、1→2→3まで来たところで終わります。憎んでどうしたか、は、読み手にゆだねられていることが多いんです。なかには、1と2だけがぽんぽんと投げ出されているもの、3だけがあって、1と2がよくわからないもの、なかには4だけのものもあります。
そういうとき、わたしたちがつづきを考えなければなりません。
この「黄色い壁紙」でもそうです。
>>だれがつけたんだろう?
>>なんでその部屋はそんなに荒れていたのか?
>>その部屋には、確かに子どもたちがいたのだ。その子どもたちはどうなったのか。
>>荒れた温室は?
これはわたしが作った問いです。
こんなことは、作品を何回読み返しても、わかりません。
だから、読解力の問題ではないんです。
できるだけ、おもしろい問いを考える。
作品から離れるのではなく、寄り添いながら、おもしろい答えを出してみる。
そういうのが、フィクションの読み方なんだとわたしは思っています。
直接の答えになってなくて、ごめんなさいね。
書き込み、どうもありがとうございました。
また遊びにきてください。
あと、なによりも、「黄色い壁紙」を見つけて、読んでくださって、そうして、これはどういうことなんだろう、って考えてくださって、ほんとうにありがとうございました。
また遊びに来てくださいね。
それから、これはどういうことなんだろう、って思うことがあったら、また書き込み、してくださいね。
>あえていうなら、全体が問いであり、全体が答えなんです。
>だから、問いも答えも自分でみつけていかなければならない。
ってとことか。
>できるだけ、おもしろい問いを考える。
作品から離れるのではなく、寄り添いながら、おもしろい答えを出してみる。
ってとこなんか。
「「読むこと」を考える」は、忘れたころに突然、感想・質問など書くかもしれませんので。数ヶ月後とか、数年後とか(ぉぃ)
「読むこと」を考える、っていう項目に。
それがね、最近、某所でとある質問に回答してたらね、ふっと思いついたんです。
っていうか、正確には、「思い出した」が正しい。
アドラーの『本を読む本』っていう本のなかにあったんですが。
ただ、フィクションのほうにしても、アドラーは「著者の伝えたいことは何か」という問題意識で要約しながら読め、といっていて、そこはちょっとずらしています。
そうですね。そこらへんのこと、どこかに書きます。
どういう形で書くか、また頭をひねりますが。
「ものを食べる話」も、近いうちに補筆するつもりだし。たぶん「読むこと」のなかにもう一章もうけることになるかもしれません。
なんにせよ、そのときは報告しますので、またよろしく。
自分は、丸善出版株式会社の企画編集部に所属しております、小澤和宏と申します。
弊社では現在「Encyclopedia of Disability」という英文の事典の日本語版を制作しております。
そこにシャーロット・パーキンス・ギルマンの「The Yellow Wallpaper」が引用されており、その翻訳を探していた所、こちらのサイトを発見いたしました。
急なお願いで大変恐縮なのですが、このサイトに掲載されている「黄色い壁紙」の転載許可をいただけないでしょうか。
各種資料、契約、その他詳細等は、ここでは書ききれませんので、もしご検討いただける場合、お手数をおかけしますが下記メールアドレスまでご連絡ください。
kazuhiro.ozawaアットマークmaruzen.co.jp
(申し訳ございませんが迷惑メールを避けるため改変してあります。「アットマーク」を半角記号にて入力し直してください。)
ご多忙のことは存じますが、なにとぞご検討くださいますようお願い申し上げます。
メールお送りしました。
なにとぞよろしくお願いいたします。
お力添え頂きました「Encyclopedia of Disability」(邦題:「障害百科事典」)、本年1月16日に無事発売の運びとなりました。
ブログコメントにて大変恐縮ですが、管理人様のご尽力を賜りました事、改めて厚く御礼申し上げます。
今年一年のご多幸とご健康を心よりお祈り申し上げます。