人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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1コリント人への手紙13章

2014年11月30日 06時41分37秒 | パウロ書簡
しばしば、「愛の賛歌」と呼ばれる章であるが、文脈は、12章から続き、「さらにまさる道」「よりすぐれた賜物」として語られる。つまり、教会で最も求められるべき賜物は、いやしでも、異言でも、預言でもなく、愛である、となる。なぜなら、第一に愛は働きに価値を加える(1-3)。パウロは、異言、預言、知識、信仰、そして分け与える賜物と五つの例をあげるが、どんなにこれらの賜物に優れていても、愛がないのなら何の値うちもない、とする。確かに真実なことばも、愛を持って語られればこそ人の心を打つものになる(エペソ4:15)。
4節からは、愛の特質が語られている。しかしこれもまた、コリント教会の背景を踏まえて読むべきところだろう。というのも、コリントの人々は、まさにこの逆を行っていた。彼らは非寛容であり、不親切であり、妬み、自慢し、高慢で、礼儀に反し、自分の利益を求め、怒り、悪を追及し、不正を喜び、真理を喜ばなかった。我慢し、信じ、期待し、耐え忍ぶことがなかった。彼らの教会の秩序と品性を回復するには、まさに愛が必要とされた。彼らには、人に対して忍耐する力があること(寛容)、ひどい扱いがあっても善意で応じること(親切)、他人の成功に気分を害しないこと(妬まない)が必要であった。また、人をいつでも善意に解釈すること(信じ)、いつでも失敗しても諦めたりせず、前を見て進もうとする「期待」が必要であった。
愛は不滅であるが(8-13)、預言や、知識、異言はいつまでも続かない。預言と知識には同じ動詞(廃止される)が、受動態で使われているので、それらは(神によって)廃棄される、ことを意味している。異言は別の動詞(止む、中止する、抑制される)が、中間態で使われており、中間態は、「自ら~」を意味する用法であるから、異言はそれ自身でやむ、ひとりでに止む、という。確かに、今の時代において神は、私たちに不完全な啓示しか与えておられない。すべて地上において知られることは、一部に過ぎない。しかし、やがて私たちは神の臨在に触れ、完全にすべてを知るようになる。そうなれば、コリントの人たちが重きを置いていた預言も知識も異言の賜物もいずれ居場所を失うのである。12節前半も9節を繰り返し、今の私たちが、神に完全に知られている(髪の毛の数さえも数えられている)ように、やがて私たちも完全に知るようになる、という。パウロが、鏡を例に挙げたのは、コリントが鏡の生産で有名であったこと、その鏡が研磨された金属を用いたもので、良く映る上質な鏡はなかなか入手しにくかったことを踏まえている。ただここで、パウロが加える重要な視点は、11節、大人の考え方をしよう、ということだ。パウロは、「やめました」と言い、自ら決断して、子どもっぽい考え方を完全に終わりにした、と宣言する。預言、知識、異言に対する客観性を持つ大人になろうということだ。
13節も預言、知識、異言に対する対比で語られる。いつまでも残るものは、信仰と希望と愛とある。信仰と希望と愛は、あの世においても存続すると読めそうである。しかし、対比のポイントは、「今」と「あの世」ではなく、「預言、異言、知識」に対して「信仰、希望、愛」である。また信仰と希望と愛を、パウロは、単数の一つの動詞で受けている。文法的には一番近い主語に動詞を合わせたに過ぎないかもしれないが、パウロは、信仰と希望と愛をほぼ同義、一体と見なしていることに注目すべきである。実際パウロは、愛することの中に、信じ、期待することを含めている(7節)。愛することと信頼し、期待することは切り離せない。

