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蛇のように賢く、鳩のように素直に

2024年07月20日 | 説教
蛇のように賢く、鳩のように素直に
           望月 修

 わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。(マタイ一〇・一六)

 神がお遣わしくださった御子イエス・キリストは、私たちの救い主です。信仰者である私たちは、その救いを信じ、その恵みによって、この世での生活を神の国が到来するまで続けます。
 冒頭の言葉は、主イエスが、弟子たちに、ご自分による救いを福音として伝道するように命じられた際に語られたことの一つです。私たちも心得てよいことでありましょう。何故なら、信仰者である私たちもまた周囲の者から理解されず、嘲られたり、嫌がらせを受けたりするなど、辛い思いをさせられる時があるからです。
 目も耳も弱く、嗅覚も利かない「羊」は、「狼」に出会ったら、一溜まりもありません。しかも、狼の「群れ」です。主イエスに救われ、その恵みに生きる私たちは、そのような中へと「送り込まれる」ようなものです。
 この世は、神を知ろうとはしませんし、主イエスについて関心もありません。信仰生活を阻む力や仕組みが、そこかしこで働いています。礼拝を守るだけでも、内に、外に、誘惑があります。信仰を伝えることも、たやすくありません。誰よりも親しいと思っている家族にも理解されないことがあります。かつては、信仰者に対して、あからさまな嘲りがありました。信仰を持つことで、かえって、世渡りに不利になることがありました。
 「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」。冒頭の言葉を引き継ぐかのように、主イエスは、このあとのところで語っておられます(二二b)。いろいろな法律に守られている現在の私たちには関係のないことでしょうか。しかし、主イエスによる救い、つまり福音を伝えることが簡単になったわけではありません。反対されることが少なくなり、信仰を持つことが自由になっても、福音を信じようとする人は少ないのです。豊かになったことで福音を伝えることが難しくなったという面もあるのではないでしょうか。主イエスに救われ、その恵みに生きる私たちが、この世に遣わされていることがどういうことなのか考えざるを得ません。
 当時の信仰者たちは、同胞のユダヤ人たちやローマ帝国からも迫害を受けました。信仰者は、従来の教えや慣習、秩序を乱す者とみなされ、信仰を貫くために家族との関係を断ち切らざるを得なかった者たちもいました。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」には、当時の権力者の闘争を反映していると言われています。また、家族同士であっても、敵と味方に分かれて戦争に参加することがありました。主イエスは、そのような社会情勢を反映して語っておられるのです。
 これらと同じようなことが、主イエスによる救いを福音として伝える際に起こりえることを覚悟しなければなりません。賢く立ち振る舞うこと、しかし素直であることが求められています。私たちは、この世が、神を見失っている世界であることを知っています。神に背き逆らい続ける「罪」に支配された世界です。それに対して、主イエスに、罪からの救いがあり、祝福があり、本当の命があり、本当の幸いがあることを知っています。蛇のように「賢く」、鳩のように「素直に」とはそういうことであって、「蛇のように」とか「鳩のように」が、どういことなのかに拘る必要はありません。主イエスに対する信仰を貫くことです。私たちは、この世のものでしかないものを、この世の人たちがするように求めません。私たちは、主イエスに寄り頼みます。そのような信仰者に、神は、聖霊を注いで、力と勇気と希望、そして、愛を与えてくださいます。


ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

2024年07月20日 | 説教
ただで受けたのだから、ただで与えなさい
                    望月 修

 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ一〇・五ー八)


 礼拝へと招かれ集められた私たちは、聖霊の導きのもとに神の言葉によって養われます。神の御子イエス・キリストの救いにあずかり、その恵みのもとに新しい命を与えられるのです。その礼拝を終え、私たちはこの世へと派遣されます。
 日常の生活へと戻るに違いありません。しかし、遣わされたその場所で、どのような在り方、生き方をするかであります。そのことで、主イエスがお命じになっておられることを冒頭の箇所に読むことができます。
 主イエスは、「異邦人の道に行ってはならない」と命じておられます。「サマリア人の町に入ってはならない」とも、言っています。
どちらも、神の救いを正しく受けようとしない人々のことを、ここで、言っておられるのです。自分の力を過信している人々です。神の恵みを、そのまま恵みとして受けようとしないのです。
 「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と命じておられます。こちらは、神の救いを、今、必要としている人々です。それなら、すべての人とも言えるのですが、神の恵みを、割引せずにそのまま受ける準備のある人々です。既に読みましたところでは、「山上の説教」における神の祝福を受けようとする人々のことになります。その人々というのは、結局、神の支配を信仰をもって受け入れる人々のことだからであります。
 そういう人々に、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と、主イエスは命じられます。主イエスによる救い、「福音」を伝えることです。神に背き逆らい続ける私たちですが、主イエスによって、つまり、人となられた神の御子によって、その罪が贖われ赦されるとの喜びの使信です。神の祝福として、体の復活、永遠の命が与えられるとのメッセージです。神が御子において成し遂げてくださった事実を福音として伝えるのです。それが、『天の国は近づいた』と宣べ伝えることであります。
 それに続く「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」は、「天の国」のしるしであります。これらの権能は、神の支配のもとで、最初の弟子たちに特別に与えられた賜物でした。私たちにとって、大事なことは、主イエスに見出すことのできる神の支配であります。目に見えるしるしや、奇跡が起こされるといよりも、主イエスが救い主であることで注がれるている恵みであります。目に見えないかもしれません。しかし、力ある神の支配は、救い主イエス・キリストにおいて、この世界に及んでいます。私たちの罪が招き寄せた悪や死の力そして諸霊から私たちは贖われます。人となられた神の御子の犠牲に基づく贖罪の恵みは、何の条件も資格もなく、更に言えば、誰彼無しに、注がれています。つまり、ただで受けることができます。
 そこで、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」であります。神の恵みは、何の条件も働きもなくても、ただで受けることができるのです。だから、あなたがたも、主イエスによる救いを、ただで伝えなさいであります。
 神の恵みを、そのまま恵みとして伝えることです。主イエス御自身を伝えることだ、と言ってもよいでしょう。教えというよりも、救いを伝えるのです。その恵みを伝えるのです。それは、主イエス御自身を相手に伝えることであります。私たちが週毎に捧げています礼拝に一緒に参加することがいちばんよいでありましょう。礼拝に誘うことです。その機会を得るために祈り続けましょう。

