ツキハモウロウ

ウキヒトノ ツキハナニゾノユカリゾト
オモイナガラモ ウチナガメツツ(藤原実定)

「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対する私なりの回答

2008-01-10 20:17:00 | リンク
なぜ人を殺してはいけないのか?

多くの世界では、人をむやみに殺してはいけない、といわれていますが、たとえタブーであっても、実質的に、完璧に制限されているわけではないです。人には何種類かあって、元々人を殺せる人ではないのか、あるいは制限されているから単に人を殺さないでいる人なのか、または思いがけず殺してしまった人、と分けることができると思います。「人を殺すことはいけない」というのは、この真ん中の人に向けているのですね。制限しても、いくら中止させても、殺してしまう人は殺してしまうようです。このあたりは、だいぶニヒリズムとしてとらえられてしまうかもしれませんが、もし、この「悩み」を忘れて、「人は人を殺すものなのだ」と短絡してしまったら、私たちの住む世界はもっともっとひどくなる。ですから、「元々人を殺せない人」を多く世に送り出すべきなのです。そして、そのような人をどう育めるのかというと、きちんとした生活実感の中から生み出されていると思います。生活に愛着を感じれば、共感する「能力」が先立って他者に対する想像力がわき上がります。一人で過ごすよりも、誰かと一緒に生きていたくなる。その「誰か」に対し、危害を加えれば、また独りぼっちになってしまうわけです。これはキツイ。こういった言い方に抵抗のある人も存在するでしょうが、人を愛することも、一つの「能力」なのだと思われます。この能力は、後天的にいくらでも育てられるはず。人は一般的な動物と違って、自分の生きる環境を、大幅に改変できるからです。意識に対しても、意識的な鍛錬を加えれば、だいぶ変わるのです。この点に関しては、自由意志の強さを認識したいです。もう少し付け加えますと、たぶん私はだいぶ性善説に偏っていると思われますが、この立場でないとクリアーできない問題というのもあるはずです。あるいは、蛇足ながら、荀子の語る「性悪説」とは、人は欲に従うことを前提にした理論であって、人間が本質的に、英語で言う「evil」であるという理屈では、ありません。このあたりはだいぶ誤解されているようです。ディオのような人格は漫画の中だけだと思いたいですw 親鸞が語った「悪人正機説」も、そのような人ほど自分の行いに悔いさえすれば、仏道に大きく「ぶれる」、というロジックのはずです。「悪人」という発想そのものが、もう宗教者が救済を施すロジックにはめ込まれているのですね。そして、人を愛すれば、よもやその生命を殺めるなどという発想は、生まれ得ようもないということは、蛇足ながら付け加えておきます。できれば、このネタの発案者の方も、その列に習っていただければいいのにな、と願うのですね。逆に、人が人を殺す現場では、理論はあまり有効ではないのではないかと思うのです。人がナイフを持って誰かを刺し殺そうとする十秒前、その悪意を分析しても、あまり意味がない。できることというと、寛容さを常時保ち、「悪意を抱く」という「外堀」を埋め続ける作業でないと、有効ではないだろうと考えます。この作業は先にも述べた、他者に対する共感に値するのだと思うのです。
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