ちび猫のつぶやき

宇宙人の独断と偏見なのですが、警鐘を鳴らす訳ではなく希望の光を照らす訳でもなく、ただ足下の事を皆で見ていたいだけなのです

49.『ジオログ』を転写します(2)

2012-12-11 | つぶやき
第0049号


*****(制作終了)*****


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≪上記の『簡易ホームページ』と『本文ジオログ』はYahooで作成したモノなのですが、最近になって当ブログからの新たな“リンク”が、『gooブログ』の管理者から【不正な書式】として時々制限されるようになってしまいました。以前に制作したブログ第0048号からは“リンク”が確実なので、当ページからのアクセスが出来なかった場合はページを第0048号へ変えてから再度『ホームページ』か『本文ジオログ』をクリックしてアクセスしてみて下さい。≫



~~~第0048号からの続きです~~~





No.25-『場面緘黙症』の治療と『科学革命』 (その3)


科学史の世界においては、『一つのパラダイム』の枠組み的な条件付けによって個々の個人や各分野での科学の進歩がその枠組み内に制限されるモノではあっても、その『科学の枠組み』の利用価値が高ければ広く安定して用いられ。さらにはその『科学の枠組み』の高い安定度によって『窮屈(キュウクツ)な枠組みでしかないパラダイム』という縛(シバ)りになってしまいながらも何時までも維持されてしまうのです。
しかしさらに時間が経過すると、技術革新や思想の変化などに急(セ)き立てられるようになってきて、より包括性が高まるような大きく段階的な革進をしないと如何(ドウ)してもいけない状況に追い詰められてしまい、ついには≪古い『パラダイム』が一旦壊(コワ)され、包括性をある程度高める為に科学的各分野の【ネットワーク化】が可能な範囲で図られた新たな枠組み的な条件付けを持った新しい『一つのパラダイム』が利用価値の高い『科学の枠組み』として現れて、古い枠組みの中で制限を受けて来た個人の思惑(人の意思)を一気に超越して【自然合理的】に『一つのパラダイム』に覆(オオ)い尽(ツ)くされる≫という、『科学革命』と呼称(コショウ)される【科学史における大転換】が起こるのです。
そしてこの一連の事が『パラダイム』と『科学革命』の基本的な概念とするのが原則であり、『パラダイムシフト』の『シフトチェンジ』という観念で扱われるモノが『パラダイム』の概念の中で枠組みの制限を受けてしまう個人が主体となって起こすモノであるものだから、個人が何を行いどんな探求をしてみても、『一つのパラダイム』が大きく段階的に革進される【自然合理的】な『科学革命』にたどり着く事は出来ないと、胆略(タンリャク)的に考えてしまいやすいのです。

しかし、『一つのパラダイム』の枠組みの制限を受ける個人の行いや考えであっても、現代のように技術革新が加速的に進み、情報が広範囲で迅速・大量に通信され、思想の自由も飛躍的に進むなどの条件がそろい、それらが大量に集まり【ネットワーク化】がされる社会整備が安定して維持されているのであれば、個人の思惑(人の意思)とは無関係に新しい『一つのパラダイム』が大きく段階的に革進するだけだと思われていた【自然合理的】な『科学革命』が、《緩(ユル)やか》に試験も兼ねて『幾(イク)つものパラダイム』が《多種多様》に革進される【人為的】な『プチ科学革命』が【試行錯誤的】に繰り返される【新しい科学史の転換】に取って代わられていると考えても良いのではないかと思うのです。またそうあらねば、近代文明のこの躍進を持続させる事が困難になってしまうのです。
だが、【人為的】な『プチ科学革命』が【試行錯誤的】に繰り返される【新しい科学史の転換】がもう始まっていて、それなくしては今後の発展の持続が望めないと言うのはよく分かりますし、問題点や危険性も多々有るのではないかと言う慎重論も分かるのですが。【人為的】な『プチ科学革命』だからと甘く見ていて、社会の序列からはみ出さずに『優等生的なパラダイム』への革進をセオリー通りに目指していればそれで良いと割り切ってしまって、ただ漫然と生きていて良い訳がないのです。個人であればこそ許される高度に自由なレベルを最大限に活かし、くだらない事やタブーとされている事や手垢(テアカ)の付いた事を掘り起こしてきて、もっと有効活用しないといけないハズなのです。
【人為的】な『プチ科学革命』とは言っても目指す所は【自然合理的】な『科学革命』であるのだから、その事をよく理解し認識して置くコトは必要でありますし、【無作為】でありながら進歩を続ける事が重要でありますし、初心を失わずにモラトリアム精神とチャレンジ精神を合わせ持つ事も大切であります。そして、『科学の枠組み』の制限に縛られてしまって、【人為的合理性】の追求や積み上げに拘(コダワ)り過ぎてしまうのにも、少なからずは注意しなくてはなりません。

ですから、人の努力ではどう足掻(アガ)いても【自然合理的】な『科学革命』にたどり着く事は出来ないのだし、もうじき個人の思惑(人の意思)を超越した【科学史における大転換】がやって来てしまうのだからと言って、閉塞感(ヘイソクカン)にジタバタする周囲をあざけって無気力になったり、科学技術の進歩や平和の維持に否定的となって自暴自棄になってしまったりする必要は無いのです。