主は、私たちの羊飼い

2022年09月17日 | 説教
主は、私たちの羊飼い
          望月 修

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(マタイ九・三五ー三六)


 主イエス・キリストは、町という町、村という村を行き巡って、「御国の福音」を宣べ伝えました。「御国」とは「神の国」の別の言い方です。「福音」とは、神による救いです。神が支配しておられるのであり、神が救ってくださるのであります。
 神に逆らい背いているために、神の恵みを見失っていた私たちです。そのような私たちが、神がお遣わしくださった御子である主イエス・キリストによって、救われ、再びその恵みにあずかることができるようになったのであります。それに伴うしるしとして、「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」のでした。
 冒頭の聖書の言葉は、主イエス・キリストのなさった伝道が、凝縮されて描かれている、と言ってよいでしょう。主イエスは、神の国、つまり、神が支配されることでもたらされる救いとその恵みとを、教えと力あるわざとによって、明らかにされたのであります。
 その救い主からご覧になられた私たちの様子は、どんなであったでしょう。主は「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(三六)のです。私たちの目には、必ずしも、そのように見えていないかもしれません。見た目にはそうでなくても、主イエスからご覧になられた、私たち人間の隠すことのできない、ありのままの姿であります。
 特に「憐れむ」には、可哀想と思うだけでなく、本来の在り方を見失っている者に本来の在り方を取り戻すことができるようにするとの強い意志が伴っている、と言われています。それは、ご自分の立場を捨ててまで、私たちに関わり続け、ついにはご自分を犠牲にされて救おうとなさる主イエスの姿勢そのものであります。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ二・六ー八)との聖書の言葉を思い起こすことができます。
 「ペトロの手紙一」にも、このように記されています。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(二・二四ー二五)。
 神が、救い主を介して注いでおられる、このような憐れみを、何の値引きもなしに受けることが、信仰であります。
 旧約聖書の「詩編」は、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(詩編二三・一ー四)と歌っています。
 私たちの羊飼いである主イエス・キリストがお語りになられ、なさってくださったことに明らかにされ示されています信仰の道を、お互いに励まし合いながら、歩んでまいりたいと思います。

どのようなときも主をたたえる

2021年07月31日 | 説教
どのようなときも主をたたえる
          望月 修

 悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。(マタイ九・三二ー三三)


