【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

詩篇108篇

2016年10月30日 06時19分19秒 | 出エジプト記
 既にどこかで読んだ詩である。つまり詩篇57:7-11と60:5-12が継ぎ合わされたもので、新しい詩篇ではない。ダビデの賛歌となっているが、第二巻にあるダビデの詩を誰かが捕囚期以降に編集したものではないか、と言われる。
 57篇、60篇、それぞれ作られた背景が違う。時間的な順序としては、57篇が1サムエル記23章、ダビデがサウルにいのちを狙われていた時であり、60篇は、2サムエル記8章、ダビデがサウルに代わって王となり、王国を拡大成長させていた時代のものである。捕囚期後に、そのような詩篇を組み合わせて読んだ意図は、まずは、サウルから逃れて洞窟にいたダビデに、捕囚のイスラエルの姿を重ね、あり得ぬ捕囚からの解放を喜ぶ思いを詠ったのであろう(57章)。そして解放され、町を再建したイスラエルが、これからさらに繁栄する願いを、ダビデ躍進の姿に重ねたのではあるまいか(60章)。
実際、エレミヤやエゼキエルが預言したように、モアブ、エドム、ペリシテは、ユダのバビロン捕囚を喜び、ユダヤ人の敵となった歴史がある(エレミヤ47,48、エゼキエル35)。再びパレスチナに戻って来たユダヤ人たちは、ダビデがモアブ、エドム、ペリシテに勝利し、イスラエルを強国にした時代を思い起こしながら、自分たちのこれからにも主がかつての侮辱を跳ね返し、大いなる繁栄をもたらしてくださることを願い求めた、というわけである。だから、「神によって、私たちは力ある働きをします。神が私たちの敵を踏みつけられます」(13節)という文末のことばに編集者の全ての思いが集約されていることになる。
 編集されたものにせよ、この詩篇の流れははっきりしている。第一にダビデは神を讃えている(1-6節)。戦いを前に、神を固く信頼し、賛美をもって朝を迎えようとしている。「私の心はゆるぎません」は、新共同訳では、「神よ、わが心は定まりました」である。ヘブル語のナコンは、詩文では、主に神を主語とし神が地を据えられた、定められたことを、語る際に用いられる。また、詩篇93:1では「世界は堅く建てられ、揺らぐことはない」の「堅く建てられ」にそのことばが使われている。つまり、心が主にあって定まり、堅くされたので、ゆらぐことがない、ということになる。神を賛美し、神に感謝できるのは、神が私たちの心になしてくださる素晴らしい御業の故である。神の恵みに素晴らしさ、神の右手の力強さを、味わい知ることが大切なのである。
 第二に、ダビデは神に聴いている(7-9節)。神の語りかけに耳を傾けている。ダビデの賛美に応答するように、神は私たちの賛美に語りかけられる。神は、確かに、全地を支配しておられ、ご自身の権威を示される。イスラエルの民は土地なき者のようであったが、再び土地を所有した。あらゆる戦いに勝利をもたらすのは、神ご自身であって、私たちの力ではない。神はみこころのままに、物事のすべての向きを変えることが出来るお方である。その神に私たちは信頼するのである。
 第三に、ダビデは神に祈っている(10-13節)。人ではなく、神にこそ期待していく。目に見えない神こそ、私たちの祝福の根源である。しかしいつでも、私たちは目に見えるものの後ろ盾をとって安心しやすい。誰か助けがいれば大丈夫だと考えてしまい安い。しかし、「人の救いはむなしい」。たとえ目に見える人の助けがなかろうと、神が共におられること自体に勝利がある。神を信頼してみよう。そこに望み得なき所に望みを見いだす秘訣もある。神の業が自分になされることをこそ願おうではないか。

