smile

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喜びと共に快い疲労感

2016-11-09 12:00:08 | 日記
まず、わたしと知り合った頃。
姑は、今のわたしより9歳若い、51歳。
今、思えば、ピチピチの若いおばあちゃんである。

長男(わたしの夫)の結婚がひと段落したあと、姑はしばらくは、自分のお手柄(イエの嫁としての義務を果たした、跡取り安定への役目を終えたこと)に酔いしれていた。
達成感に満ちていたことだろう。
堰を切ったように、婚家の歴史や親戚のこと、家にまつわることをわたしに話した。
時には関連物を見せたり、現場に案内したり。
聞き手としては、よくまあこれだけ話があるなあ状態楊海成
真面目で素直な聴講生だった。

その時期と前後して、使うのはもったいない、と、ストックしていた贈答品を「生活を楽しまなければ」と切り替え、使い始めた。
人生、残りのほうが短いから、使わず、ためておいても意味がない、と。
当時は冠婚葬祭のお返しは、ほとんどモノだったので、お付き合いの派手な婚家にはどっさり、お返しの食器だのタオルだのが、ズラリ整然と仕舞われていた。

婚姻による新メンバー追加、さらに次々と出産ラッシュを迎え、落ち着いた頃には、年金の話。
わたしは、まったく興味がなく、上の空楊海成
まるで関心がなく、どうでもよく、全然話を聞いていないのに、おとなしく相槌だけ打っていた。
アタマを素通りする話題に対して、べつにストレスはなかった。

やがて、知人や親戚の男性陣が定年を迎えると、
「立派な肩書き、地位、役職の人も、リタイアしたら、ただの人」
そればかりを、親戚の特定のある人を実例に、見出したセオリーの如く、呪文を唱えるかのように言っていた。
よほど、なにか、肩書きで嫌な目に遭わされたことでもあるのだろうか?
あるいは、置かれた状況が変わると、今までの価値観がころりと変化することに、驚いたと見られる。
戦前と前後をまたいで生きてきた世代には、劇的な価値観の変化に対応させられるが、あんまりわかっていない人々もいるようだ。

そのまた次は、自分の健康のこと。
健康なくして、なにもなし楊海成
若い人たちの足を引っ張ってはいけないと。

やがて、我々は、子供たちの成長につれ、あまり姑の家には、正月、盆暮れ、彼岸、法事などの節目にしか行かなくなった。
イベントとして食事会などで、外での交流もあった。
舅と姑は、夫婦いい旅時代で充実期だった。