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ヨハネの福音書5章

2011年06月17日 06時12分19秒 | 小預言書
 「その後、ユダヤ人の祭りがあって」という。いったい何の祭りのことか。おそらく、3月に行われた、プリムの祭りではないかと考えられている。すでに、バプテスマのヨハネの出来事は思い出話になっているから(35節)、おそらく、イエスの公の生涯の2年目のことで、過ぎ越の祭りの直前であったのだろう(6:4)。ただ、この祭りが9月に行われたラッパの祭りの可能性もあることが指摘されている。
 場所は、エルサレムの羊の門の近くのベテスダの池。現在のエルサレムの北にある聖アンナ教会の北西30メートルで発見された南北2つの池がそれであると考えられている。大きく二つの池(男子と女子の巡礼の沐浴用)に分かれ、その池を囲むように5つの回廊があった。欄外注を見ると、その池には神のあわれみによって病気がいやされるいう迷信があったらしい。アラム語で「あわれみの家」という意味を持つベテスダと呼ばれるようになったのは、そういうわけなのだろう。
 そこに38年も病気で苦しんでいる男がいたという。長いこと苦しんできたその男に、イエスは、「よくなりたいか」と声をかけた。それに対する男の答えは「もうあきらめていますよ」というものだった。自分の病など治りっこない、このまま朽ち果てていくのだ、そんな思いだったのだろう。確かに38年の病に希望を持つことはできない思いであったことは理解される。38年も長く曲がっていたものを真っ直ぐにすることは人間には不可能なことである。しかし、神にとって全く問題ではない。たとえ38年もの間、慢性化し、固定化されてしまったものであっても問題にはならない。ここに、私たちの希望がある。イエスは命じられた。「たってふとんをたたんで家に帰りなさい」イエスが言われたことばにこの男の病気はたちまち癒されたという。
 何か不思議な話である。イエスの奇跡といえばそれまでであるが、一つ興味深いことがある。ギリシャ語では、病気の訳語に3つの言葉が使われる。一つは病気全般を総称するものとしてのノソス。次に一時的な病気を意味するものとしてマラキアが多く用いられている。この箇所で用いられている第三の語は,アスセネイアであり,その意味は、普通に生活はできるが、長期の疾病状態にあり弱くなっている状況をさす。
 例えば、ガラテヤ4:13「ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、肉体が弱かったためでした」の「肉体の弱さ」という原語がアスセネイアである。パウロはこの時、マラリヤにかかって高熱で苦しんでいたといわれるが、当時の医療を考えれば、よい治療法がない、心身ともに大変なダメージを受ける病気であった。期間が長くかかる、なおりにくい、闘病生活といった雰囲気の感じられる病気。しかも、手足が動かなく、日常生活はまったくできないというのでもない。問題はそういったしつこいトラブルの中に置かれているという状況である。
 また、Ⅰコリント 15:43「卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ」の「弱い」の原語が、アスセネイアである。人間の腐敗した心、自分の力ではどうすることもできないかたくなな心、わかっていてもやめられない式にずるずると罪深い生活を繰り返す愚かな心を表現している。これは、もう身体的病気とは関係のない、心理的トラブルそのものである。ある注解者は「腐敗に抗することのできない死体の状態のこと」と説明しているが、それほどに重いトラブルを背負い込んで生活している状態が表されている。
 このように、アスセネイアは、聖書では主に、2種類の訳語「病気」、「肉の弱さ」で用いられているが、その本質的な意味は、普通に生活できていながら、身体的あるいは、心理的など様々なトラブルを抱え込み、長い葛藤の中に置かれ続けていること、しいては弱くなっている、無力となっているというところにある。
 となれば、この病人の問題は、大方が意志の問題であったのかもしれない。イエスが「もう罪を犯してはなりません」(14節)で忠告されたのも、この人がだらしなく、考えの足りない人であったことを意味していたのかもしれない。ともあれ、私たちが肉の弱さに自分を放置してしまうということはあるものだ。感情に流されるまま、気分に流されるまま、そんな癖に、私たちは神のことばをもって楔を打ち込まねばならないのである。
19節以降は、ユダヤ人との論争になる。キリストは,既に,言葉ではなく業を持って注目すべき主張をしている。38年もの間病にあった男の癒しは、キリストが神であることを主張するのに十分なものであった。しかし、盲目なユダヤ人たちは、その奇跡に含められたメッセージを読み取れず、むしろ、安息日に奇跡が行われた事実につまづき(9-17)、怒りをイエスに向けるのである。こうしたパリサイ人の痛烈な批判に答えて、イエスは、驚くべき主張を展開する。一つは、キリストはご自分と神とが特別な関係にあることを示された。イエスは神を「私たちの父」とは呼ばず、「私の父」あるいは「父」と呼んでいる(17,19節)。イエスは、自分を神と等しい関係にあるとするばかりか、同じ働きを分かちあっていると主張したのである19-20)。
また、イエスは、ご自分が人に命を与える存在であることを語る(21,26)。これは 1:4からこの福音書の根本に流れている思想の繰り返しであり、11章のラザロのよみがえりで具体的に語られることである。今日多くの宗教や多くの霊能力者が、癒しの力を主張するが、死人にいのちを与えることができるのは、キリストをおいて他にない。人は、病める者に薬を与えることができる。飢えた者に食べ物を、弱き者には望みを、孤独な者には慰めを与えることができるだろう。しかし、死がやって来た時には、人はただ同情とあわれみを持って接する以外に何もできない。命を与えることは決してできない。それは神の領域だからである。イエスはこの力を持っていると主張した。イエスはこのようにしてご自分を神であると主張したのである。
 さらにイエスは、自分が裁き主であることを主張した。(22,23)大方の人は、父なる神が最後の裁きを人類にもたらすと信じている。しかしそれは誤りである。最後の審判に関わるのは父なる神ではなく、イエスキリストである。キリストは救い主であると同時に裁き主なのである。そして同時に、その裁きにおいて、罪を赦し、免じる権威があることを主張される。「まことに、まことに、あまたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死から命に移っているのです(24)。」
 キリストは、命を与えると同時に裁きをもたらすお方である。また裁きにおいて赦しを宣言する権威のある方である。このキリストの言葉が真実であるとするならば、私たちはどうするべきであろうか。イエスは言う。「もっとも、あなたがたが信じられないのも、むりはない。互いにほめたり、ほめられたりすることは喜んでも、ただ一人の神様からほめていただくことなど、まるで関心がないのだから」(44節)あまりにも目に見えるところだけで生きているがゆえに、神に望みを抱くことができない、ことがある。目を天に向けよ。神がいる。神にはいのちと希望がある。その神が遣わされたイエスを認めよ。これが聖書のメッセージである。今日もこの神に望みを抱いて、自らの思いを神にすべて打ち明け、神の働きが成される事を願いつつ、始めることとしよう。

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