【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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伝道者の書8章

2017年01月19日 06時22分10秒 | 伝道者の書
今の自分だったら、あんなふうにはならなかっただろう、そんな風に思うことは誰にでもあるだろう。「知恵は人の顔を輝かし、その顔の固さを和らげる」(1節)まさにその通りで、知恵がなかったが故に、顔を強ばらせて生きていることがある。知恵は一朝一夕で身につくものではないから、そういう時を過ごさねばならぬ、こともあるだろう。ああいう時を過ごしたから今がある、ということもある。いつでも物事を正しく理解できて、適切に対処できたら、申し分のない人生を生きることができるのだろうが、そうではないから、人は謙虚に知恵を求め続けて生きなくてはならない。
 2節、「王の命令を守れ。あわてて退出するな」、と言うのは、王の権威を認めて、くちごたえをしたり、挙動不審と見られたりするようなことはするな、ということだろう。当たり前のことを当たり前にせよ、と語っているようだ。しかし、なぜ急にこんな王の話題を出したのであろうか。唐突のようにも思われる。新改訳は2-5節を、区切って訳している。挿入的な戒めのようでもある。
 しかし、続く6節を読めば、著者の思考の中では、すべてがつながっていると考えられる。つまり、私たちはしばしば余計な災いに首を突っ込むような生き方をしていることがある。だから、そうならないように知恵をもって思慮深く歩む、つまり李下に冠を正さずを心がけることは、大切だ、となるのだろう。
一方、後半は、人生には知恵も思慮深さも役に立たない不条理性があることを語っている。人間の知恵と思慮深さを欺くような、実に、むなしい現実が社会にはある。「悪者の行いに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある」(14節)。なんとも馬鹿馬鹿しい限りのことがある。だから、この世は面白おかしく生きるしかないということにもなりかねない。矛盾だらけの人の世で、正しく生きる事の何の意味があろうか、というわけである。
 だが、伝道者は、すでに「あれもこれも神のなさること」(7:14)と語っている。ここでも「すべては神のみわざである」(17節)と繰り返す。どんなに物事が不条理に動いているように見えようとも、神の正しい裁きが行われるというのは、著者の確信である。というのも、不条理さの中に、実は、私たちに後のことを悟らせないための神のご計画があるからだ。人は物事を見通せないからこそ、愚かさを繰り返す。しかし、物事を見通せないからこそ、物事を不条理に感じてもいる。初めからわかっていれば決して犯さない過ち、決して持つことのない焦燥というものがある。人間の知恵の有限性、不完全性の故に、人間は鳥越苦労していることがある。「人は日の下で行われるみわざをみきわめることはできない」(17節)物事にはそんなところがある。だから、不条理と思われる事柄があっても、そこで腐ってしまうのではなく、むしろ謙虚に、神の働きを信頼し、泰然自若として生きる歩みが必要なのだ。こうして伝道者の書は、箴言に通じるテーマを繰り返していると言える。知恵の初めに神を恐れることが大切なのだ。