人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

ヨナ3章

2014年05月31日 19時49分52秒 | 小預言書
魚に吐き出されたヨナは、異邦人の地ニネベへ出ていった。これもまた一つの予表である。つまり、福音はイエスの復活後、まず異邦人に受け入れられていった。ヨナに起こった歴史的出来事が、初代教会の歩みを予め物語るものとなっている。
ところでヨナが吐き出されたタルシシュの海岸からニネベは、おおよそ800キロ、東京から広島の近くまでになる。そこまでヨナはてくてく歩いて行ったのだろう。回復の道は、神に逆らった分、遠い道のりとなり、エネルギーも必要とすることを象徴しているかのようである。当時の人たちの足では、約1ヶ月かかった道のりである。ただ考えてみれば、ヨナは、先に触れたように、魚の胃酸にその全身が溶かされていたのであろうから、この期間は皮膚の回復に必要な時であったのかもしれない。しかし回復したとしても、ヨナの外観は、変わり果てた姿になっていたことだろう。神に逆らい、魚に飲み込まれて、悔い改めたことによって救い出されたヨナは、その変わり果てた外見によっても、証したというわけで、それは、イザヤやエゼキエル、ホセアたちのような、身をもって示す行動預言と同じでる。ヨナの働きに対するレスポンスの良さは、そういうところにもあったのかもしれない。
ともあれ靴底を減らしながら、神のことばを語り伝えたヨナの働きは、よい実りを得た。町中の人々が悔い改めた。神は、ニネベに下そうと考えていた災いを思い直された。これは、最も成功した海外宣教と言うこともできるだろう。
神は、みこころに従わない者に苦難を与えられることがある。しかし、それは神の祝福の場に引き戻すためである。神のみこころに従うことに失敗したらそれで終わりではない。神は、神のみこころを無視したヨナをあわれみ、海の底に沈むことを赦さず、助けだされた。大切なことは、自分が神のみこころに従っていないと思わされることがあったならば、いつまでもぐずぐずせず、即座に神の御前に出て、真の悔い改めの祈りをすることだろう。神はその祈りを受け入れられる。そして、大きな魚に、ヨナを吐き出させたように、神は、もう一度、神のみこころに従えるチャンスを与えてくださる。
また、神は、どんな人をも悔い改めに導こうとしておられる。神は「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(2ペテロ3:8)とペテロは語った。また、パウロも、「神はすべての人が救われて真理を知るようになるのを望んでおられます」(1テモテ2:4)と語っている。イエス・キリストの救いは万人に必要とされる福音である。今日神が、福音を分かち合う新しい出会いに導いてくださるように祈ることとしよう。