 主イエスによって、二人の目の見えない人がいやされると(九・二七ー三一)、今度は「口の利けない人」が連れられて来ました。「口の利けない人」について「悪霊に取りつかれて」と記しています。この者もまた主イエスによっていやされたのであります。
 「目が見えない」二人がいやされたのは、私たちは本当のことが見えていないということでした。「口の利けない」人についてはどうでしょうか。いろいろなことを知って話すことができても、実は本当に語るべきことを知らないでいるのではないでしょうか。
 「悪霊に取りつかれて」口が利けなくなっているのです。神がすべてを支配しておられるのに、その事実を疑わせ、その恵みを信じられなくさせるのです。そして、神を喜び称える言葉を人々から奪うのであります。
 悪霊が主イエスに敵対するのは、主イエスが神の支配を明らかにするために、神から遣わされて来たからです。しかも、神の支配は、主イエスの十字架の死と復活において、私たちを贖われることに明らかにされるのです。主イエスへの信仰が求められます。悪霊に象徴される悪しき力は、神による救いを疑わせ、人々を不信仰に至らせるために手段を選びません。病や障害や災害ばかりでなく、人の知恵さえ巧みに用います。その目的は、人々に神を礼拝させないようにすることにあります。
 ここでは、主イエスによって「悪霊が追い出され」いやされたと告げています。彼は「ものを言い始め」ました。悪霊が追い出されることによって、本当のことが判り、それを伝えることができるようになったのです。その意味では、私たちの住む世界は、主イエスにいやされるまでは、本当のことを見ることも、聞くこともできずにいる、と言ってよいでしょう。
 たわいないトーク番組がテレビをにぎわせています。少しは真面目と思われるようなことであっても、実は誰もが本当のことが見えていないし、したがって、本当のことを語ることができずにいるのです。いろいろと評論する人たち、あるいは識者と言われる人たちによる討論にしても、そうです。
 信仰者は、判らないことについては、神にお任せすることができます。そのうえで真実を探求できるのです。そこに神を信じる者の安心があります。それに対して、神を信じることがなければ、私たちは悪霊に惑わされ翻弄されることになります。悪霊は、私たちに神を信じさせないようにするだけでなく、私たちを不安へと掻き立てます。不安に掻き立てられた人々は、善悪の判断がつかなくなると言われています。多くは判らないままだけれども、神は、主イエスによって、間違いなく救ってくださる。その確かなことが見えている、知っているということで、私たちは確信をもって、その事実(「福音」)を人に語ることができるようになるのであります。
 こうして、主イエスによって、口の利けない人がいやされました時に、人々は驚嘆して「こんなことは、今まで、イスラエルで起こったためしがない」と言ったと告げています。「フィリピの信徒への手紙」には、「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(フィリピ一・九ー一一)とあります。主イエスによって、神による支配と救いとを悟らされ、この口もまたいやされて、どのようなときにも神を称えることができるようにしていただこうではありませんか(詩編三四・二参照)。

主イエスが見えるようになる

2020年11月18日 | 説教
 イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。(マタイ九・二七ー三〇a)



 主イエスの御前に、「二人の盲人」が登場します。見えるようにしていただきたいと言いながら、主イエスが赴いた家にまでついて来たのです。
 ここを読んで気がつきますことは、私たちも、ここに登場する「盲人」と同じではないかということです。それと言うのも、肉の目は見えていても、本当のことが見えていないからです。そのために、主イエスが見えないでいる、というのが、私たちではないでしょうか。
 「ヨハネによる福音書」において、主イエスは、「『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ九・四一b)と仰せになっています。見えていると思って、いろいろと言い張るところに、私たちの問題があります。誰にでもある思い上がりや傲慢さを、指摘しておられるです。大切なことは、全部が見えているわけではない、ということに気がつくことでありましょう。そして、本当のことを見えるようにしていただくことではないでしょうか。
 御自分の「そばに寄って来た」二人の盲人に向かって、主イエスは言われました。「わたしにできると信じるのか」と。見えるようになることが主イエスにできると、あなたがたは信じているかと問われたのです。主イエスが、あえてこのように問われたのは、二人が主イエスの「そばに寄って来」ているのに、なお主イエスを見ることができないでいたからです。
 私たちも同じではないでしょうか。「主よ、主よ」と祈っているわりには、主イエスを見据えることができずにいます(マタイ七・二一参照)。主イエスを見損なっているのです。主イエスが与える救いと、私たちが求める救いが噛み合っていないのです。
 私たちが、神に逆らい背いている罪から救われる必要があります。見えると思い込んでいる私たちこそ、神の憐れみを願い主イエスについて行く信仰が求められているのであります。
 主イエスに救われて、世界は神の支配のもとにあること、その恵みが判るようになり、主イエスこそキリストであることが、見えるようになることであります。それが、私たちの誰にも必要なのです。
 「二人は、『はい、主よ』と言った。」と書いてあります。二人は主イエスが未だ見えないでいます。しかし、このように応じることで、主イエスが自分たちを見えるようにしてくださると信じたのです。ここに、祈りにおけるやりとりがあるのではないでしょうか。
 私たちは、主イエスを見ないで信じるのです。主イエスもまた、「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ二〇・二九)と仰っています。大事なことは、信仰を与えてくださる主イエスに認めていただくほどに、信じることではないでしょうか。
 信仰は、神がいらしゃるかどうかではありません。そうではなくて、神がこの自分を救ってくださるということであります。神に逆らい背いて来た私たちの罪が問われます。しかし、神は、その罪を、御子において、赦し、贖ってくださるのであります。それ故に、私たちは神のもとに立ち帰ることができ、神の祝福を受けることができるようになるのであります。
 主イエスに向き合うことのない信仰の生活というのはありません。それなのに、いつのまにか、自分のことや人のことばかり考えていないでしょうか。私たちは、あまりにも早く人のことを、言い過ぎていないでしょうか。人のことを思ったり、考えているにしても、ついには、主イエスに向かって祈ることです。そして、主イエスの「わたしにできると信じるのか」との問い掛けを聞き取り、それに対し、「はい、主よ」とお答することです。
 すべての人を救うために十字架についてくださった主イエスを、誰もがちゃんと見えるようにしていただくように、「わたしたちを憐れんでください」と言いながら、主イエスについて行くことの大切さが示されているのであります。