daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

蛙に人間を感じるなら

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合

人類は「蛙」にどんなイメージを持って・暮してきたのでしょうか。

蛙が飛込んだと捉えた時、そこには必ず水がなくてはならないはず。
「空井戸でも好いじゃないか」と考える人間は滅多にいないでしょう。
「蛇の口に飛込んだ」「ハイウェイに飛込んだ」とも考えないでしょう。
なぜ、そう言いきれるかと云うと、蛙を仲間と位置づける故にです。

西洋人はイザ知らず、日本人に付いてのみ申せば、そういう事です。
農耕民族・水耕栽培の日本で蛙は益虫であり、人間の友だちでした。
水田に涌く「ぼうふら」を愛でずとも、蛙の鳴き声は愛でられます。
蛙は古より、私たち人間の生活圏に接して・暮してきたのでしょう。

そんな蛙をイソップは寓話の中に数多く取り入れて・語っています。
「蛙と牛」「少年と蛙」「鼠と蛙」等…多くの教訓があります。
アンデルセン童話「親指姫」には醜い蟇蛙(ひきがえる)が登場し、
グリム童話「蛙の王子」は子供に愛を育むとして親しまれています。

日本でも掛け軸「柳に蛙」の蛙には人間くささを感じさせられます。
三すくみ「蛙・蛇・ナメクジ」や地雷也の蛙は絶対に欠かせません。
また「蛇に睨まれた蛙」に蛇を敵と感じる人間の仲間のイメージが、
諺「蛙の面に小便」には厚顔無恥なふてぶてしい態度が感じられる。

騒々しくて・傲慢で・欲深く、時に卑怯で、腰抜けで何とも人間的。
鳥獣戯画に描かれている蛙は、実に人間そのものではありませんか。
蛙のイメージは、人類のDNAにまで組み込まれているに違いない。
蛙に親しみを感じた芭蕉が選び、世人が納得する場所はどこかしら。

空井戸でなく、ハイウェイでなく、蛇の口でなければ、どこかしら。
イソップは「二匹の蛙」で深井戸も渇いた地も拒否し・嘆いている。
蛙にも人類にも奇麗な水辺こそが欠かせないと言いたかったのです。
正に、文明に荒らされる前の水辺こそは蛙の平安の棲み処なのです。

荒らされていない古池こそは蛙が安心して生息できる場所なのです。
古池に蛙が遊び・泳ぎ・昼寝しているのを見て、人は安らぐのです。
俳句は正に、健康で・安らかに・幸せに・仲良く生きる詩なのです。
そう捉える時『古池や』に希望・平和・自然との共生の詩が聞える。


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