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ヨナ書2章

2014年05月30日 06時38分46秒 | 小預言書
ヨナは、大きな魚にのみこまれて、三日三晩過ごしたという。まるでピノキオのおじいさんのような話であるが、実際にそんな可能性はあるのか。1891年、フォークアイランドで、マッコウクジラに飲み込まれた船員の記録がある。彼は、意識不明の状態で、鯨の切り裂かれた腹の中から発見された。全身の皮膚は鯨の胃酸で溶かされていて、三日目に意識を回復したという。こうした事件は、戦後も報告されており、決してありえない話ではないようだ。
ともあれ、神は、ご自身の命令に逆らったヨナを、見捨てられたわけではない。荒れ狂う海の中に投げ込まれたヨナを救われるために大きな魚を用意された。ヨナは魚の腹の中で祈っている。「水は、私ののどを締め付け、深淵は私を取り囲み、海藻は私の頭にからみつきました」(5節)真っ暗闇の魚の腹の中で、呼吸もままならず、海藻やなにやらが体に絡み付く経験のことだろう。「私は山々の根本まで下り、地のかんぬきがいつまでも私の上にありました。」(6節)魚が潜ったり、飛び跳ねたりする動きに、翻弄される様、ただただ締め付けられるような苦しみを語っているのだろう。魚に飲み込まれることがどういうことか、体験者ならではのレポートなのかもしれない。ヨナは魚の胃酸に溶かされて、自分はもはやこれまで、このまま死んでしまうと考えたのではあるまいか。
 そんな経験を通してヨナは、命の貴さを深く考え、万人をあわれまれる神のみ心を学びきったのだろう。敵国アッシリヤの人間など、神の裁きの中で滅びればよいと思った。しかし、いざ自分が命を落とす状況におかれて、ヨナは、助けて欲しいと思った。どんな命も神の裁きの前には同じような思いに立たせられることだろう。「私のたましいが私のうちに衰え果てた時、私は主を思い出しました」(7節)。アッシリヤの人々も同じ人間だ。滅びてよいはずはない。自分は、単なる偏狭な人間で、神のような愛には及ばない者である。自分は間違っていた。これがヨナの結論であったのだろう。神は、ヨナがアッシリヤへと向かい、町の人々に、悔い改めを勧めることを願っておられる。どんな魂も神のもとに立ち返るように導かれる必要がある。滅びてよい人間がいるはずはないのである。ヨナの心の中に起こった変化はそういうものだったのではないか。
 ヨナは悔い改めた。今日私たちには「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(1ヨハネ1:9)と約束されている。当時の人々は、1列王8:46-53のソロモンの祈りに基づいて、罪を告白し、神の赦しを願った。そして神は私たちが悔い改めて神のもとに立ち返るならば、その悔い改めを拒まれることはない。神は人間とは違って、私たちの過ちを赦してくださる。
 ヨナが神のみこころに従う準備はできた。「主は、魚に命じ、ヨナを陸地にはき出させた」(10節)。神はすべての機会を通じて、私たちにご自身の考えを知らしめようとされる。偏狭な私たちはなかなかその機会を捉えずにいる。だから苦しみを通して学ぶ羽目になったりする。いつでも何かを学びきる心柔らかな者であろう。
 なお、魚に飲み込まれたヨナは、キリストの死と埋葬、そしてよみの腹からの復活の予表である。イエスはご自身の十字架と復活をヨナのしるしであると語られた(マタイ16:4)。

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ヨナ書1章

2014年05月29日 06時26分06秒 | 小預言書
ヨナの墓は、今もナザレからカナへ行く途中に残っていると言われ、実在の人物であったことに間違はない。ヨナは、ヨアシュの晩年、ヤロブアム二世の治世の初年頃、つまり預言者エリシャが引退しようとしていた時期に活躍した人物であったと考えられている(2列王14:25)。ヨナは預言者学校の指導者であり、衰退したイスラエルに回復と繁栄を預言した。そしてヤロブアム二世の時代、イスラエルは、その預言どおりにダビデ王の時代とほぼ同じ程度に領土を回復し、繁栄した。こうして罪と審判を語らずにヨナは注目され、大変な人気を得ていた。このヨナに、神はアッシリヤに対するメッセージを託される。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ」
この時代、アッシリヤは、大変な勢いを盛り返し、躍進中の強国であった。アッシリヤが征服民になす拷問と虐殺の残忍さは、よく知られ恐れられていた。後にナホムは、アッシリヤの滅亡を預言し、「あなたのうわさを聞く者はみな、あなたに向かって手をたたく」(3:19)と語ったが、ヨナもアッシリヤについては、同感であったことだろう。またヨナは、この野蛮な強国が近い将来、イスラエルを食い尽くす国になることを知っていた。ほぼ同時代のイザヤ、ホセアもアッシリヤの無情な役割を預言していたように、イスラエルの民は誰もが、アッシリヤの脅威におびえていたのである。
このような背景にあって、神はヨナに、イスラエルの人々が最も嫌悪するようなメッセージをニネベに携えるように命じられた。イスラエルの敵アッシリヤが神の怒りによって滅びないように、警告するメッセージである。もし、ニネベが神の前に悔い改めれば、神はニネベを惜しみ滅ぼされないことだろう。しかしそれは、イスラエルの滅亡を意味する。イスラエルを愛するヨナにとって、イスラエルの脅威は取り去られることが最善であったことだろう。たとえ自分が神の命令に背き罰せられても、イスラエルの繁栄が未来永劫まで続くことがよいことであると思えたのかもしれない。ヨナは宣教の任務を放棄し、主の御顔を避けて逃げ出した(3節)。 タルシシュへの道はニネベとは全く逆の道である。
神のみこころに従わなかったヨナに、主の大風が打ちつける。ヨナはとうとう追い詰められ、海に投げ込まれることになった(15節)。ヨナの運命いかに、次回に続く、というところであるが、この物語の序論は、二つのことを教えている。一つは、神がいかなる未信者の滅びをも望んでおられないことである。そしてもう一つは、神が信者に、なすべき正しいことをするように期待しておられることである。「なんでそんなことをしたのか」(10節)は、なすべきことを知りながら行わない、すべてのキリスト者に向かって語り掛ける神の声であろう。だから教会には、すべての人に福音を伝える責任があると同時に、すべてのキリスト者に神の民として行動すべきことを促す責任がある。「立って、~に行き、~に向かって叫べ」そこに神の御心がある。しかし現実は、「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて」という叱責を聴くことになっていることがあるだろう。水夫たちはヨナの不従順にもかかわらずヨナの神を自分たちの神として認めた。図らずも宣教は進められることがある。しかし、不名誉な宣教ではなく、名誉ある宣教に自らを押し出したいものである。