No.24-『場面緘黙症』の治療と『科学革命』 (その2)


私が『場面緘黙症』を改善させて来た過程の事について{最近の事について特に}自分自身を振り返って表現してみると、一言で言うなら≪いつの間にか奇跡的に偶然が重なってしまって、『馬鹿馬鹿しい事』をダラダラとやっている内に『場面緘黙症』の原因究明と治療法の確立へと至ってしまった≫となり、何をしたのかと言えば≪私的だからこそ許される自由なレベルで、考えられる事はどんなくだらない事でも考えてみて、罰当たりな事でもやれる事は何でもやってみた≫となり、した事を形容すると≪直感だけを頼(タヨ)りに八方に開いた小さな穴を見つけ出してはチマチマと塞(フサ)いだだけで、それが何の形で出来ているのかも分からずに、何の形にするのかを目指す事もせずにいた≫となります。

簡単に言ってはいるが、不治の病(?)と思われがちな『場面緘黙症』の原因究明と治療法の確立に至れたのは、単なる奇跡や偶然などでは決してなくて、自分なりにヨクヨク考えての行動のおかげだと思っているのです。なので、私のヨクヨクの考えを{ページあたりの文字数に限界があるので}次号に記述しますが、『パラダイム』の概論に終始していますので、『場面緘黙症』の改善に役立つのかどうかは保証しかねます。




No.23-『場面緘黙症』の治療と『科学革命』 (その1)


『場面緘黙症』は極度の緊張による【頭がスッキリしない】という違和感を発症している症状であり、【発声困難】は慢性的なノドの【麻痺(マヒ)反応】の状態に陥(オチイ)ってしまっている状況のコトであると、分けて考えてみるのも面白いかもしれないと{長年の放蕩(ホウトウ)の果(ハ)てに}思い当たったので。【発声困難】を慢性的なノドの【麻痺反応】の状態と仮定して、それを軽減させる事を主眼に置き直す治療の転換をダラダラと繰り返していた結果、「『特定の場面』で『特定の言葉』の【発声困難】が惹(ヒ)き起こされる状況を最大限スムーズに軽減させる為に≪選定して置いた『特定の言葉』に代(カ)わる『代替え言葉』を、『体を引っ張る』動作を幾(イク)つか盛り込みながら、キッチリと『アゴを上げて』発声する≫という〔第一のリハビリ〕に{特に『代替え言葉』の使用に}覚悟を決めて取り掛かれるかどうかで治せるか治せないかの道が分かれる」という{傍(ハタ)から見たら馬鹿馬鹿しいだけの}結果と、「一人の時にもカラオケやCDを聞きながらでいいので≪“ノドの緊張状態を維持(安定)”させたままで歌を歌う≫という〔第二の治療〕をして置くと【発声困難】が惹き起こされる状況を軽減させるのに掛かる期間を短縮出来る」という{単に自分が歌が好きなだけではないかと勘(カン)ぐられる}結果に至り。『場面緘黙症』を極度の緊張によって頭が酸欠となり苦しんでいる【シビレテいる脳】が発していた【頭がなんだかスッキリしない違和感】と仮定して、それを改善させる事を主眼に置き直す治療の転換をグズグズと繰り返していた結果、「【シビレテいる脳】へ酸素を何時でも速(スミ)やかに送れるようにする為に≪意識して静かに瞬間的に『過呼吸』に成れるように、普段から『過呼吸』を意識した呼吸動作を考えるようにする≫という〔第三の練習〕をして置けば、【発声困難】に陥る前からはもとろんのコト、【発声困難】に陥ってからでも速やかに脳に酸素を送って【頭の違和感】を改善させる事が出来る」という{誰も見向きもしない安直な}結果に至ったのです。
『場面緘黙症』とは、極度の緊張で脳が酸欠に陥った事による【脳のシビレ】が『頭の違和感』となり、さらには≪脳に酸欠の危機が迫っている事を知らせる“警告反応”として『ノドの麻痺』が発症していたモノ≫であり。【発声困難】とは、脳の酸欠を惹(ヒ)き起こす“緊張状態”を生命の危機と感じるほどに極度に嫌がった脳の過剰な“警告反応”が惹き起こした≪ノドを一時的に麻痺させて“緊張状態”を回避させる事を繰り返している内にノドが【麻痺動作】を反応として覚えてしまった慢性的なノドの【麻痺反応】と、ノドそのモノが“緊張状態”と【麻痺反応】の連続で発声機能自体を部分的に低下させてしまった状態≫であったのです。ただ、〔第一のリハビリ〕でも書いたように、原因や治療法が分かっても相応の{馬鹿になり切る}覚悟が無ければ、治せるモノも治せないのです。(『ジストニア』や『イップス』などの原因も“緊張状態”の脳が酸欠に陥ってしまった事による過剰な“警告反応”であり、その症状も慢性的な【麻痺反応】と機能の部分的な低下である可能性があります)
しかし、最初に記述した〔第一のリハビリ〕と〔第二の治療〕と〔第三の練習〕という順番は、その順番の通りにキッチリ取り掛かった方が治療の効果が得やすいという目安であり、必ずしも順番の通りにしなくては効果が無いと言うモノではありません。また、治療に取り掛かってからその効果が現れるのにどれ程の期間が掛かるのかは、個人差があるので一概には言えないのですが、考え過ぎた私が『場面緘黙症』を自覚してから『代替え言葉』の使用を決断するまでに28年間という馬鹿げた時間を費(ツイ)やし、さらに『代替え言葉』を使い始めてから{とても完全とは言えないまでも}そこそこ満足のいく【発声困難】の軽減が達成されたと思えるまでにまんと3年間も掛けてしまったのですが、それよりは期間が短くて済むのではないかと思います。