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1コリント人への手紙12章

2014年11月29日 05時40分25秒 | パウロ書簡
 「さて、~御霊の賜物についてですが」と、コリントの教会の人たちの質問にパウロは答えようとする。御霊を巡って、種々の混乱があったからである。古代世界では、神々と特別に深いかかわりを持つ人たちは、特別な霊的な賜物を持っていると考えられていた。恍惚的な熱狂ぶりが、そのしるしであると見なされたようであるが、パウロは、御霊に満たされた証拠の第一は、イエスの主権を認めることにある、と切り出している(3節)。確かに、聖霊の働きはキリストを証することにある。キリストを中心とした言動があるかどうか、そこがポイントだという。
 次に、御霊を与える主は一つであるが、御霊の現われ方は様々である、という(6、7節)。しかし、多様ではあるが、それは一つになり成熟するための分配である、という(12節)。パウロは、この考え方を他の書簡においても繰り返している。たとえば、ローマ人への手紙においては、一致(12:1-5)、多様性(12:6-8)、成熟(12:9-21)という形で、またエペソ人への手紙においても、一致(4:1-6)、多様性(4:7-12)、成熟(4:13-16)という形で、繰り返されている。教会は、多様な賜物を持った人々の集まりであるが、それは、キリストにあって一致し、成熟しつつ神のみこころを実現していく場である。
 人間にはそれぞれ親譲りの才能がある。蛙の子は蛙と言うが、スポーツや音楽、芸術、など、親譲りの才能が子どもに開花することがある。同じように、神を信じた時に、私たちは神の子とされるのだから、神譲りのもの、つまり御霊の賜物があって当然だろう。大切なのは、人はしばしば、才能を自己満足、自己顕示のために用いようとする。しかし、神によって与えられる賜物は、7節「みなの益となるために」とあるように、教会全体の益と喜びのために与えられ、用いるべきものだ、ということだ。御霊の賜物は、それぞれの霊的な成熟に役立つように与えられているのである。
ところで勘違いしてはいけない。私たちは一致するが一様になるのではない(12:14-31)。異なった者でありながら一致していくのである。多様性のない一致は画一化に過ぎない。パウロは、人間の体を例に、キリストの体である教会の多様性について説明する。一つは、多様性は固有性であるという(14節)。信者それぞれは固有の器官であり、まったく異なる存在である。一人一人の感じ方、性質、振る舞い、それぞれが違う。違うからこそ互いに互いを必要とする。誰も皆、この箇所をよく読みながら、自分の教会における役割の重要さ、必要性を再認識すべきである。
そういうわけであるから多様性は必然的に協力を求める(21-26)。神の業は、互いに手を取り、互いに協力し合う共同体の中に表されるのである。賜物に優劣はない。そして最後に多様性は、単なる個性ではない、神に与えられる多様性である(27-31)。つまり神に起源を発しているのであるから、神の目的に沿って自分の役割を考え、他人の役割をサポートし、神の目的を実現するものである。だから、賜物にも秩序がある。使徒、預言者、教師、…とあるが、それは序列ではない。教会が神の目的に沿って機能するために、それぞれの立ち位置がある、ということだろう。そういう意味で、信仰を持ったら自己実現だけを考える人生から早く脱却しなくてはいけない。信仰者には、神の大目的を果たす使命が与えられている。クリスチャン一人ひとりが、自分の役割に目覚めていくならば、一つ一つの教会が祝福されるのである。

