hakuunの未来ノート

将来のため、人生やビジネスに関して、考えたこと、感じたことを綴ります。

銀座三愛のエピソード

2012-12-12 | 人生観

話し方教室の最終講義は、創設者のビデオ講座があった。

財界の実力者でリコーの創業者である市村清の想いを語った素晴らしい講話であった。
ちなみに、この市村氏の経歴を調べてみた。
簡単に紹介する。
この市村氏は、昭和初期から中期の日本を代表する経営者の一人である。

1960年代、「経営の神様」としてマスコミの寵児となった。
東急電鉄の創業者五島昇、ソニーの盛田昭夫ら若手経営者や大宅壮一、邱永漢、今東光、升田幸三等の文化人が市村を取り巻いて教えを求めた。
世間はこれを「市村学校」と呼んでいた。
市村氏とは、このような人物である。


では、覚えている範囲を再現したい。

社長の市村は、
「企業経営者として、何とか銀座のど真ん中に土地が欲しい」
と思っていた。
東京は日本の中心である。
東京の中心は、なんといっても銀座である。
さらに、銀座の中心は、銀座四丁目である。
「企業人として、なんとか、日本の中心である銀座四丁目に土地が欲しい」
と、市村は日々考えていた。

しかし、銀座四丁目の交差点を取り囲む土地は、三越、ワコー、サッポロ、と企業が持っている。
あと一つは、足袋屋の佐野屋、個人商店である。
企業は、絶対に売らない。
可能性があるのは、個人商店である佐野屋だけであった。

そこで、市村は、佐野屋から銀座四丁目の土地を譲ってもらおうと考え、
ある日、社長の市村は佐野屋を訪れた。

「ごめん下さい。市村と申します。
「申し訳ないのですが、銀座のこちらの土地を譲っていただきたいのですか?」
と市村は要件を切り出した。

佐野屋の社長は、
「ダメです。私どもはここで昔から商売を営んでいます」
「それにこの土地は、母親の名義です」

「では、お母さんとお話しさせてください」
と市村はお願いした。

そこで、社長のお母さんであるご婦人がお店に出てきた。
「私は、市村と申します。
申し訳ないのですが、こちらの銀座の土地をお譲りしていただけないものでしょうか?」
とお願いすると、
「私どもは、先祖代々、この土地で商いをしています。
この土地をお譲りすることはできません」
と、はっきり断られた次第であった。

その後、社長の市村は、この佐野屋に何度も通うが、いつも断られていた。


正月明けのある雪の降る日、
「このような日にはお客がいないだろう」
と思い佐野屋に向かった。
東京の雪は踏み固められており、足元をおぼつかせながら市村は、佐野屋に向かった。
市村の姿を見たご隠居のご婦人は、びっくりして
「ようこそおいで下さいました」
と、ていねいに出迎えてくれた。
「実は、この土地の件で来たのですが」
と市村が言うと
「後日、改めてお返事します」
ということで、帰ってもらった。

ある日のこと、ご隠居のご婦人は、積もった雪の上を下駄で出かけて行った。
終戦直後の状況は、今とは全く異なる。
今であれば、車で行くだろう。
また、山手線や京浜東北線の電車にお年寄りが乗れば、
「どうぞ、こちらにおかけください」
と席を譲ってくれるだろう。

しかし、戦後の荒廃期は電車も貧弱であり、乗る人にもゆとりがない。
通路にも人が溢れ、中には屋根に乗る乗客もいるぐらいであった。
そのような状況であったから、誰も佐野屋のご隠居には席を譲ってくれなかった。
ご隠居は、雪の中、苦労しながらこのような電車に乗り、市村の会社に向かったのである。

ご隠居は、やっとの思いで、市村の会社に到着した。
雪が降る中、歩いてきた佐野屋のご隠居は、足元はびしょびしょに濡れている。

受付に向かい、女性に来社の要件をつげると、
「このような寒い日に、おいで頂きありがとうございます」
「社長室は三階にあります。そのままお上がりくっださい」
といった。

しかし、ご隠居の下駄は、雪の中を歩いてきたため、下駄の端には雪が挟まり、足元全体が汚れていた。そこで、ご隠居は下駄を脱ぎ、冷たいコンクリートの階段を素足で上がろうとした。

その時であった。
受付嬢が、ご隠居の様子を見て、駆け寄ってきたのである。
「私のサンダルで良かったらお履きください」
と自分が履いていたサンダルを脱いでご隠居に渡したのである。
受付嬢は、素足で冷たいコンクリートの床に立っているのである。

「よいのですよ。貴女の足元が冷たいでしょ」
「いや、大丈夫です。お客様に冷たい思いさせるわけにはいけません。
よかったら、使ってください」
と笑顔でご隠居に勧めたのである。
「ありがとうございます。それでは使わさせていただきます」

さらに、この受付嬢は、
「寒かったでしょ。大丈夫ですか?」
と優しい言葉をかけ、自分の母親をいたわるように、ご隠居を抱きかかえながら階段を上って行ったのである。

その騒ぎを聞きつけ、社長の市村は社長室から飛び出てきた。
「これはこれは、この雪の中、ようこそおいで下さいました。わざわざおいで頂きありがとうございます。私のほうからお伺いしなければならないのに申し訳ありませんでした」

「いえいえ、私が好きで来ましたから、気にしないでください」
とご隠居は答えた。

「今日伺ったご用件は、銀座の土地の件です」
「それで?」
「はい、やっぱり断ろうと思って参じました。代々の先祖が守ってきた土地を私の代で売っては先祖に申し訳ない。売ることはやめました」
「そうですか?残念です」
と社長の市村は、肩を落とした。

「しかし、今考えを改めました」

「私が、御社を訪れた際、こちらのお嬢さんが、自分が履いていたサンダルを脱いで私に譲ってくれたのです。自分は冷たいコンクリートの床の上に素足でいるのです」

「さらに、この三階に上がる際、優しい言葉をかけていただき、自分の母親のように私を抱きかかえながら、一緒にきてくれたのです」
「このような心の優しいお嬢さんがいる会社の社長さんなら、きっと立派な方だと思いました。
このような立派な方にあの土地を譲っても先祖は納得してくれるに違いありません」
「無条件でお譲りします」


「本当ですか!」
「ありがとうございます」

社長の市村が何回も何回もダメだった交渉が、受付のお嬢さんの心温まる対応の仕方一つで解決したのである。

多くの経営者から「経営の神様」と慕われた市村が出来なかった仕事を、一人の女性の話し方でやり遂げたのである。

いかに、「話し方」が大切であるかがわかるエピソードである。

一方で、このエピソードをメンタル面から企業経営を捉えると、

「人は感情の動物である。
相手の心に寄り添い、共感して対応することである。
その対応ぶりに、相手は喜び、感動するだろう。
そうすれば、自ずとビジネスは成功するだろう」
という心の本質を物語っている。

その後、社長の市村は「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の三愛主義をモットーに三愛商事を設立した次第である。

また、受付のお嬢さんには、「家が一軒買えるお金」を報奨金として与えたということである。

今回、創業者の話し方を初めて聞いた。

間の取り方、ゆっくりした口調、なんといっても相手の気持ちに沿った愛情あふれた話し方である。

あたかも自愛溢れた祖父が自分の孫に対して諭しながら、心に寄り添うような話し方であった。
これは、テクニックではない。
いや、テクニックもあるだろう。それ以上に創業者の人格である。

久しぶりに、良い話をきいた思いがする。

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