また、上記した『場面緘黙症』の原因究明と治療法の確立は、≪努力と工夫の繰り返しと試行錯誤の積み上げや、科学的手法と合理的認識の追究などによって合理的に構築して出来た≫というような立派なモノではなくて。≪努力の放棄とタブーの掘り起こしや、非科学的思考での探求と無駄に見えた事への非合理的なチャレンジなどの、およそ真っ当な人間なら決してやらないであろう【悪い冗談】みたいな事を、【道楽や余興】でもするかのようにダラダラと続けた馬鹿げた行為≫によって奇跡的に偶然が重なって出来たモノであります。そして、その意味する所は非情に大きくいのですが、ページあたりの文字数に限界もあるので、そのコトの説明は次号で詳しく書こうと思います。




No.22-『場面緘黙症』と『モラトリアム』と『民間科学』


特定の場面での特定の言葉の【発声困難】に陥(オチイ)ってしまっている『場面緘黙症』の人にとっては、『代替の言葉』を使用する事とは『場面緘黙症』の治療の放棄としか思えないのか、それが日常生活の回復のキーポイントだとは信じてもらえませんし。“アゴを引かず”に{お腹を引っ込め、背筋を伸ばし、足を広げる方向に踏ん張る}一連の『引っ張る動作』の修得も散々失敗してきたであろう発声の『回復動作』の一種としか感じられないのか、リハビリと同じで継続が大切だと言っても信用してくれる事はありません。
それは、報道機関や医療機関の話しを引用して周囲が無責任に発信する「『精神』が問題なのか、『自律神経』が問題なのか、それともそれらが複合して『場面緘黙症』を引き起こしているのか」という問いに『場面緘黙症』の当人たちが救いを求めて悩み続けてしまっていて、最後は「やるだけやった」と言って{現実逃避するように}満足してしまうのが『場面緘黙症』の実態となってしまっているからだと思うのです。
しかしここで注意して欲しいのは、『場面緘黙症』の当人の人格や周囲の無理解を問題視しているのではなくて、「科学的分析を訓練して来ている医者さえも、本当に『場面緘黙症』と【発声困難】は同一なモノなのか?という疑問を抱いていない」というコトなのです。
『場面緘黙症』とは、ジブリの『千と千尋の神隠し』に出てくる『カオナシ』のように≪か細い声を“絞り出し”ながら【ア~・ア~・ア~】と“繰り返し”て言ってしまう≫という特定の発声動作を“止められない”症状であり。当人が、この『場面緘黙症』と【発声困難】とを、イコールであると考えてしまうのはやむを得ないコトなのだが。客観的に観ている科学者である医者までもが、「特定の『発声動作』を“止められない”でやってしまうというのが『場面緘黙症』であるのだから、『代替の言葉』を“無理をしてでも”使いながら別の『発声動作』を“時間はかかっても”確実に修得すれば、2次的に【発声困難】は“解消される”ハズである」とまでは{定説や常識をリセットして一から再構築する手間を惜(オ)しんでしまうのか}考えようとはしてくていないのです。

近代科学では、先へ進む事で解決策が見つかると信じられ、みんなが先を争って競い合っていて、ボタンの掛け違いで生じた問題がどれほど多くても、その解決の為に振り出しに立ち戻って今までとは違う道を一から歩み始めてくれる人(馬鹿な事に真剣になってくれる科学者)がなかなか居なくて、何時までも解決が先送りされ困難に直面して苦しんでいる人たちが多いという事の一例が上記の『場面緘黙症』と【発声困難】の問題なのです。
そして、同じような科学者たちの怠慢(『論文偏重の成果主義』の中での競争による不本意な濡れ衣)によって、≪『自然の浄化サイクル』という【人工の物質の自然な安定化】や【人間時間を超越する自然機能】などを発揮する神秘的な『自然のバクテリア』が、雑菌と呼ばれて『消毒・殺菌』の対象にされているコトによる、殺人バクテリアなどが発生・蔓延する危機的状況の常態化≫や、≪『質量保存の法則』と『エネルギー保存の法則』の間の“日常絶え間ない変換”を計算式にした『E=mc²』が、核反応(核分裂や核融合)によって巨大エネルギーと一緒に放射能までも生み出してしまう【『質量保存の法則』と『エネルギー保存の法則』の間で互換性を持たせたい時の脱着アダプター】として封印されているコトによる、放射能発生装置で副産物のエネルギーを回収しているにすぎない今の原発システムの野放し状態とそれによる放射能汚染の危機≫が現実の事となってしまっているのです。

しかし、『論文偏重の成果主義』の競争の中で庶民の困難や危機に思いを馳せてくれるような奇特な科学者がそうそういるとは思えないので、今後は誰もが何時でも自由に振り出しに立ち戻れる『モラトリアムの場』を形成し、『モラトリアムな自由精神』で自然科学や社会科学を{随時}一から再構築する事を繰り返して、職業科学者が突き進む『正統科学』とは違う“自由な人たち”の手による『民間科学』というようなモノの立ち上げが必要になっているのだと思うのです。




No.21-『作陶展』を見て②