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1コリント人への手紙11章

2014年11月28日 06時57分25秒 | パウロ書簡
1節は、どうも10章につながっているのだろう。神のみこころに生きることについては、キリストがその模範である。私もそれに倣っている、という。
さて2節からは公的礼拝について四つのことが取り上げられる。礼拝の服装、礼拝と共に行われる愛餐、正餐、異言の問題である。
最初に服装。特に女性が公的礼拝の場でかぶり物をするか否かの問題である。当時のユダヤ人女性たちは、公の場では必ずベールをかぶっていた。しかしその礼儀作法を乱す女性たちがおり、パウロはこの問題に答えようとする。信仰を持つことは、常識的ではありえないが、非常識になることでもない。習慣化した慣例を簡単に否定することは禁物である。まず、パウロは創造の秩序に注目させている。女は存在の起源を男から得、男はキリストから、キリストは神から受けている、と指摘する(3、7節:創世記2:21-22)。次にパウロは、男と女がそれぞれかぶり物をつける意義を語る。先の創造の秩序からすれば、男は直接的に神の似姿と栄光なのだから、男は頭にかぶり物を着けて、神の栄光を覆うようではいけない。しかし女は、言ってみれば男の似姿と栄光なのだから、かぶり物をつけ、その男の栄光を覆うべきである、となる。いやもっと積極的に言えば、女のかぶり物は、神の前に男と等しく迎えられるための「権威のしるし」であるし、目に見えない御使いたちが見ているのであればなおのこと、この霊的な意味すらある礼儀作法を重んじるべきだ(10節)、となる。
恐らく、こうしたかぶり物の問題は、教会の建物が未発達な状況の中で起こってきたものである。集会が公の会堂ではなく、家で行われていることから、公私の区別のつかない女性たちがいたことから生じたと考えられる。となれば、これは単なる服装の問題ではない。むしろ、服装は自由であるが、他人の礼拝の妨げにならない、場を弁えた配慮ができるか、という問題になる。だから14-16節は、補足説明であるが、風俗習慣という観点から自然な行動を取るように、と念を押す内容になっている。
さて公的礼拝の第二の問題についてパウロは、愛餐の問題を取り上げる(17-22節)。愛餐は、コリントの教会では礼拝の一部だった。しかし、教会の分裂によって、信者はめいめい群れて食べ、貧しい者には食事も回らず、神の家族として交わる状況も失われていたのであろう。愛餐の目的は、愛の分かち合いであったが、全くその機能を果たしていなかったのである。
しかしここでパウロが問題にしているのは、配慮だけの問題ではない、愛餐と正餐の区別である。礼拝でまず大事にされるべきは正餐である。教会でパンとぶどう酒が分かち合われたのは、キリストを覚えた交わりをするところにあった。腹を満たすためではない。皆でキリストを分かち合うことにある。キリストに皆の心が向けられて、霊的なものが分かち合われていく、それこそ教会の場に求められることなのである。コリントの教会では、そのようなキリストに向かう正餐と、共同の食事である愛餐が混同されていた。聖餐は、主が制定された厳粛な式である。だから正餐は、それにふさわしく、吟味をもって、敬虔に守られなくてはいけない。だから空腹ならば家で食べなさい。共同の食事を目的とするなら愛の配慮を大事にしなさい。そして礼拝をするならば、キリストを中心にキリストと共によい時を過ごすことである。

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1コリント人への手紙10章

2014年11月28日 06時55分55秒 | パウロ書簡
パウロは、旧約時代の例を取り上げ、「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。」(6節)と語る。俗に「歴史の教訓」というべきもので、聖書は、私たちに対する戒めとして読むことができる、というのだ。
その昔イスラエル人は、モーセに導かれ、奴隷の地エジプトから脱出し、荒野の40年を過ごした。それは神の恵みと奇跡に守られた時であった。そのような素晴らしい時を過ごしながら、彼らは罪を犯し、裁きを受け、滅ぼされてしまった。私たちも御霊とキリストの恵みに支えられながら信仰生活を進めている。そのような状況で、神に反逆し、滅ぼされてしまうことがあってはならないという。具体的に四つの問題があげられている。
一つは、偶像崇拝(7節)。パウロが戒めているポイントは、「悪霊と交わる」(20節)ことにある。既に7節で、パウロは昔のイスラエルの民が、目に見えぬ神を見える形、つまり金の子牛にして拝んだ問題を取り上げているが、その中心は金の子牛を拝んだことよりも、集会の名のもとに乱痴気騒ぎをしたことであった。確かにコリントの教会の問題は、8章にあるように、偶像礼拝よりも、偶像にささげた肉を食べるか否かにあった。偶像にささげた肉を大盤振る舞いし、乱痴気騒ぎを起こす無節操さにあった。それは結局偶像ではなく、悪霊との宴に興じることと同じである。だから、パウロはキリスト者が、キリストの血とからだにあずかる聖餐の民であることを強調する(16節)。
次に、姦淫(8節)、モアブの女たちによってイスラエルが誘惑され偶像崇拝に加担するようになり、約24000人の者が神に裁かれて疫病で死んだことを背景としている(民数25章)。教会には、不品行を持ち込んではならない。主を試みることは(9節)、食べ物や水のことで呟いた民数記21章4-9節を背景としている。神を信頼せず、つぶやき、繰り返し神の心を痛めることをしてはならない。最後のつぶやき(10節)は、9節の主を試みることと似ているようであるが、区別するなら、食料問題以外でのつぶやき、考えられるのは民数記14、16章の事件になる。新しいカナンの地を占領せよと、神のチャレンジを受けながら、自分たちにはできないとしり込みをして、結局神に聞き従わなかった事件である。神が与えられた機会は、受けて祝福としなければならない。これらは、すべて、私たちに対する警告であり、教訓である。私はそんなことはしないから大丈夫だ、と思っている人ほど、その慢心に注意しなければならない(12節)。だから自分に厳しさを失わず、信仰の道をしっかり歩もうとする者は、たとえ試練にさらされようとも、その試練からの脱出の道が必ず供えられる約束がある(13節)。
 23節、パウロは言う。「すべてのことは、してもよい」(24節)。しかしだからといって、仲間に対する関心や配慮を欠くふるまいは許されない。心得るべき行動原則がある。一つは自由を原則としながらも、弱い良心を持った人に配慮し自制することである(27節)。また、何をするにもただ神の素晴らしさが現されるように行動すること(31節)、また弱い人のつまずきや誤解を避けること(32節)、そして人々の救いにプラスになることを考えて行動することである。キリスト者の成熟は、人間的に大人になること、物事を深く考え、色々な事柄に細やかに配慮出来る人になることに他ならないのである。

