既にどこかで読んだ詩である。つまり詩篇57:7-11と60:5-12が継ぎ合わされたもので、新しい詩篇ではない。ダビデの賛歌となっているが、第二巻にあるダビデの詩を誰かが捕囚期以降に編集したものではないか、と言われる。
57篇、60篇、それぞれ作られた背景が違う。時間的な順序としては、57篇が1サムエル記23章、ダビデがサウルにいのちを狙われていた時であり、60篇は、2サムエル記8章、ダビデがサウルに代わって王となり、王国を拡大成長させていた時代のものである。捕囚期後に、そのような詩篇を組み合わせて読んだ意図は、まずは、サウルから逃れて洞窟にいたダビデに、捕囚のイスラエルの姿を重ね、あり得ぬ捕囚からの解放を喜ぶ思いを詠ったのであろう(57章)。そして解放され、町を再建したイスラエルが、これからさらに繁栄する願いを、ダビデ躍進の姿に重ねたのではあるまいか(60章)。
実際、エレミヤやエゼキエルが預言したように、モアブ、エドム、ペリシテは、ユダのバビロン捕囚を喜び、ユダヤ人の敵となった歴史がある(エレミヤ47,48、エゼキエル35)。再びパレスチナに戻って来たユダヤ人たちは、ダビデがモアブ、エドム、ペリシテに勝利し、イスラエルを強国にした時代を思い起こしながら、自分たちのこれからにも主がかつての侮辱を跳ね返し、大いなる繁栄をもたらしてくださることを願い求めた、というわけである。だから、「神によって、私たちは力ある働きをします。神が私たちの敵を踏みつけられます」(13節)という文末のことばに編集者の全ての思いが集約されていることになる。
編集されたものにせよ、この詩篇の流れははっきりしている。第一にダビデは神を讃えている(1-6節)。戦いを前に、神を固く信頼し、賛美をもって朝を迎えようとしている。「私の心はゆるぎません」は、新共同訳では、「神よ、わが心は定まりました」である。ヘブル語のナコンは、詩文では、主に神を主語とし神が地を据えられた、定められたことを、語る際に用いられる。また、詩篇93:1では「世界は堅く建てられ、揺らぐことはない」の「堅く建てられ」にそのことばが使われている。つまり、心が主にあって定まり、堅くされたので、ゆらぐことがない、ということになる。神を賛美し、神に感謝できるのは、神が私たちの心になしてくださる素晴らしい御業の故である。神の恵みに素晴らしさ、神の右手の力強さを、味わい知ることが大切なのである。
第二に、ダビデは神に聴いている(7-9節)。神の語りかけに耳を傾けている。ダビデの賛美に応答するように、神は私たちの賛美に語りかけられる。神は、確かに、全地を支配しておられ、ご自身の権威を示される。イスラエルの民は土地なき者のようであったが、再び土地を所有した。あらゆる戦いに勝利をもたらすのは、神ご自身であって、私たちの力ではない。神はみこころのままに、物事のすべての向きを変えることが出来るお方である。その神に私たちは信頼するのである。
第三に、ダビデは神に祈っている(10-13節)。人ではなく、神にこそ期待していく。目に見えない神こそ、私たちの祝福の根源である。しかしいつでも、私たちは目に見えるものの後ろ盾をとって安心しやすい。誰か助けがいれば大丈夫だと考えてしまい安い。しかし、「人の救いはむなしい」。たとえ目に見える人の助けがなかろうと、神が共におられること自体に勝利がある。神を信頼してみよう。そこに望み得なき所に望みを見いだす秘訣もある。神の業が自分になされることをこそ願おうではないか。
57篇、60篇、それぞれ作られた背景が違う。時間的な順序としては、57篇が1サムエル記23章、ダビデがサウルにいのちを狙われていた時であり、60篇は、2サムエル記8章、ダビデがサウルに代わって王となり、王国を拡大成長させていた時代のものである。捕囚期後に、そのような詩篇を組み合わせて読んだ意図は、まずは、サウルから逃れて洞窟にいたダビデに、捕囚のイスラエルの姿を重ね、あり得ぬ捕囚からの解放を喜ぶ思いを詠ったのであろう(57章)。そして解放され、町を再建したイスラエルが、これからさらに繁栄する願いを、ダビデ躍進の姿に重ねたのではあるまいか(60章)。
実際、エレミヤやエゼキエルが預言したように、モアブ、エドム、ペリシテは、ユダのバビロン捕囚を喜び、ユダヤ人の敵となった歴史がある(エレミヤ47,48、エゼキエル35)。再びパレスチナに戻って来たユダヤ人たちは、ダビデがモアブ、エドム、ペリシテに勝利し、イスラエルを強国にした時代を思い起こしながら、自分たちのこれからにも主がかつての侮辱を跳ね返し、大いなる繁栄をもたらしてくださることを願い求めた、というわけである。だから、「神によって、私たちは力ある働きをします。神が私たちの敵を踏みつけられます」(13節)という文末のことばに編集者の全ての思いが集約されていることになる。
編集されたものにせよ、この詩篇の流れははっきりしている。第一にダビデは神を讃えている(1-6節)。戦いを前に、神を固く信頼し、賛美をもって朝を迎えようとしている。「私の心はゆるぎません」は、新共同訳では、「神よ、わが心は定まりました」である。ヘブル語のナコンは、詩文では、主に神を主語とし神が地を据えられた、定められたことを、語る際に用いられる。また、詩篇93:1では「世界は堅く建てられ、揺らぐことはない」の「堅く建てられ」にそのことばが使われている。つまり、心が主にあって定まり、堅くされたので、ゆらぐことがない、ということになる。神を賛美し、神に感謝できるのは、神が私たちの心になしてくださる素晴らしい御業の故である。神の恵みに素晴らしさ、神の右手の力強さを、味わい知ることが大切なのである。
第二に、ダビデは神に聴いている(7-9節)。神の語りかけに耳を傾けている。ダビデの賛美に応答するように、神は私たちの賛美に語りかけられる。神は、確かに、全地を支配しておられ、ご自身の権威を示される。イスラエルの民は土地なき者のようであったが、再び土地を所有した。あらゆる戦いに勝利をもたらすのは、神ご自身であって、私たちの力ではない。神はみこころのままに、物事のすべての向きを変えることが出来るお方である。その神に私たちは信頼するのである。
第三に、ダビデは神に祈っている(10-13節)。人ではなく、神にこそ期待していく。目に見えない神こそ、私たちの祝福の根源である。しかしいつでも、私たちは目に見えるものの後ろ盾をとって安心しやすい。誰か助けがいれば大丈夫だと考えてしまい安い。しかし、「人の救いはむなしい」。たとえ目に見える人の助けがなかろうと、神が共におられること自体に勝利がある。神を信頼してみよう。そこに望み得なき所に望みを見いだす秘訣もある。神の業が自分になされることをこそ願おうではないか。