自由の概念についての話しなのですが、私こと『ちび猫』はつい最近まで、【自由は向上するモノ】としか考えていなくて、

≪人間は、色々な柵(シガラミ)や物事の枠組みに囚(トラ)われた範疇(ハンチュウ)に{秩序維持や安全確保の為の『パンドラの箱の封印』というあやふやな理由でありながら、リスク回避の為だという名目で人の自由が強力に制限されてしまった状態で}立たされて居る上に、一方向性志向な演繹法思考に基づく{確実な進歩を安定して引き出す}積み上げ努力を{自分や誰かの為ではなくて、天から神に見られているからと}正統に、効率よく、誠実に行っているモノだから、不自由に制限された範疇での《人の行いの歯がゆさ》と《矛盾が噴出する現実》との{穢(ケガ)れを恐れた理不尽な}スリ合わせを綱渡りで続けて来ている“不自然で危うい状況”になかなか気が付けないモノなのですが。
そのような中でも私が、人間の意識が{①“古いモノ”という負の縛(シバ)りの開放と、②唯一神教の原理主義に起因する“一方向性志向”や「演繹法思考の安定した進歩」を優先する縛りの開放と、③“リスク回避”や「人の集まる所ではルール優先」という言葉で隠されて行われてしまっている、『パンドラの箱の封印』の徹底の為に集団の中での人の自由が地位や能力や資産などの上下関係によって厳重に制限される縛りの開放とによって}自由解放される『議論の場』を科学に持ち込んだ『科学議論』の結果の一例として、「誰もが知っている『E=mc²』の{γ(ガンマ)係数の呪縛を断ち切っての}物理計算式としての開放や、有用性の高い『自然の浄化サイクル』の{『EM菌』製作の技術とは違う}科学的学問分野としての開放」を粘り強く提唱(テイショウ)し続けていれば。
誰もが、既存の物理学や生物学に於(オ)ける革新的科学進歩の可能性に大きな余地がまだ有るコトに気が付くように為り、それを引き金に現代社会に於ける自由の制限にも疑問を抱くように為って、ついには『自由の履き違え』と言われる事で摘まれて来ていた自由の芽が大きく成長するように至って、科学に止まらず色々な分野で革新的進歩が沸き起こるように為って来る≫

という“一連の考え方”を前提とした【自由の向上】パターンに執着しすぎていて、『E=mc²』と『自然の浄化サイクル』をブログに連呼して書き込んで来ただけに止まらず、自分の周囲に於いて誰彼かまわずに吹聴していて、揚句(アゲク)のはてには絵を描いてくれた人や、詩を詠んでくれた人や、小学生にまで罵詈雑言(バリゾウゴン)の悪態をついて理解を強要していたのです。

しかし【No.20】にも書いたように、平成25年1月7日を境にして数年前から知っていた『市民陶芸活動』の展示会である『庭師の雨ふり作陶展』の自由な展示形態についてようやく真剣に考えられるように為り、1月10日ごろに『自由に上下の区別は無い』とか、『他人たちを平等に見ている人だけが自分も平等であると自覚出来る』という考え方をついに始めて、1月12日に為ってやっと【自由とは広がるモノ】という自由の概念にたどり着いたのです。
今後は『Gooのブログ』の方が、去年からの【自由は向上するモノ】という自由の概念を基に制作されたまま、ずいぶんとホッタラカシにしてあったので、『庭師の雨ふり作陶展』の『プロ級レベルの大作』と【少し歪んだ口の茶碗】や【どこか素人くさいがメイッパイ背伸びして作陶した陶器】や【作る事を楽しんで作られている子供の作品】などが平等に並べられた空間を見本にして、【自由とは広がるモノ】という自由の概念を基本にした{“他者たち”の色々な『自由取り組み』と“自分”の『自由な考え』とが“平等”に並んで広がって行く}ブログに作り変えるのに少し時間を割(サ)く事に為りそうです。



No.20-『作陶展』を見て①


『科学議論』という多方向性な進歩の概念に基(モトヅ)く『議論の場』という帰納法思考そのモノである科学の観念の成立の為には、精神的な≪『自由に上下の区別は無い』や『他人たちを平等に見ている人だけが自分も平等であると自覚出来る』という人間性の基本的自覚≫こそが第一で、実践的な≪『古いモノの掘り起こしの達成』や『多方向に広がる帰納法思考での追求』などによる見た目の『成果』や『向上』の有無(ウム)≫などは二番目であり、『市民陶芸活動』は現実的にも『科学議論』に基く『議論の場』の成立条件を十分に満たすモノであったのですが。そんな大切なコトに考えが至れない{未熟な}私が、「実際には《裕福な参加者が集まる、人生の余興(ヨキョウ)のような道楽》に成ってしまっていて、本当の意味での『議論の場』とは成っていない」などと【No.18】で書いてしまって、実在する『市民陶芸活動』を批判するような誤りを犯してしまいましたので。今回はその経緯の説明と、今後の留意(リュウイ)すべき点を書き記(シル)したいと思います。

私こと『ちび猫』には『S氏』という親友がいるのですが、その『S氏』が『市民陶芸活動』というモノに興味を持っていて、数年から「千葉県君津市の『長石工房』さんが『庭師の雨ふり作陶展』を開催しているから見に行こう」と誘われるように為り、私も誘われるがまま何度か木更津のジャスコで開催された『庭師の雨ふり作陶展』に行った事があるのです。
