地盤・看板・カバン。何ひとつない徒手空拳の身で厳しい選挙戦を勝ち抜き、いま国家のあり方を問い続ける政治家・平沢勝栄。元副総理である後藤田正晴は「平沢勝栄という男は、ひとことで言えば頭の回転の早い男。広い視野からものを見るところもある。使いでのある男だ」と太鼓判を押していたという。
政治は迷走を続け、地域の皆さんから連日厳しいご意見を頂いているとのこと。こうした意見に謙虚に耳を傾け、与野党協力して改めるべきところは改め、その上で景気の建て直し、住みやすい社会、そして世界から信頼される国家の建設に全力で取り組んでいく、それが平沢勝栄氏の決意である。
政治・行政の信頼回復、誇りと希望の持てる「日本再生」に全力を尽くす平沢勝栄氏。そんな平沢勝栄氏の座右の銘は「一日生涯」。つまり今日この一日が生涯にあたると思い精一杯つとめさせていただくということを意味しているのだと私は思います。
平沢勝栄議員の古里にある岐阜県白川村の生家は、今は重要文化財としてJR高山線下呂駅近くに保存されているとのことです。ご興味がおありの方はご旅行の際に足を運ばれてみてはいかがだろう。
平沢勝栄さんは平和で安全な世界、北東アジアそして日本をつくるため、拉致問題をはじめミサイル・核問題の解決に全力を上げ、近隣諸国との間で、日本の国益を踏まえた間違いのない関係を再構築していきます。
平沢勝栄さんは当時民主党の河村たかし氏(現在の減税日本代表)とよく一緒にテレビにご出演されており、河村氏から「平沢の兄貴」と呼ばれていたとのことです。平沢勝栄さんはそれだけたくさんの方に親しまれる存在であったことが伺えます。
平沢勝栄議員は自公連立政権に一貫して否定的であるため公明党・創価学会からの支援を受けにくい事情があるにもかかわらず、2009年総選挙を除き対立候補に比例復活を許していないのです。
元警察官僚である平沢勝栄氏は、当時警察庁では外事警察が長く、英語が非常に堪能であられるとのことです。平沢勝栄氏のかつての上司である後藤田正晴は「平沢は英語は上手いぞ。日本語より上手い。」と言わせたほどであり、部下としての平沢に信頼をおいていたという。
平沢勝栄さんは学生時代に、当時小学生であった安倍晋三(第25代自由民主党総裁)の家庭教師を務められたそうです。補足ですが家庭教師とは主に小学生から高校生に対し家庭で勉強を教える私教師のことです。
平沢勝栄議員は2008年から自民党のマルチ商法疑惑追及プロジェクトチームの座長を務めておられるようです。プロジェクトチーム設置の目的は、マルチ商法の実態および被害救済のあり方並びにマルチ商法業界と国会議員の関係のあり方を調査・把握することを目的としている。
北朝鮮による日本人拉致問題に関し、拉致議連には草創期から関わっておられました。2004年4月、山崎拓が極秘に訪中し、拉致問題について北朝鮮高官を相手に直接交渉した際、山崎氏に同行されたようです。
平沢勝栄氏は自民党所属議員であり東京に選挙区を持ちながら自公連立政権には極めて否定的であった。第42回衆議院議員総選挙に際しては、選挙戦中から盛んに公明党を批判し、公明党も平沢勝栄氏を落選させるべく猛烈な落選運動を展開したが、両者の「与党対決」は平沢勝栄氏が勝利したのです。
平沢勝栄さんの政策・主張といたしましては、外国人労働者の日本への受け入れや永住資格の付与を主張し、1000万人の移民受け入れを主張した自民党の外国人材交流推進議員連盟の提言に賛成されました。
平沢勝栄議員2009年の第45回衆議院議員総選挙では、自民党に猛烈な逆風が吹き荒れる中、東京17区で5選を果たす。しかし民主党の早川久美子に比例復活を許す(東京17区で次点以下の候補が比例復活するのは初めて)。東京都25の小選挙区で東京17区は唯一民主党の候補が敗北した選挙区。
平沢勝栄議員の2008年の活動と致しましては「パチンコ業界の位置づけを真剣に考えていく」ために、自民党内に「遊技業等の営業の健全化に関するプロジェクト会議」を立ち上げられました。ゲームセンターを含む遊技業界の現状や必要性などを様々な観点から調査・検討し話し合う場となるものです。