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オバデヤ書

2014年05月28日 10時19分18秒 | 小預言書
この書は、最も短く、最も古い預言書であると言われる。エレミヤ書49:7-22と似ていることから、両者がともに引用したより古い資料があるのではないか、と言われている。オバデヤについては、ユダヤ人の中ではありふれた名であり、旧約聖書にもその名を持つ人物は多い。種々説はあるが確かなところはわからない。主題は、二つ。エドム滅亡の預言(1-14節)と、イスラエル回復の預言(15-21節)である。
エドムは、パレスチナの南南東、死海の南からアカバ湾に至る地域で、「セイルの地」とも呼ばれる(創世記36:30)。エドムの二大都市はボズラとペトラ。ペトラは、「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」の撮影舞台でも有名になった場所であるが、切り立った赤色の砂岩の山地である。そこに住み着いたのはエドム人、つまりイサクの子エサウの子孫である。 
兄のエサウと弟のヤコブが、仲の良い兄弟ではなかったように、エドム人とイスラエル人も歴史的に敵対していた。たとえばエドム人は、モーセに率いられて約束の地に向かうイスラエル人が領土を通過することを拒んだ(民数20:14-21)。またしばしイスラエルの敵となり、ヨラムの治世(BC850-843)(2歴代21:8)、アマツヤの治世(BC803-775)(2歴代25:11-12,23-24)、アハズの治世(BC741-726)(2歴代28:16-21)、ゼデキヤの治世(BC597-586)(2歴代36:11-21)と大きな略奪を四度繰り返している。ここで神がエドムにさばきを告げられるのは、高慢不遜なエドムが、エルサレムが陥落した際に何のあわれみを施さずに傍観したばかりか(12節)、どさくさに紛れてユダの財宝をかすめ取り(13節)、他国人の攻撃を逃れて来る避難者をかくまわず、殺したり、敵の手に引き渡したり(14節)と卑劣な行為を働いたためである。「あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る」(15節)この預言の通り、エドムはまたエルサレムの破壊後5年にして、その山地から追い出され、BC150年滅びたのである。
後半16節からは、イスラエルの回復が語られる。「ヤコブの家は、その領地を所有する」(17節)は、以前自分たちのものだった土地が回復されることを語り伝えている。つまり、イスラエルは捕囚の民として連れ去られ、聖地は荒れるままにされていた。しかし、イスラエルはエドムのように滅亡してしまうのではなく、自分の土地を回復し、さらには、「ペリシテ人の国」や「エサウの山」つまりエドムをも支配することだろうと、預言される。
この預言も二重の意味あいを持つ。エサウとヤコブに象徴されるのは、肉なる者と霊なる者との戦いであろう。しかし、やがて霊なる者が勝利し、すべてを所有する。それは、終末における勝利であり、終末における神の約束の成就である。私たちの人生には様々な事が起こることだろう。それは略奪に次ぐ略奪と称せられるような人生かもしれない。しかし、負けだらけの人生であったとしても、神はその人生を必ずや回復される。なぜか。神がエドムを滅ぼすのは神の義によることであるが、イスラエルを回復させるのは、神の選びと召しが不変であることを示すためである。神が召し、それに応じた者に対する神の愛は深い。たとえ、私たちが打倒されたとしても、神は、私たちの歩みを建て直してくださる。そして祝してくださる。神は約束を守られるお方である。