その『作陶展』では、セミプロ級の市民陶芸家の{最近では、どことなく素人くさいが意気込みを感じるように見えてきた}作品から、親に連れられて『長石工房』さんに遊びにやって来たと思われる子供の{最近では、ガラクタのように見えても楽しさが伝わってくると感じられてきた}作品までが、陶器ではない{最近では、上品で情緒的だと感心するようになったセンスの良い}小道具をふんだんに用いて演出された【一つにまとめられた空間】として{最近では、手作りであるコトにより『自由』に表現された作品に“上下の区別”が付けられないように工夫され、熟練度の違う作家たちが平等な立場にあると誰もが感じるように上手く配置されていると感銘した展示形態で}展示されていて。博物館や品評会などで、昔の逸品や現代の名工が手掛けた傑作などを{一品ずつが個別にディスプレイされている展示形態で}時々見たコトのあった{今より未熟でアホだった}私には、『S氏』や『長石工房』さんには申し訳ないが、当初は{多くの茶碗の口が少し楕円形になっていたり、デザインがモノマネにしか見えなかったりして}ガッカリした事を覚えています。

そして、昨年12月にも『S氏』より『庭師の雨ふり作陶展(その14)』を見に行こうと誘われて、時間つぶし程度の気持ちで木更津のジャスコへ行き、その時もやっぱりつまらなくて{狭い二階グリーンホールで“同じ作品を何度も見ながら” 一生懸命な『S氏』に付き合って}1時間近くうろうろしていたのです。
しかしその後しばらくして年末ぐらいから、『科学議論』という科学進歩の一方向性から多方向性への変更や、『議論の場』という科学思考の演繹法思考から帰納法思考への変更に取り組んでいる時に、『S氏』と行った『庭師の雨ふり作陶展』の様子が思い出されてきて、こういった『市民陶芸活動』こそが『科学議論』に基く『議論の場』の成立条件に合致(ガッチ)したモノではないかと徐々に気が付き始めるようになれたのです。
さらに年が明けて1週間ほど経過した数日前から、『庭師の雨ふり作陶展』での様子をもっと真剣に思い出していて、昨日になってようやく『自由に上下の区別は無い』と『他人たちを平等に見ている人だけが自分も平等であると自覚出来る』という考え方に至れたのです。

しかしまだまだ未熟な私は、「自分の自由が他者の自由より正統なモノで優秀なのだ、このままでは足を引っ張られるだけだ」と言っては他人をすぐに差別してしまうし、さらには≪積み上げレースでの積み上げレベルで他人たちをランク分けする事を{自分が便利だからといって}一律(イチリツ)に行っていると、他者の頑張っている取り組みを見た時に、それとは違う自分らしい取り組みの開発に目を向ければ良いだけであっても、同じ取り組みで負けてしまっては自己優位性が保てなくなると危機感を抱いてしまうモノだから、これによって一方的に敵対攻撃をされたのだとしか感じられなくなってしまって、他者の些細(ササイ)な頑張りやちょっとした取り組みも自分への悪意にしか感じられなくなる≫という非平等世界観にすぐに陥(オチイ)って被害妄想を抱いてしまうので、自己注意したい。



No.19-『神』が残した足跡 ⑥ (その2)


『演繹法思考』や【一方向性な積み上げの進歩観】は{神様の恩恵を独占出来る方法であり}優位なモノだという『刷り込み』を{躾(シツケ)や学習の中で}幼いうちからされて来て、《結果の出ている考えを掘り起こしてきて考え直しをする努力の自由》や《みんなの話や考えを意図的に為らずに耳を傾け偏見なく思考する謙虚な公平性》や《重層的な視野拡大を繰り返しながら随時新しい試みにチャレンジし続ける繊細な勇気》による『科学議論』的な思量の深まりを見せられるコトを{見せ掛けだけ、口先だけで、ハタ迷惑な穢(ケガ)れであると}見下し嫌悪して、闘鶏(トウケイ)の『軍鶏(シャモ)』みたいに血走っている現代日本人が年々増え続けて溢(アフ)れ出している【奇異な日本】では。
『日米安保』だけでなく、多くの{日本以外の}アジア緒国間の【不断】の{個別の}平和協力によって{日本周辺が大きな戦火に長年さらされずにいたおかげで}日本の繁栄が成り立っているという事や、身近に居る人たちの【多岐】にわたる{真面目に働き、進歩に目ざとく消費をしてくれるなどの}社会協力によって{自分の所属する組織が守られ、潤い}自分の立場が維持されているという事に考えが至らないで、《祖国防衛》や《職場や社会での粛清(シュクセイ)》を公然と唱(トナ)えて英雄気取りで居るだけの{国益優先志向の}政治家や{組織優先志向の}エリートたちが巷(チマタ)に溢れ、{外交が単調となり反日暴動が頻発(ヒンパツ)し、自殺者が年間3万人も出ているというのに、マスコミも誰も非難せずにいて}悠然(ユウゼン)として居られる不思議は既に当たり前となってしまっているようなのです。
しかし、喩(タト)えそうであったとしても私にはどうしても理不尽に思えてならない事が幾(イク)つかあって、その一つ目が『自然の浄化サイクル』に拒絶反応する常識というモノであります。