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1コリント人への手紙9章

2014年11月28日 06時54分16秒 | パウロ書簡
8章で弱い者への配慮を語ったパウロは、さらにこれを自らの権利に絡めて語っていく。
 まず、パウロは、自分が使徒であることを力説する。彼は十二使徒ではなかったが、復活の主と出会い、直接召され、派遣された。その宣教の働きに実が結びコリント教会が誕生したことは、まさに自分が使徒である証拠だ、と語っている(1,2節)。
続いてパウロは、そうした使徒たちが持つ権利について述べている。教会に支援されて飲み食いする権利(4節)、信者である妻を伝道旅行に連れて歩く権利(5節)、そして、生活のための働きを止めて、ささげられたもので生活する権利である(6節)。
この権利は、さらなる四つの根拠によって正当化される。一つは一般常識、世の中の慣例(7-8節)。教会の働き人は、教会が雇用していると考えるべきで、教会からの支援を期待してよい。二つ目に旧約聖書の教え(申命25:4:8-12節)。教会の働き人によって益を受ける人々から報酬をもらうことは当然である、と。三つ目に、旧約時代の慣例(13節)。祭司とレビ人が、律法の定めの中でその生活を支えられるように、定められていたとしたら(民数18:8-32)、まして教会の働き人も同様である。最後に、イエスご自身が教えられたことである(14節)。
このようにパウロは、教会の働き人が教会から報酬を受ける権利があることを力説するのだが、それは報酬を得たかったからではない(15節)。むしろ、福音宣教が妨げられないために敢えてその権利を主張しなかった自分の考え方を理解して欲しかったためである(12節)。つまり、ギリシアではただで教えるものに、価値はないと考えられた。パウロは報酬も求めず福音を語っていたが、福音は安っぽいものではない。むしろ高価なものである。ではなぜ、価値を示すために報酬を得ようとしなかったのか。それは当時ギリシアの町にはたくさんの巡回教師、説教者が溢れていて、その大部分は金儲けの仕事であった。パウロは、福音の価値を強調したが、それにふさわしい報酬を求め、同類の輩とは思われたくなかったのである。
実際パウロは、自分が無報酬で働いているのは、そうせざるを得なかったからだ、と言う。つまり無報酬で働くことが課せられた義務であった、と言う。だから、権利を用いることができるのに用いないこと、それ自体が報酬である、とも言う。そもそもパウロは、自分の報酬よりも、福音宣教の拡大に関心を払っていた。「何とかして、幾人かでも救うため」であれば、一切の躓きは避けたかった(22節)。ユダヤ人にはユダヤ人のように、弱い人々には弱い者になる、ターゲットに合わせて変幻自在に、自分の在り方を変えたというわけである。だから、権利を用いることが躓きとなり、福音宣教の妨げとなるなら、それは、差し控えられる。事実、パウロは、全くセルフサポートを貫いたわけではない。コリントの教会からの支援は受けなかったが、ピリピの教会からの支援は受けていたからである。パウロはケースバイケースで考えていた。
ともあれ、そのように、福音宣教の前進のために、自分自身を律していくこと、それが宣教者にとって重要なことである(24-27)。コリントにおいてはオリンピック競技のイメージは非常に身近なイメージであったから、パウロは、その競技の参加者のイメージを取り上げている。競技者が賞を得るために最善をなすように、福音宣教の働き人も同じである。自らを律して、福音宣教が進むための最善の行動を取る、これが奉仕者に求められていることなのである。

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