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黒龍江省へ来た日本人開拓団の記録

2010-07-20 11:36:41 | ハルピン恒星学院便り
http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/kougi/kindai_kyozai/M15Manshu_b.GIF

 1930年代~1940年代、当時満州国と称していた土地に日本は開拓団を送り込んでいた。こ
れはその規模や送られた場所を認識しておきたいと思ってまとめたメモである。世代的には
その時代の記憶を直接持つ人は少なくなっているが、哈儿濱に赴任する者として認識してお
きたいと思った。日本語クラスの受講生の中にその地域からの学生が少なくないからであ
る。(メモ程度の情報。研究ノートではない。)


1932 屯田兵的武装移民 1932年 423人     
第二次 450人 など 佳木斯と周辺 樺南県
             ~第五次まで
1934 298戸 綏棱県王栄廟 43戸 155人 阿城県に 天理教集団移民団
1934年 日本人 60万人 / 満州国
1935年 花嫁 130人 千振村(佳木斯の南)に
1936年 第五次集団移民団 950人 牡丹江、密山県、永安屯、朝陽屯
1936年 訓練所 200人 
1937-1942 本格的移民 佳木斯周辺から北満全般に
1937年 6月 第六次集団移民団10団 牡丹江の6県に
    7月 第六次静岡村移民団 850人 鶴立県に (佳木斯の近く)
    7月 第六次集団移民団7団 湯原に (佳木斯の近く)
1938 2月 第七次集団移民団 783人 吉林省舒蘭県に
      “ 集団移民団 1,137人 吉林省、鉄力、牡丹江などに
                 (別の資料: 鉄力に開拓団 1,316人)
                 ( “  : 綏花に農民開拓団 104人)
鉄力 移民合計 788戸 5,575人
1941 綏花 41人
1942 入植土地のうち32%は既耕作地、3,200戸の中国人農家から根こそぎ農地を取上げ

後期 - - 末期にかけて 青少年義勇団
1938年 2,876人 鉄力
1941 10/1 17,000人
(1941年12月末まで第一期五ヵ年計画で 8万5086戸 満州への移民)
1942 10/1 12,000人 
1943 10/1 9,800人
1944 6/1 12,600人
1945 6/1 12,300人
1945 開拓団送り出し中止

龍江県への入植(チチハルが中心都市) 
-1941年 389人 1942- 1,930人

開拓団 800団(義勇団含む) 225,585人  46,000人 死亡
                     36,000人 行方不明

敗戦直前 1945年5月 在満開拓移民総勢 33万人 (一般開拓民 22万
                           義勇隊 11万)

敗戦時日本人人数 85万人(軍人除く) 人口比率は圧倒的に中国人が多かった 
 当時 中国在住の日本人の14%が開拓民 残留孤児の両親の68%が開拓団員 

1945 / 8 / 9 ソ連軍 満州国に侵入 関東軍潰走 開拓団犠牲に
1945 / 8 / 12 麻山で女子供 421人自決 (麻山は鶏西の西南西に位置する) 

 1 開拓団が入植したのは、必ずしも未開拓地ではなく、中国人の農家から取り上げてい
たこと、2 当時中国の東北地方は今日ほどの人口でなかったにせよ、中国人が既に数多
く居住していたこと、3 開拓団は広大な土地をあてがわれ、自分たちの手で耕作し切れず
中国人農民を小作にしていた、などのことが書籍を通してわかった。既にかなり過去のこと
とは言え、複雑な思いである。謹んで心して第二年を迎えたいと思っている。


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