間違いなく有用な考え方であるハズの≪『消毒・殺菌』の済んだ人体の内部に於(オ)いて、ありふれた存在でありながら“単独種”の状態で取り残されてしまった時の【ブドウ球菌】や【連鎖球菌】が、物質の一次分解に専念して毒素の大量排出をする事態と為(ナ)り、人間を一日で殺してしまう【殺人バクテリア】と成ってしまうという考え方≫や、≪目的別で多様性に欠けた【単純な構成のバクテリア群】で人工的に構築された【EM菌】などに、【新たな耐抗性の構築】や【自然のような放射線の浄化】といった“多機能性”を期待しても無理であるという考え方≫や、≪人の手ではマネの難しい『自然の浄化サイクル』がどれ程に“多機能性”であろうとも、それだからこそ【人間の都合とは無関係】なモノであり、【雑菌の繁殖を抑制する】というような直接的な『消毒・殺菌』の効果が無くて当然であるという考え方≫や、≪『自然の浄化サイクル』と、『耐抗性環境』の構築の、その不思議な“多機能性”の原動力である{人間が時間の基準としている【放射性物質の半減期:『減少質量』の自然進行:自然な(F)線の放射】を、時間を無視してコントロールしてしまうような}人知を超えた『時間の制御機能』を発揮する【バクテリア】の可能性に至る考え方≫を、どうしても危険に思えてならないと恐れ、病原菌の蔓延の原因だと騒ぎ立てる有識者が少なくないのです。
そして、二つ目が『E=mc²』を黙殺する忠義というモノであります。
有効であれば世界を変えてしまうような考え方であるハズの≪『E=mc²』から【衝突時に発生する(エネルギー発生量)=(全消失重量)X(光速)²=(総重量)X(速度)²】を導き出し、そして【空間へ放射される〔(F)線の放射(エネルギー量)〕=(1/2)X〔総減少質量〕X(速度)²=(1/2)X〔重量X(速度)²/(光速)²〕X(速度)²=(1/2)X〔重量X(速度)²〕X〔(速度)²/(光速)²〕=(1/2)X〔重量X『速度の4乗』/(光速)²〕】が導き出され、されには【『総減少質量』の質量が重い場合は『(F)線の放射』を起こす粒子の数も少ないので周波数が低く波長が長くてエネルギーの大きい放射が少数発散され、『総減少質量』の質量が軽い場合は『(F)線の放射』を起こす粒子の数も多いので周波数が高く波長が短くてエネルギーの小さい放射が多数発散される】という考え方≫を、繁栄を支える科学技術を否定する愚行と恐れ、世界の進歩を停滞させる原因に為ると警鐘(ケイショウ)を鳴らす忠義者が少なくないのです。



No.18-『神』が残した足跡 ⑥ (その1)


『市民陶芸活動』のような≪①、参加者が{歴史的体系や科学的枠組(ワクグ)みを世界共通で一様に積み上げていくという【今の時代で有用とされている価値観】に縛(シバ)られずに}“古い陶器”と偏見の無い自由な心で触れ合い親しみながら“古い技法や昔の人たちの精神”を大事に学習し。②、“思い思い”に{演繹法思考による一方向な積み上げを進歩と感じる事で心に刻(キザ)まれて来た【物事を上下に分けて見る序列(ジョレツ)の観念】に囚(トラ)われずに}帰納法思考を駆使して想像や感性を多方向に膨らませて“自分らしい造形”を果敢(カカン)に創作し。③、品評会ではない“展示会”を催して{権力体制側の権威の裏付けと為る【安定した秩序の手本と為るような物事の序列を明瞭に具体化させた価値の体系】を制作する代償として認知を得て生計(セイケイ)を立てている工房や職人などから「一連(イチレン)の進歩を妨害するモノだ(!)」とどれほど煙たがられようとも、【個人個人の主張や試(ココロ)みや感性の平等な違い】を際立(キワダ)たせて}自分たちの自由を“多くの人たち”に鑑賞してもらう≫というモノが、『科学議論』の主要な活動である『議論の場』でありますが。しかしそうは言っても、こういった『科学議論』や『議論の場』をいくら大切なモノだと言ったところで、既得権益の恩恵が受けられる“正統“な範疇(ハンチュウ)には決して入れてもらえないですし、少しでも広まろうモノなら「見せかけだけ、口先だけの賎(イヤ)しいモノで、悪質な『進歩違反』である(!)」という{秩序の安定を“演繹法思考による一方向な積み上げ”による序列化で目論(モクロ)む権力体制側や、それに媚(コビ)を売って生業(ナリワイ)としていて“誠実”だと評(ヒョウ)される人たちによる}敵意に満ちたレッテルが一方的に貼られてしまうだけなので。例に上げた『市民陶芸活動』も実際には、《裕福な参加者が集まる、人生の余興のような道楽》として行われているだけで、本当の意味での『議論の場』には成っていなのです。
そして、『携帯電話の機種変更』のような≪各メーカー側から足並みを揃(ソロ)えて一律(イチリツ)に付加される{科学技術力の“演繹法思考による一方向な積み上げ”による進歩であり、架空の便利さの度合いによって物事を合理的に“上下の序列”で切り分けている、タブレット端末機能などの}諸機能が“一律な序列の刻み付け”として、時間的にも段階を踏みながら付加されて来ているモノだから。大多数の利用者が{暗示を掛けられ「自分も進化しなくてはならない」と思い込まされて}使いこなせそうもない高価な機種への変更を自分の“ランクアップ”と認識し、さらには{権力体制側が思い描き、それにメーカーが媚(コ)びる様に協力して仕組まれている『合理的な上下の序列に人間を一律にはめ込もうとする、巧みな秩序の安定化策』にまんまと駆(カ)り出され、耐え難い忙しさの中で憂鬱(ユウウツ)な精神状態に陥(オチイ)りながらも、「これが進歩であり、便利さなのだ」と割り切り}新機種が発売されるのを{目を血走らせて}待ちわびて、みんなして足並みを揃えて{巧みな秩序の安定化策に}追従(ツイジュウ)してしまう≫という【権力体制側の一方的な思惑】が、日本中の物事で進行してしまっているのです。
