人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

2歴代誌9章

2012年12月31日 07時48分50秒 | 歴代誌
<朝のディボーション>
シェバの女王の訪問が記録される。シェバは南アラビヤにあり、紅海を隔ててエチオピヤに、またアラビヤ海を経由してインドへの海路もあり、国際貿易が盛んであった。女王はイスラエルとの貿易交渉を目的として訪れたのだろう。しかし、ここでは、ソロモンの富と知恵がテーマとなり、その基本的な目的が明確に示されている。
ソロモンは「幸いなことよ。知恵を見いだす人、英知をいただく人は。それの儲けは銀の儲けにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ。知恵は真珠よりも尊く、あなたの望むどんなものも、これとは比べられない」(箴言3:13-15)と語っている。彼は豊かさの中に生きぬいたが、その豊かさの秘訣は知恵にあった。「銀を受けるよりも、わたしの懲らしめを受けよ。えり抜きの黄金よりも知識を。 知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。」(箴言8:10,11)今日多くの人は知恵よりも、富を欲するところがある。しかし、富を得ようとするならば、知恵が必要である。そして知恵を得るためには、それを捜し求めなくてはならない。それは労力を要することであって、宝を掘り当てるように、捜し探り出すことによる(箴言2:2-5)。知恵は、ある日閃くように与えられるものではなく、積極的に捜し求めていくことによって与えられるのである。本を読み、瞑想し、祈り、そして生活の中に実践することによって得られていく。怠け者に知恵は得られない。勤勉さの中にこそ与えられるものである。
<夜のディボーション>
 また、知恵は、自分のために与えられるものではない。シェバの女王を通して、歴代誌の著者は、「あなたの神、主のために王とされたあなたの神、主はほむべきかな」(8節)と語らせている。つまり、知恵は主のものであって、主がお与えになった責任を果たすためのものである。ここを勘違いしてはいけない。
 ソロモンの王権は、ソロモン自身のためでも、王家のためでもなく、主のために与えられたのであるという。したがってソロモンに与えられた知恵も、主のために用いるべきものとして与えられていた。ソロモンは、「富と知恵とにおいて、地上のどの王よりもまさっていた」(22節)と著者は言う。13節以降は、その知恵によってソロモンが多くの成功を収めたことが記録される。
大切なのは、権威を持ち、そのための知恵を備えられたのなら、その権威を正しく用いることだろう。人々を助けるために、用いなくてはならない。ある人が、働くというのは「傍」を「楽」にすることであると言った。周囲の者が仕事をし易いように、手助けしていく、それが働くことであると。確かに、権威とそれを用いる知恵が与えられたのなら、私腹を肥やすためではなく、神のみころをなし、人々に至福をもたらすために用いる必要があるだろう。周囲にいる者たちが、活かされるように、豊かにされるように用いていくのである。神に与えられた賜物を、正しく用い、神の栄光を現す歩みをさせていただくこととしよう。

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2歴代誌8章

2012年12月30日 09時42分19秒 | 歴代誌
8章
<朝のディボーション>
ソロモンは、20年かけて主の宮と自分の宮殿を建てあげた。それは、確かに偉大な事業であった。1-6節は、それに平行して行われた諸事業が記録されている。それは、「建てたいと切に願っていたものすべてを彼は建設した」ということばに要約される。しかしその中に、注目されるのは、フラムが何の得にもならないと突き返した土地を、引き取って、これを倉庫の町々に建て直した点であろう。人が評価せず捨てるようなものを拾い上げて、これを有用なものに作り変えてしまう、これがまさに知恵者のなすことである。そういう意味では、物事に行き詰まりを感じたり、諦めて投げ出したりしてしまうのは、知恵無きことそのものである。どんな時にも、物事を活かす者となるように、神に知恵が豊かに与えられるよう願い求めたいものである。
また、ソロモンは、イスラエル人と非イスラエル人を区別している。否、神を信じる民とそうでない者を区別し、自らと精神を同じくする者を指導者の地位に据え、そうでない者を苦役に徴用したという。これもまた彼の知恵ある政策を記録するものなのだろう。
教会もそういう意味では、霊的な精神を共有しうるものを、長に据えていくのでなければ、決してその活動をうまく進めていくことはできない。大切なのは、使命の共有であり、共同体観の共有である。使命も共同体観も共有できないものを長に据えると自分の首を絞めることになる。ソロモンに学びたいところではないか。
<夜のディボーション>
さてソロモンは、玄関の前に建てた主の祭壇の上に、主ための全焼のいけにえをささげた、という。つまり、モーセの命令どおりに、毎日の日課により、これをささげ、安息日ごとに、新月の祭りごとに、これをささげたという(12節)。ソロモンが神に従った歩みをしているのは、誰の目にも明らかであった。しかし、ソロモンの私生活は、また異なっている。ソロモンは、パロの娘を妻とし、彼女のために家を建てて住まわせている。この点に関して、ソロモンは明らかに神のこと、いわゆる敬虔な生活については何も考えていない。むしろ、国家間の政治的なお付き合いを考えている。彼が確信犯としてこうしたのか、あるいは、意図せずにそうなってしまったのかは、わからない。しかし、こうしたダブルスタンダードな生き方が、その後のソロモンの歩みをゆがめていくことになったのだろう。
重要なのは、いつでも神の前に生きていることを意識することである。神の前にあって、神のまなざしにさらされて生きていることを覚えることである。人前での評判よりも、心を見られる神の評価の中で生きていることを覚える、これが私たちの真実な歩みを導くものになる。ソロモンは、毎日の日課として、宗教的な歩みをなすように人々に命じた。確かに、毎日根気強く、その習慣が守られるということは大事なことではあり、証となることであるが、大切なのは、神の前でその習慣が守られるということではないだろうか。見せかけではない確かな歩みが、求められている。今日も神と共に、誰の評価でもなく、神の評価の中で歩ませていただこう。

