蛇のように賢く、鳩のように素直に
望月 修
わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。(マタイ一〇・一六)
神がお遣わしくださった御子イエス・キリストは、私たちの救い主です。信仰者である私たちは、その救いを信じ、その恵みによって、この世での生活を神の国が到来するまで続けます。
冒頭の言葉は、主イエスが、弟子たちに、ご自分による救いを福音として伝道するように命じられた際に語られたことの一つです。私たちも心得てよいことでありましょう。何故なら、信仰者である私たちもまた周囲の者から理解されず、嘲られたり、嫌がらせを受けたりするなど、辛い思いをさせられる時があるからです。
目も耳も弱く、嗅覚も利かない「羊」は、「狼」に出会ったら、一溜まりもありません。しかも、狼の「群れ」です。主イエスに救われ、その恵みに生きる私たちは、そのような中へと「送り込まれる」ようなものです。
この世は、神を知ろうとはしませんし、主イエスについて関心もありません。信仰生活を阻む力や仕組みが、そこかしこで働いています。礼拝を守るだけでも、内に、外に、誘惑があります。信仰を伝えることも、たやすくありません。誰よりも親しいと思っている家族にも理解されないことがあります。かつては、信仰者に対して、あからさまな嘲りがありました。信仰を持つことで、かえって、世渡りに不利になることがありました。
「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」。冒頭の言葉を引き継ぐかのように、主イエスは、このあとのところで語っておられます(二二b)。いろいろな法律に守られている現在の私たちには関係のないことでしょうか。しかし、主イエスによる救い、つまり福音を伝えることが簡単になったわけではありません。反対されることが少なくなり、信仰を持つことが自由になっても、福音を信じようとする人は少ないのです。豊かになったことで福音を伝えることが難しくなったという面もあるのではないでしょうか。主イエスに救われ、その恵みに生きる私たちが、この世に遣わされていることがどういうことなのか考えざるを得ません。
当時の信仰者たちは、同胞のユダヤ人たちやローマ帝国からも迫害を受けました。信仰者は、従来の教えや慣習、秩序を乱す者とみなされ、信仰を貫くために家族との関係を断ち切らざるを得なかった者たちもいました。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」には、当時の権力者の闘争を反映していると言われています。また、家族同士であっても、敵と味方に分かれて戦争に参加することがありました。主イエスは、そのような社会情勢を反映して語っておられるのです。
これらと同じようなことが、主イエスによる救いを福音として伝える際に起こりえることを覚悟しなければなりません。賢く立ち振る舞うこと、しかし素直であることが求められています。私たちは、この世が、神を見失っている世界であることを知っています。神に背き逆らい続ける「罪」に支配された世界です。それに対して、主イエスに、罪からの救いがあり、祝福があり、本当の命があり、本当の幸いがあることを知っています。蛇のように「賢く」、鳩のように「素直に」とはそういうことであって、「蛇のように」とか「鳩のように」が、どういことなのかに拘る必要はありません。主イエスに対する信仰を貫くことです。私たちは、この世のものでしかないものを、この世の人たちがするように求めません。私たちは、主イエスに寄り頼みます。そのような信仰者に、神は、聖霊を注いで、力と勇気と希望、そして、愛を与えてくださいます。
望月 修
わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。(マタイ一〇・一六)
神がお遣わしくださった御子イエス・キリストは、私たちの救い主です。信仰者である私たちは、その救いを信じ、その恵みによって、この世での生活を神の国が到来するまで続けます。
冒頭の言葉は、主イエスが、弟子たちに、ご自分による救いを福音として伝道するように命じられた際に語られたことの一つです。私たちも心得てよいことでありましょう。何故なら、信仰者である私たちもまた周囲の者から理解されず、嘲られたり、嫌がらせを受けたりするなど、辛い思いをさせられる時があるからです。
目も耳も弱く、嗅覚も利かない「羊」は、「狼」に出会ったら、一溜まりもありません。しかも、狼の「群れ」です。主イエスに救われ、その恵みに生きる私たちは、そのような中へと「送り込まれる」ようなものです。
この世は、神を知ろうとはしませんし、主イエスについて関心もありません。信仰生活を阻む力や仕組みが、そこかしこで働いています。礼拝を守るだけでも、内に、外に、誘惑があります。信仰を伝えることも、たやすくありません。誰よりも親しいと思っている家族にも理解されないことがあります。かつては、信仰者に対して、あからさまな嘲りがありました。信仰を持つことで、かえって、世渡りに不利になることがありました。
「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」。冒頭の言葉を引き継ぐかのように、主イエスは、このあとのところで語っておられます(二二b)。いろいろな法律に守られている現在の私たちには関係のないことでしょうか。しかし、主イエスによる救い、つまり福音を伝えることが簡単になったわけではありません。反対されることが少なくなり、信仰を持つことが自由になっても、福音を信じようとする人は少ないのです。豊かになったことで福音を伝えることが難しくなったという面もあるのではないでしょうか。主イエスに救われ、その恵みに生きる私たちが、この世に遣わされていることがどういうことなのか考えざるを得ません。
当時の信仰者たちは、同胞のユダヤ人たちやローマ帝国からも迫害を受けました。信仰者は、従来の教えや慣習、秩序を乱す者とみなされ、信仰を貫くために家族との関係を断ち切らざるを得なかった者たちもいました。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」には、当時の権力者の闘争を反映していると言われています。また、家族同士であっても、敵と味方に分かれて戦争に参加することがありました。主イエスは、そのような社会情勢を反映して語っておられるのです。
これらと同じようなことが、主イエスによる救いを福音として伝える際に起こりえることを覚悟しなければなりません。賢く立ち振る舞うこと、しかし素直であることが求められています。私たちは、この世が、神を見失っている世界であることを知っています。神に背き逆らい続ける「罪」に支配された世界です。それに対して、主イエスに、罪からの救いがあり、祝福があり、本当の命があり、本当の幸いがあることを知っています。蛇のように「賢く」、鳩のように「素直に」とはそういうことであって、「蛇のように」とか「鳩のように」が、どういことなのかに拘る必要はありません。主イエスに対する信仰を貫くことです。私たちは、この世のものでしかないものを、この世の人たちがするように求めません。私たちは、主イエスに寄り頼みます。そのような信仰者に、神は、聖霊を注いで、力と勇気と希望、そして、愛を与えてくださいます。