詩篇108篇

2016年10月30日 06時19分19秒 | 出エジプト記
 既にどこかで読んだ詩である。つまり詩篇57:7-11と60:5-12が継ぎ合わされたもので、新しい詩篇ではない。ダビデの賛歌となっているが、第二巻にあるダビデの詩を誰かが捕囚期以降に編集したものではないか、と言われる。
 57篇、60篇、それぞれ作られた背景が違う。時間的な順序としては、57篇が1サムエル記23章、ダビデがサウルにいのちを狙われていた時であり、60篇は、2サムエル記8章、ダビデがサウルに代わって王となり、王国を拡大成長させていた時代のものである。捕囚期後に、そのような詩篇を組み合わせて読んだ意図は、まずは、サウルから逃れて洞窟にいたダビデに、捕囚のイスラエルの姿を重ね、あり得ぬ捕囚からの解放を喜ぶ思いを詠ったのであろう(57章)。そして解放され、町を再建したイスラエルが、これからさらに繁栄する願いを、ダビデ躍進の姿に重ねたのではあるまいか(60章)。
実際、エレミヤやエゼキエルが預言したように、モアブ、エドム、ペリシテは、ユダのバビロン捕囚を喜び、ユダヤ人の敵となった歴史がある(エレミヤ47,48、エゼキエル35)。再びパレスチナに戻って来たユダヤ人たちは、ダビデがモアブ、エドム、ペリシテに勝利し、イスラエルを強国にした時代を思い起こしながら、自分たちのこれからにも主がかつての侮辱を跳ね返し、大いなる繁栄をもたらしてくださることを願い求めた、というわけである。だから、「神によって、私たちは力ある働きをします。神が私たちの敵を踏みつけられます」(13節)という文末のことばに編集者の全ての思いが集約されていることになる。
 編集されたものにせよ、この詩篇の流れははっきりしている。第一にダビデは神を讃えている(1-6節)。戦いを前に、神を固く信頼し、賛美をもって朝を迎えようとしている。「私の心はゆるぎません」は、新共同訳では、「神よ、わが心は定まりました」である。ヘブル語のナコンは、詩文では、主に神を主語とし神が地を据えられた、定められたことを、語る際に用いられる。また、詩篇93:1では「世界は堅く建てられ、揺らぐことはない」の「堅く建てられ」にそのことばが使われている。つまり、心が主にあって定まり、堅くされたので、ゆらぐことがない、ということになる。神を賛美し、神に感謝できるのは、神が私たちの心になしてくださる素晴らしい御業の故である。神の恵みに素晴らしさ、神の右手の力強さを、味わい知ることが大切なのである。
 第二に、ダビデは神に聴いている(7-9節)。神の語りかけに耳を傾けている。ダビデの賛美に応答するように、神は私たちの賛美に語りかけられる。神は、確かに、全地を支配しておられ、ご自身の権威を示される。イスラエルの民は土地なき者のようであったが、再び土地を所有した。あらゆる戦いに勝利をもたらすのは、神ご自身であって、私たちの力ではない。神はみこころのままに、物事のすべての向きを変えることが出来るお方である。その神に私たちは信頼するのである。
 第三に、ダビデは神に祈っている(10-13節)。人ではなく、神にこそ期待していく。目に見えない神こそ、私たちの祝福の根源である。しかしいつでも、私たちは目に見えるものの後ろ盾をとって安心しやすい。誰か助けがいれば大丈夫だと考えてしまい安い。しかし、「人の救いはむなしい」。たとえ目に見える人の助けがなかろうと、神が共におられること自体に勝利がある。神を信頼してみよう。そこに望み得なき所に望みを見いだす秘訣もある。神の業が自分になされることをこそ願おうではないか。