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2歴代誌6章

2012年12月29日 10時29分33秒 | 歴代誌
<朝のディボーション>
神殿奉献の祈り、ソロモンは開口一番にこう言う。「主は暗やみの中に住む」(1節)。「光」の中ではなく「暗やみ」の中というのは驚きである。しかし「暗やみ」と訳された言葉は、ヘブル語でアラーフェル。いわゆる闇と訳されるホーシェクではない。それは、雲が厚く重なることによるやみを意味する。つまり、エジプトを脱出したイスラエルの民が、シナイ山で厳かな神の臨在を体験し、遠く離れて立った時(出エジプト20:21)を連想させるものである。そのようにソロモンは、神は私たちにとっては近づきがたいお方であることを認めた上で、しかし、主の臨在される神の宮が、神の恵みが豊かに注がれる場となるように祈るのである。では、神の恵みはどのような時に注がれるのか、あるいは注がれるように祈られたのか。ソロモンが挙げた具体例は四つある。
一つは罪を犯した時(24-27節)。このような時に私たちは、敵に打ち負かされた、神に祝福を拒まれた、と暗闇に沈んでしまうものだろう。そして近づき難き神をますます遠く感じてしまうことがある。しかしそのような時にこそ、神の宮に足を運び「立ち返って御名をほめたたえ、祈り願」うことで、罪が赦され、回復され、再び主の祝福を注いでくださるように祈ることが大切なのである。神の恵みはそのような者に注がれるからである。
第二に、ききんや疫病、害虫による災害、いわゆる不慮の災いに巻き込まれる時。自らの落ち度によらぬ災いに苦しむ時に、神の民は、神の宮に足を運び、主の宮に向かって、祈り願い、神の報いを受けることが必要である(28-30節)。それは、神の民ではない異邦の民も同じである。神は人類の父であり、全世界の人々を其々の時代と地に定められたお方である。神の宮は、外国の民にもまた、祈りをささげる場として開放されている(32-33節)。そして第三に、私たちが敵に立ち向かう時、私たちがチャレンジを受ける時に、神の宮は祈りの家とされる。敵に敗れた時も同じである。つまりいつでもいかなる時にでも、私たちは教会へ足を運び、主の祝福を熱心に求め、主の恵みに預かることが大切なのだ。
<夜のディボーション>
大切なのは、ソロモンの神観である。次の7章では、神が確かにソロモンのとりなしを受け入れたことが語られているが、神は、約束を守られる誠実な方であるばかりか、実にソロモンが期待を寄せたことに応えられるあわれみ深い神なのである(14節)。だから私たちが神をどのようなお方として信じるか、どんな希望を神に寄せうるかは、私たちの神理解による。神などいないと思ってしまえばそれまでであるし、神を信じていても、神は私などには何の興味もないし何もしてくださらない、と思ってしまえばそれまでである。後ろ向きな信仰のゆえに、私たちは神の祝福を受け損なっていることがあるのだろう。
神は暗闇の中に住まわれるお方であり、救い主イエスもまさに、究極の暗闇の中に自分の身を置かれたお方であるということだ。暗闇には希望がある。そして神の宮は、その希望を求めて祈りをささげる場である。神の家は祈りの家と呼ばれるのは、神ご自身に希望があるからだ。神を信じよう。信じて、一歩踏み出して歩ませていただこう。