しかしそれでもそれらは、日本の権力体制側の本音が≪小人(ショウニン)的な{大儀や誠実さに拘(コダワ)ってしまう}多くの日本人が、その狭量(キョウリョウ)な【道理的観念】によってどうしても抱いてしまう、限られていて大切なハズの『パートナー』である『中国』や『韓国』や『北朝鮮』などのアジア諸国や同じ日本人の身近な『同僚』たちへの、思慮(シリョ)に欠けた【偏見や差別】による“攻撃意識”の『ガス抜き』や『隠れ蓑(ミノ)』などとして、『民主主義』と『自由市場経済主義』を{人の悪意や敵意を増大させてしまう危険性を隠し、最大の“秩序の安定化策”と誇張(コチョウ)し、【世界基準の道理】と銘打(メイウ)って}最優先で導入し続けていたい≫という身勝手なモノであり、そして≪日本国が『民主主義』や『自由市場経済主義』という優位性を長年努力して確立して来た事によって日本が繁栄しているのだと{ウソでも何でも}言いたい≫という無茶なモノであって、さらには≪日本の経済発展や科学技術の進歩が、アジア諸国が多様であるにも拘(カカ)わらず“それぞれに”行ってくれる【不断】の平和協力と、多くの日本国民による経済や進歩への“身近な所”での【多岐】にわたる協力によって、奇跡的に達成されたモノだというコトを、蛮勇な【向上精神】で忘れてしまた≫が為(タメ)に、日本で起こっている【奇異な事態】のほんの一面を言い表しているモノでしかないのです。



No.17-『神』が残した足跡 ⑤ (その2)


『ジプシー』的な進歩観と言うのは、「演繹法で積み上げをしながら“進歩を待つ”事とか、周囲について行って“進歩に遅れない”事とかの“一律(イチリツ)な受動性”」とは違って、「進歩とは、物事の多様な分化の一翼を自分が担っている事を自覚する“多様な能動性”」と言えるモノであり。その違いは一目瞭然ではあるのですが、不思議なコトに誰もそれを具体的に考えようとはしていません。
「携帯電話の機能向上が年々加速していて、ちょっと待てばすぐに進歩した新機種が発売されるが。最近ではタブレット端末としての機能が付加された『iPhone』や『スマートホン』が主流となって来ていて、無理をしてでも新機種を使っていないと時代の進歩に乗り遅れてしまう」とよく聞く話しなのですが、この話しの中で使われる進歩は自分の進歩ではない上に、みんなが一律に同じ方向に向かっている状況を指している事にお気付きでしょうか。すなわち、進歩とは【誰かが先導してくれていて、それをみんなで追従(ツイジュウ)するモノ】だと刷(ス)り込まれているからなのです。
なので≪自分が一人でみんなとは違うコトを始めて、新しい事を一人で始めるコトをみんなに勧(スス)めて≫も、追従の篩(フルイ)に掛けられてしまうと、誰かの追従だと言われるか、誰かの追従を招いてしまうだけの事になってしまうのです。
これでは、みんなで固有の持論を持ち寄って、沢山の人の考え方を差別なく集めて、古い時代の考え方を偏見なく掘り起こして来て話し合う『議論の場』が作れず。誰かが先導する科学を一律にみんなで追従し享受(キョウジュ)するという“進歩の枠組み”が壊せなくて。『科学革命』による“科学のネットワーク化”の基点となる多方向な科学への{個別に分化された}道が出合う『科学議論』が始まるのは、まだまだ当分後に為りそうです。

ただし、すでに『議論の場』が構築されて機能していて、{個別に分化された}固有な進歩が実践されている分野も限定的ではあるがありまして。その良い例が、芸術的工芸品と言われる陶器でありながら市民芸術として広まっている【陶器の制作】であり。古今東西の技法や古い陶器が研究・再評価されていて、展示会などで実際に色々な陶器を見る機会に恵まれていて、自分だけのオリジナルな陶器を制作しては展示会へ出品してみんなの陶器と一緒に大勢の人に見てもらう事が出来るというのは、まさに『議論の場』と言えるモノでしょう。
しかし、現実の社会生活に於(オ)いてはこういったゆとりの有る状況はとても稀(マレ)な偶然の産物(サンブツ)であり、いくら“一律な追従や享受”を必要としない個人の固有な進歩を重んじる多様な環境を構築し広めようと呼び掛けても、市民生活は何時も何かに追われていて忙しくて、市民生活者に『議論の場』の意味を理解してもらう事はなかなか容易ではありません。
私自身も、少しひまな新しい職場と、メモを取る変な習慣と、昔から集めていた膨大な古本と、徐々に始めたインターネットの『検索機能』と、思い切って始めたブログという『発表の場』が偶然に重なったからこそ、『自然の浄化サイクル』や『E=mc²』の事で独自な論理を書き込んでこれた訳ですし、『唯一神教』や『ジプシー』や『パラダイム』についての勉強もはかどったのです。
数年前までの肉体的にも精神的にもハードな仕事を我慢して続けていて、インターネットの利用に慎重であった頃のままの私であったなら、到底このブログの制作は有り得ませんでした。