詩篇106篇

2016年10月28日 06時36分59秒 | 出エジプト記
 この詩篇は、イスラエルの罪と不誠実さを振り返っている。出エジプトの紅海徒渉での不信仰(6-12節)。荒野の放浪中、肉を要求したこと(13-15節:民数記11章)、モーセとアロンに反逆したこと(16-18節:民数16章)、また金の子牛を鋳造したこと(19-23節:出エジプト32章)。そして、再びカナンに近づいた時の二つの失敗、つまり、カデシュ・バルネアで主の約束を信じなかったこと(24-27:民数13章)、バアル・ベオルで偶像礼拝の罪に陥ったこと(28-31:民数25章)、そして、カナンの地定住に続く堕落と解放の出来事(32-45節)、そして最期にバビロン捕囚と思われる出来事を(46節)を振り返っている。
 詩篇105篇が、族長時代から出エジプトの歴史を振り返り、主が積極的にアブラハム契約を守られたことを認め賛美するものであるとすれば、この106篇は、出エジプトから捕囚までを振り返り、イスラエルの民が契約に不忠実であったにもかかわらず、神は契約に忠実であったことを認め賛美するものとなっている。つまり、題材に多少のずれはあるが、詩篇105篇も106篇も、いずれもアブラハム契約に忠実であった神の姿を覚えさせるものとなっている。
 イスラエルの歴史は、神を見捨てる反逆の連続であり、不信仰と不誠実さの繰り返しである。普通は、これほど神に逆らい通す歩みに、どうして神が憐みを施しえようかと思うものだろう。神に見捨てられて当然である。しかし、これほどの反逆の歴史がありながらも、神の憐みは尽きない。神の愛の深さ、強さは私たちの想像を絶している。神の契約を守られる忍耐、頑固さ、執拗さが、私たちの模範でもある。私たちの愛が薄っぺらなのは、この神の愛を理解していないためである。「豊かな恵み」(45節)と一言で簡単にまとめられてしまう、神の愛の深さに触れていないためである。
23節「もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか。」娘が学校で聴いた話をしてくれた。面白い先生がいるという。「風呂の栓のような人間になれ」と熱く語っていた、という。つまり風呂の栓は目立たないが、それなくしては風呂に入れない。目立たないが、なくてはならない存在になれ、というわけだ。なるほど、なんとなくおかしなたとえだが、良くわかるたとえでもある。イスラエルの反逆の歴史の中で、肝心かなめの部分をしっかり守った指導者がいた。誰もかれもが不誠実で愚かな歩みをし、すべてが滅びに向かっているかのように思われる中で、その破れ口を守る働きにリーダーシップが求められることがある。目立つリーダーシップもあるが、目立たないリーダーシップもある。時代を動かし変えるリーダーシップは、後の時代にその価値が認められる目立たないものであったりする。
47節「私たちの神、主よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください」明らかにこの詩篇が捕囚帰還後に詠まれたものであることを思わせる一節である。著者は、イスラエルの完全な回復を祈っている。それは、イスラエルの再建を励ますことを目的に書かれた第一歴代誌7章で、北イスラエルの民が振り返られているのと同じである。つまり、歴代誌の著者は、直接的な読者である南ユダの帰還者だけではなく、彼らよりも150年も昔に滅びてしまった北イスラエルの民を含めた、イスラエル全体の再建をビジョンとして語っている。「国々から私たちを集めてください」自分だけでも、自分たちだけでもなく、主を愛する者が皆集められて再建される喜びを願うこととしよう。


詩篇104篇

2016年10月26日 05時27分52秒 | 出エジプト記
 詩篇103篇は、神の性質を思い、神を讃えるよう勧められた。この104篇は、神の創造と摂理の業を思い巡らし、神を讃えるように勧められる。冒頭と結びが同じであることからも、両者は、対のものとして書かれたと思われる。内容は、神の創造の業を讃えるものであり、その構造は、創世記1章に準じたものであることが指摘されている。つまり
第一日(光)(創世記1:3-5)⇒詩篇104:2a
第二日(大空が水を分ける)(創世記1:6-8)⇒詩篇104:2b-4
第三日(地と海の区別)(創世記1:9,10)⇒詩篇104:5-9(+10-13)
   (植物と果樹)(創世記1:11-13)⇒詩篇104:14-17(+18)
第四日(時を計る者としての光るもの)(創世記1:14-19)⇒詩篇104:19-23(+24)
第五日(海と空の生物)(創世記1:20-23)⇒詩篇104:25,26
第六日(動物と人)(創世記1:24-28)⇒詩篇104:21-24
   (全生物に指定された食物)(創世記1:29-31)⇒詩篇104:27,28(+29,30)
という対比を見て取ることができる。大切なのは神と宇宙は別ものであり、神がこれらの全てを生み出されたと読むことなのだろう。だからこの詩篇は、BC4世紀のエジプトのアメンホテプ4世が描いた有名な太陽賛歌とよく似ていると言われるが、実際には、太陽を拝むよりも、太陽を創造された方を拝むことの大きな違いを覚えさせる内容となっている。
さらにこの詩篇の七十人訳には、「ダビデによる」と表題づけされているが、実際には、第四巻の他の詩と同様、捕囚期後に書かれたとされている。つまりこの詩篇は神の創造の業を賛美するものであるが、捕囚帰還後にこれが書かれているのは、エレミヤ4:23-28にあるエレミヤのことばを踏まえてのことである。つまり、エレミヤは、エルサレムの滅亡、つまりアッシリヤによるユダに対する裁きとその壊滅の状態を、「茫漠として何もない」、「光を失った」創造の原初の状態にたとえている。そこからイスラエルは回復された、町は再建された。つまり著者は、神の創造の業に重ね、神がイスラエルに成してくださった、大いなる解放の御業をたたえているのである。
だから10-13節、谷や山々への水の供給は、単に創造の素晴らしさを称えるのではなく、回復された町の麗しさに対する感謝の思いが重ねられている。14-18節、地に満ち足りる植物も、主が再び、地を祝し、生産性のある毎日を取り戻してくださったことへの感謝と読むことができる。19-23節は、捕囚から解放された者に、当たり前の生活リズムが戻って来たことへの感謝である。24-26節は海の創造について語るが、日々の営みの回復、商業活動の回復に対する感謝と読むことができる。26節、「レビヤタン」はよくわかっていない。ヨブ記41章では「わに」を、あるいは大魚のことであるが、そうした存在も神を喜んでいるとされる。
ともあれ詩篇104篇を詠んでみると、これが、ただ、創造の業を称えるのみならず、自分たちの歴史に起こった捕囚帰還という奇跡的な神の介入の業を、無からの「創造」の御業になぞらえて、感謝し、賛美していると読むことができる。だからこそ、「主の栄光が、とこしえにありますように」(31節)。そして「悪者どもが、もはやいなくなりますように」(35節)という一見唐突に見える願いにつながっている。
この背景を踏まえて読むと、私たちもまた、自分たちの茫漠と思える現実に、光をもたらす神を期待することができるのではないか。どれほど混沌としていようと、あるいは望みなき状況であろうと、「光よあれ」と語り物事を動かしてくださる神がいる。