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2歴代誌5章

2012年12月27日 09時10分46秒 | 歴代誌
<朝のディボーション>
完成した神殿はがらんどうであった。そこに、聖別されたあらゆる聖具が運び入れられ、納められた。その中に、主の契約の箱もあったが、そこには、モーセの十戒の板の他は何もなかったとされる。つまり、芽を出したアロンの杖とマナの入った金の壺は失われていたということである。
イスラエルで杖は、持ち主の身分を証しするものとして用いられた(創世記38:18,25)。アロンは杖を用いて種々の不思議を現し(出7:9-10,12,19-20,8:5,16-17)、祭司職がレビ族のものであることを明らかにした。またマナは、エジプトを脱出し、荒野を彷徨っていた時に、神がイスラエルに与えられた食物である。イスラエルの民は、マナによって自分たちを養われる神を信頼するように教えられた。後にイエスは、マナの経験を取り上げ、ご自分が「いのちのパン」であることを示された(ヨハ6:26-35)。つまり、マナは、いのちのパンの雛形であり、神の配慮と守りを覚える象徴であった。
歴代誌の著者は、バビロン捕囚帰還後にこれを記したと言われる。つまり契約の箱は、ソロモンの時代から約500年の戦禍を潜り抜けて「今日までそこにある」(9節)ということになる。そしてその中には、神の契約が記された十戒が残され、アロンの杖とマナの壺は失われていた。残されるものとそうでないものがある。実際、神殿の完成と祭司職の制度化により、アロンの杖とマナの壺は、その意義を失ったと考えてもよいのだろう。むしろ、神の摂理的配慮によって残されなくてはならないものは、神の言葉の象徴である十戒そのものだった、ということである。
<夜のディボーション>
イエスは、十戒の精神を、神を愛し、人を愛することにあると要約した。パウロは、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(1コリント13:13)と語ったが、実に、愛の戒めの象徴である神のことばが契約の箱に収められ、がらんどうの神殿に収められたことの意味は大きい。ヨハネは「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(1ヨハネ4:12)と語っている。教会は神の愛が大事にされ実践される場であり、神の愛によって飾られる時に神の栄光が満ちあふれる場でもある。
私たちが会堂を持ち、教会を建てあげるならば、まずそのがらんどうの会堂に、愛が満ちあふれることに意を注がなくてはならない。神の愛が、実践され、体験されなくてはならないのである。
そうであればこそ、「まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせる」賛美も起こりうるのだろう。教会に来る者の心がばらばらであったら、決してこのようなことは起こらない。しかし、神の愛にそれぞれが整えられ、神をこころ一つにして仰ぐときに、まさに、礼拝は神に祝福されたものとなるのである。

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2歴代誌4章

2012年12月26日 08時42分25秒 | 歴代誌
<朝のディボーション>
 神殿で用いられる青銅の祭壇、鋳物の海、洗盤などの製作について記録される。これらは皆「規格どおりに」(7、20節)造られた。かつて幕屋を造った際、「主がモーセに命じられた通りに」(出エジプト39-40章)造ったということを思い起こさせる。神殿および、神殿の用具が、神のみこころに沿って、規格どおりに造られるということが、やはり、この事業の主がどこにあるかを思わされることである。
 教会を建てあげるというのは、私たちが主体の事柄ではない。つまり、会衆の意見を吸い上げ、総意をまとめ上げて建てる類のものではない。すでに、神のみことばに従う訓練のできている者たちが、神のみことばに聞き、従うところからできていくものであろう。そういう意味では、神の規格、神の命令に意を注ぐ思いがなくては、教会というのは建て上がらない。それは、具体的に言えば、聖書をよく読むという営みが教会に興らない限り、真の意味で教会が教会らしく建て上がることはない、ということでもある。
また、ソロモンは、この時期、内政、外交、経済と、様々な働きで忙しい時期であった。しかしそれでもこれらをすべて、やり遂げることができたのは、やはり、神がそのような人材フラムを備えてくださったこともあるのだろう。フラムは、「王が注文した仕事を完成した」(11節)とある。またフラムの仕事は王の仕事として記録される(17節)。まさに教会に必要とされるのは、其々の教会に神が立てられた牧師と一つ心になって、教会を建て上げるように働く奉仕者である。教会は牧師と信徒の共同の業として建て上げられていくのである。
<夜のディボーション>
さらにソロモンは、これらを、「ヨルダンの低地、スコテとツェレダとの間の粘土層の地で、これらを鋳造した。」(17節)という。粘土は、鋳型にするために必要なもので、鋳造に利用された。簡単な記述であるが、教会を建てあげるために必要とされるものは、神ご自身がすでに備えてくださることを思わせてくれる。私たちは何一つ自分たちで用意して教会を作り上げるということはないのだと思う。力があればそのように錯覚するのであるが、よく考えてみれば、私たちに力を備えてくださるのも神であるし、ありとあらゆる必要を満たしてくださるのも神である。自分でできる、あるいはできないと思うところに私たちの高慢さがある。むしろ、すでに与えられているものを生かしていく。身近にあるものを生かしていく、ことを大事にすることを考えるべきなのだろう。
 そういう意味では、いつでも祈りの中に、自分自身が今、何を活用するように与えられているのかを悟る力も必要だ。無い物ねだりをするのではなく、すでにあるものを覚える。預金の残高や頭数の多さなどではなく、自然に備えられているものに目を留めていく。神が自然の恵みとして与えられているもの。私たちの周りに、あるいは、私たちの内に備えられているものに、目を留めていく。主が私たちに主が備えられた富の豊かさを用いる目、用いる力を備えられていきたいものである。

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