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平方録

無我夢中、一心不乱をどこかに落としてきちゃった

湊素堂老師は建長寺の管長と僧堂師家を18年お勤めになって、そののち建仁寺僧堂師家となり、さらに管長にも就任された方です。
私は建仁寺の僧堂でお世話になりました。
その素堂老師の「鎌倉十八年」という本がございます。
その中に「禅の味」という文章が載っています。
素堂老師は建長寺にお入りになる前には、和歌山県の串本にある無量寺というお寺の住職を務めていらっしゃいました。
そのころに串本の方から「和尚さん、私たちのお寺は禅宗だそうじゃが、禅てむつかしいんじゃろ」と言われたそうです。
訳の分からぬむずかしいことを禅問答みたいじゃないかとよく人に言われます。
地元の方に禅とはどのようなものか分かりやすく説明することは難しいことです。
しかし、素堂老師は「なんぞ知らん、禅とは皆さんの足元にころがっているのです。いや、皆さんの生活の中にあると言った方が当たっているでしょう」
と言われます。
どういうことかと言いますと、こういう分かりやすい例を出されています。
例えば「お裁縫に夢中になっているうちに、おひる(食事)の支度をする時間がとっくに過ぎていた」とか、「ここまで草刈らんならんと精出していて、フト、背伸びした瞬間にお腹が空いているのに気が付いた」など、「こんな無我夢中の心の状態に禅の匂いが漂っております」と。
老師はさらに「いやまさにこれこそ禅味満喫の姿なのであって無心の心境になり得た人は、禅の体験者であると言ってよろしいと思います」とまで仰せになっています。
更に「禅という言葉は印度の言葉(発音)がそのまま漢字になったもので、無我無心に通じる〈静かに思う》という意味でありますから、禅という言葉は知らなくとも、実際にそんな心境になり得る人は誰でも禅を心得た人というわけです」。
こんな言葉を何かで読んだことがあります。
「人間として最も美しい姿は、それぞれの人がその職業にふさわしい服装で、自分の仕事に打ち込んでいる時である」と。
一心不乱に正業に打ち込んでいる時は、力強い、人の命の生きがい、喜びをかみしめることができるのでしょう。
その打ち込んだ姿がまさに禅の姿なのです。

以上は鎌倉・円覚寺のホームページに毎日更新される横田南嶺管長の「管長のページ」の『禅ってなんですか?』からの抜粋である。
本文はもう少し長いが、思わず膝を打ちたくなったので、これでも長いとは思ったが、一部を引用させてもらった。

円覚寺に通って坐禅をさせてもらえていたのはちょうど1年前の2月が最後だった。
暖房のない大方丈で厳冬の寒さに胴震いさせられながらも坐っていた日々がやっと終わりかけ、これから日増しに暖かくなっていくと思った矢先、コロ公のお陰ですべての坐禅会が中止に追い込まれてしまって、いまだに続いている。

家で足を組み、目を半眼にしてじっと坐っていさえすれば、それが一つの坐禅の形だから、何も寺にこだわることもないのは分かっている。
しかし、修行の足りない身には禅寺そのものが醸し出している雰囲気というものも、ひとつのアクセントというか、味付けになっているのは間違いなく、ついついないものねだりに傾くのである。

そんな時にこの文書が目に留まった。
「膝を打ちたくなった」と書いたが、自分自身にも思い当たることがある。
例えば庭に這いつくばるようにして草むしりをしている時、何にも考えずに一心不乱になっていることにフト、気付く時がある。
ひょっとして禅でいうところの無心の境地とはこういうことなんだろうか…と漠然と思うことがあった。

思えば現役時代にも腹が減ったのにも気づかず、無我夢中で仕事を続けたことは数えきれないくらいあって、今となっては懐かしい。
でも改めて思い返すのは、最近のわが身に草むしり以外の一心不乱が消えつつあることだ。
このことについて、ちょっと反省しなきゃいけないなぁと、そっちの方がむしろ気になっている。

(見出し写真は庭のスイセン)

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