詩篇89篇

2016年10月11日 05時55分39秒 | 出エジプト記
第三巻最後の詩篇であり、第三巻初めの詩篇と共通する内容を持つ。つまり、いずれも信仰者にとっての難問を扱っている。73篇では、悪者の繁栄について、89篇では、神の契約が破られ、その真実さが見えにいくい状況での苦悩について触れている。
 詩人は、まず神の契約を取り上げる。「わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓っている。わたしは、おまえのすえを、とこしえに堅く立て、おまえの王座を代々限りなく建てる」(3,4節)。また神の力を讃えている。「万軍の神主。だれが、あなたのように力がありましょう」(8節)。神の力は地上に現わされ、彼は私たちの敵を追い散らされる。だからイスラエルは、神の格別の祝福を受けた民であると言える。「幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。」(15節)。続いて、著者はダビデと契約を結ばれた神の誠実さを歌っている。「わたしの真実とわたしの恵みとはかれとともにあり、わたしの名によって、彼の角は高く上げられる。…わたしの契約は彼に対して真実である。…わたしは、わたしの契約を破らない」(21、27,28、34節)。神は、ダビデを愛し、ダビデに格別にいつくしみと恵みを注がれた。神はダビデと、父と長子という関係を結ばれ、とこしえの契約を結ばれた。
しかし!神はこの契約を破っているのではないか、というのが、38節以降の訴えである。「しかし、あなたは拒んでお捨てになりました。あなたは、あなたのしもべの契約を廃棄し、彼の冠を地に捨てて汚しておられます」神はダビデを高めると語ったが、そうではない。今ダビデは戦いに負け、そしりを受け、敵のあざけりの的となっている(41節)。ダビデの剣の刃は折り曲げられ、戦いに立てないようにされている(43節)。この恥辱の状況はいつまで続くのか(46節)。人の命は短いというのに、後先はそれほどもないというのに(47節)。人が自分を自分で救い出す力などないというのに(48節)。だから神よ。あなたの誓いをもう一度思い起こしてほしい(49節)というわけだろう。
しかし著者が、そう感じた問題は、ダビデに対する神の契約の性質を誤解していたからである。ダビデに対する神の契約は、イエス・キリストにおいて完全に成就した。神の契約は、歴史的に見て、破られたように思われた時もあった。確かにイスラエルが滅亡する時代、人々はこの詩篇を読みながら、ダビデの契約を打ち破られた神を思わされたことだろう。もう二度と回復することもない、絶望的な思いを持って、背を向けられた神を覚えさせられたことだろう。しかし、実際には、神の契約の成就は、初めからイエス・キリストを目標としており、イエス・キリストにおいて完成するという神の計画も真実さも、変わることはなかったのである。
いつも私たちは、目先のこの世的な浮き沈みによって神の契約も、神の恵みも、神の真実さも考えやすい。神の真実さは、神が私たちに対してどれほどこの世的な祝福を加えてくださったかではかりやすい。しかし、神の真実さは、イエス・キリストにおいて表わされ、その私たちに対する祝福は天上に豊かに蓄えられている。この世において私たちが受ける報いは、少なく、あるいは奪われ、そしりを受け、辱めを受けていることがあるかもしれない。しかし、私たちに対する永遠の契約が取り去られることはないし、天上の富も取り去られることはない。この世の浮き沈みでは測ることのできない、神の恵みがある。もちろん、あの世だけが楽しみというわけなのではない。この世にあっても、主の御旨の中に祝福は供えられているはずである。それは主の主権によることであり、信頼を持って待ち望まねばならぬところである。「ほむべきかな、主」(52節)と期待を失わない者であろう。