探険日誌

Nice to meet you( ´∀`)/
日々の出来事や週末の探険について綴りたいと思います。

菅生の滝

2011-10-01 | 探検
北九州市小倉南区道原にある
菅生の滝は
小倉北・南区を貫流する紫川の源流のうちの一支流、清滝川(滝口川)にかかる滝で、福智山系の尺岳の北東山腹に位置します。

菅生の滝は三段の滝からなっていて、一の滝の落差は30mで、北九州市で最大の滝です。

小倉は城下町で、1891(明治24)年には鉄道が開通し、1897(明治30)年9月第12師団が創設され、1898(明治31)年小倉に第12師団司令部が設置されると、小倉兵器支廠が設置されました。

小倉は商都・軍都として発展し、1900(明治33)年には市制が施行され、小倉市になりました。

人口の増加に伴い、上水道の設置の要望が高くなり、吉村長策佐世保鎮守府建築科長に調査設計を委嘱しました。

清滝川と畑川合流地点に水源貯水池築造を決め、1910(明治43)年に起工し、1911(明治44)年に竣工しました。

この道原貯水池はアースダムで、その堰堤下に道原浄水場が1912(明治45)年に竣工しました。

1913(大正2)年に給水が開始さました。給水人口は6万人で、篠崎に配水池を設けて、市内や郊外の5万人分を給水しました。

また蒲生に分水池を設けて北方の軍人1万人分を給水しました。

この当時の市域は小倉城下と長浜・平松浦で、現在の小倉北区の一部にしかなりません。

現在貯水池がある道原はその当時中谷村で、中谷村が小倉市に編入されたのは、1941(昭和16)年でした。道原浄水場からは現在も小倉南区の一部に給水されています。

菅生の滝周辺には、お地蔵さんが多数おかれています。


もしかすると瓜坊と出会える
かも知れませんよ。

頂吉林道脇の沢で

2011-08-15 | 探検
この前、久々に
小倉南区にある頂吉(かぐめよし)林道の脇にある沢で
鉱石探しをしました。
沢から登り、転石を確認しながら見ていると、廻りの石とは
まったく色が違う
えたいの知れないどす黒い
石。
なんじゃろーって思いながら
つかんでみた。

うわぁー重い。
大した大きさではない石なのに




その、どす黒い石の表面を
見て確認、すると
どうでしょう、何やら
キラキラ光るものがくっついて
いるではありませんか?



それで、岩石ハンマーで
叩いてみたら、火花を散らし
何度叩いても割れない。
ムカついて
力いっぱい叩いたら
岩石ハンマーの柄が折れて
しまいました。



どうにか担いでマイカーに
載せることができたので

自宅に持ち帰りまして
デカハンマーでわってみました。

なんとビックリ

黄鉄鉱の結晶がびっしりと

実は、このどす黒い石は
黄鉄鉱の塊だった。


どす黒い石の表面は空気に触れ
酸化し黒くなっていた。



その後、ある程度の大きさに
砕いて、コレクションの1つに
しています。



御所ヶ谷神籠石という史跡

2011-04-22 | 探検
「神籠石」とは何か
久留米の高良山にある列石が古くから「神籠石(こうごいし)」と呼ばれていたために、北部九州から瀬戸内海沿岸に分布する同種の遺跡も「神籠石」と名付けられました。
明治から大正時代にかけて、「神籠石」が何であるか論争が続きましたが、1960年代から始まった各地の神籠石の発掘調査で列石が土の城壁(土塁)の基礎であることが確認され古代の山城であることがわかりました。
「神籠石」とは本来神が降臨する磐座のことですが、すでに遺跡名として定着しており、近年では「神籠石式山城」とも呼ばれています。

築造の時期と目的
神籠石は築造の記録が残されていませんが、発掘調査で出土した土器などから7世紀の後半に築かれたと推定されます。
663年、百済救援のために朝鮮半島に派兵したわが国は白村江で唐と新羅の連合軍に敗退しました。敗戦後、唐、新羅軍の侵攻に備え防人とのろしを配置するとともに大野城、基肄城、金田城など山城を築き国防体制の強化を急ぎました。神籠石式山城もこの戦いの前後に国土防衛のために築かれたと思われます。

御所ヶ谷神籠石の構造
御所ヶ谷神籠石は
標高246.9mのホトギ山から西に伸びる尾根の主に北斜面に広がる遺跡です。城の外周は3kmで地形の険しいホトギ山頂周辺を除いて2km以上にわたって版築工法で土をつき固めて築いた高さ3~5mの土塁をめぐらせています。土塁が谷を渡る部分は排水口を備えた石塁が築かれます。7つある城門のうち中門には花崗岩の切石を巧みに積み上げ排水口を設けた巨大な石塁が残っています。城内には建物の礎石や貯水池の跡と思われる遺構、未完成の土塁などもあります。

自宅の近所にあるパワースポットでもあり、不思議な場所です。

定期的に伺ってます。


いつも思うのは、太古の人たちって、凄いパワフルだったんだなぁーっち思います。だって、その時代には、今のような重機もなく、技術もないと言われた時代に、今現在でも形として残ってるんですから、素晴らしいと思います。

専門学者は、この御所ヶ谷神籠石を明治時代から研究され今だに、何のために造ったのか?築かれた年代すらはっきりとはしてないのです。

専門学者は、城壁と判断しているようですが、おいらは、違うと思ってます。太古の時代、権力者がこの山に要塞を築いたと考えています。というのは、この辺りでは、ピラミッド型の方墳もあり、至るところに古墳が集中している所であり、実は、太古の時代、ここは、今の東京都のように人口が多く大都会だったんじゃないかなーっち思ってるんです。実際、つい最近、高速道路の工事で地中に埋まっていた史跡が発掘され話題を呼びました。どうやら平安時代の生活様式のものだったようです。
この辺りは、今は誰が見てもクソ田舎、じぃーとバァーしかいないような人口7万弱の田舎都市が実は、太古の時代には、推定で300~500万人いたと言われる位、遺跡や史跡などたくさん発掘されています。

おいらの住む場所は、探険好きな人には、たまんないところかも
知れませんね。