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アモス書9章

2014年05月27日 06時26分58秒 | 小預言書
最後の9章は、これまでの裁き(7-8章)を宣告する幻の中で最も恐るべきものとなる。アモスは「祭壇のかたわらに立っておられる主」を見ている。もはや裁きの象徴ではなく、裁き主である主ご自身である。その主が、「柱頭を打って、敷居が震えるようにせよ」という。つまり地震によって神殿が破壊され、偶像崇拝者が絶滅することが語られているのであろう。かつてイスラエルにクーデターを起こしたエフは、80人の衛兵を配備して、異教の神バアルの預言者と礼拝者とを、神殿の中で殺害した(2列王10:25)。その時には、一人も外に逃げる者も、逃れる者もいなかったのである。主は、同様に、ご自身自ら、バアル礼拝者のようになりきったイスラエルの礼拝者たちにそうされる、というわけである。
神が、審判を開始するならば、その裁きを逃れる者はない(2-4節)。執拗に追跡し、裁きを実行される恐るべき主が描かれている。というのも、私たちの主は、遍在の神であり、地の下から地の上まで、神の目の届かぬところ、神の手の及ばぬところはない。そのような神が、イスラエルに徹底した裁きを告げられる。それは、ただ口先だけで神に頼り、うわべだけで神を崇め、神を神として認めることがなかったからである。否、それ以上に、まことの神を軽んじて、偶像崇拝に加担したからである。だから、「見よ。神である主の目が、罪を犯した王国に向けられている。わたしはこれを地の面から根絶やしにする」(8節)という。
だが、神はあわれみの神である。正義を貫かれる神であるが、厳しく冷酷な神ではない。どんなに厳しく裁きが行われようとも、神の前に悔い改める魂を見過ごすことはない。「わたしはヤコブの家を、全く根絶やしにはしない」(8節)「見よ。わたしは命じて、ふるいにかけるように、すべての国々の間で、イスラエルの家をふるい、一つの石ころも地に落とさない」(9節)。つまりすべての籾殻は滅ぼし尽くされるが、よい穀粒は、それを免れ得るのである。
 神は破壊の神ではない。回復の神である。だから11節以降、神は二つの救いを約束される。一つは、ダビデ王国の回復(11-12節)であり、もう一つは、その国の繁栄である(13-15節)。それは何を根拠としてなされるのか。「契約」がある。神がイスラエルを選ばれたのは、イスラエルが初めから正しく、神を求める民であったためではない。むしろ、神のあわれみとめぐみの故であった(申命4:37)。神はアブラハムを選び出され(創世記12:1-3)、イサク、ヤコブにその選びの確かさを示された。神はその契約に基づいて、自ら一方的に約束してくださったことを守られる。神は忠実であり、誠実な方である。だから、神は裁きによって人を破壊しつくすことを考えてはおられない。
大切なのは、私たちの真実さなのだろう。私たちが神の誠実さの前に、誠実であるか否かである。自身にやましさがあるのならば、神との関係をしっかり正し、関係の回復を求めることである。人はなかなか自分の弱さを認めることができない。自分の心の闇を受け入れることができないでいる。しかし、認めなければ回復も始まらない。自分の病を知らなければ、神の救いを求めることもできない。神に従うのではない、神を従えて生きている罪から立ち返る歩みをさせていただこう。神は私たちの主である。

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