No.16-『神』が残した足跡 ⑤ (その1)


日本に限らず世界中の科学界・宗教界に於(オ)いて、昨今の人類の主要な思想は一方向性志向が強い演繹法主義に基(モトヅ)く“一律(イチリツ)な受動性”で統一されていて。
進歩に関しても、「自分に失敗や未熟さが有っても、『教訓』や『経験則』の積み上がる『時間』が来るまで{変節せずに誠実に、我慢するように}妥協しないコトが“進歩を待つ”事」であり、「一方向な演繹法による{追加機能などが積み上げられていくような}付加価値を、先を争って受け入れるコトが“進歩に遅れない”事」であると特に意識化していて、それを人間としての{一般的な}標準としてしまったモノだから。
人間であれば「自分の“進歩を待つ”事」や「周囲の“進歩に遅れない”事」が当然の勤(ツト)めであるという“刷り込み”が子供の頃から行われていて、「自分の進歩が積み上がるまで妥協せずに我慢をしたり、周囲の進歩に頑張ってついて行けば、必ず“進歩が手に入れられる”ハズだ」という観念を世界の道理だと何の疑いも無く信じてしまい、一律な文化的定住生活や科学文明の享受(キョウジュ)を人間社会に於(オ)ける“人類共通の常識”と位置づけてしまって。
ついには「人間であれば、それら“人類共通の常識”を自分や自分たちが遂行するのに邪魔になる勢力があれば、それを実力で排除するのは“進歩を守る当然の義務”である」と論理立てて、「敵対勢力を攻撃して根絶(ネダ)やしにするのも“進歩の為(タメ)のやむを得ない事”である」という考え方に{利巧(リコウ)な人ほど、どうしても}行き着いてしまうのです。

日本の原発促進派(ソクシンハ)の≪『教訓』や『経験則』の積み上げが途上にあり、国際協調の一環を担う『核エネルギーの開発』や『原発の建設』をオトリにして、国益に献身的でない{利巧に立ち回れないだけの哀れな}反対派を焙(アブ)り出し、その根絶(ネダ)やしに躍起(ヤッキ)になっている≫浅ましい強硬姿勢は、身近で見ていて嫌気(イヤケ)がさしますし。
欧米では≪【民主主義】や【市場経済】の“見た目の正義”ばかりが前面に掲(カカ)げられ、【キリスト教的思想】の踏み絵に利用されて、【イスラーム思想】などの【固有な文化】を根絶やしにしようとする目論(モクロ)みが公然と罷(マカ)り通っていて≫欧米発信の偽善的なニュースを見聞きする度(タビ)に、嫌悪感でイッパイに為りますし。
『イスラーム世界』でも≪『キリスト教勢力』への対抗を大義名分に主流派に躍(オド)り出て来た排他的な【イスラーム復興主義】の勢力が、世界中で土着の多神教を吸収して多様化していった【理性主義の古いイスラーム思想】を{積年の恨みから}根絶やしにしようと暴走する『イスラム原理主義』を台頭させて{旧勢力や対抗勢力の排除に}利用している為に≫蛮行が横行していて、本当にガッカリさせられます。

それに比べて『ジプシー』の文化からは、「いくら『教訓』や『経験則』の積み上げをしようと、進歩の方から人間の為にやって来るコトはない」し、「誰かの手によって進歩が先行してしまったからと言って、自分が進歩を見失ったり、自分の進歩を奪われたりするコトはない」と言ったような“多様な能動性”の進歩観が作られていて。
『ジプシー』たちは、一律な文化的定住生活よりも“見聞の広がる能動的な移動生活”を選び、周囲の進歩に歩調を合わせる度合い少ない職人的な技能を持って生業(ナリワイ)としていて、誇り高く生きて来たのですが。
『ジプシー』の活動を支援して来た【理性主義の古いイスラーム思想】の勢力が衰え、『キリスト教勢力』が産業革命とともに台頭してきて、それに対抗する【イスラーム復興主義】の勢力がイスラーム世界で主流となり、『ジプシー』は世界中で根絶やしの対象に置かれてしまっているのです。

『キリスト教勢力』の拡大に奔走(ホンソウ)して来た欧米人は、『ジプシー』が考える“多様な能動性”の進歩観がまったく理解出来ずに600年が経過しているのですが、未(イマ)だに理解出来そうな兆候(チョウコウ)は見られません。



No.15-『神』が残した足跡④ (その10)


No.11:『(F)線の放射』の詳細

『No.8』~『No.10』の「同じ重量の物体が衝突した時に、相手を突き飛ばす『エネルギー消費(E/2)』と自分が停止する『エネルギー消費(E/2)』の合計の『エネルギー消費(E)』に相当する『エネルギー(E)が発生』する」という設定と、【質量(Aa)で重量(Aaa)の物体(A)が速度(Ab)で重量(Aaa)の物体(B)に衝突した時の〔発生エネルギー(E)〕=重量(Aaa)X速度(Ab)²=総減少質量(Aaaa)X光速(C)²】というエネルギー計算と、【発生エネルギー(E)に変換される全重量である〔総減少質量(Aaaa)〕=重量(Aaa)X速度(Ab)²/光速(C)²】である為に、「発生エネルギー(E)の発生量は総重量(Aa)に比例し、さらには速度(Ab)の二乗にも比例して増減する」という考え方を引き継いで考えて行きますと。
『No.8』でも少し書いたように、「総減少質量(Aaaa)は、重量(Aaa)が速度(Ab)で移動している物体(A)を停止させる為に、重量(Aaa)の内から消失してしまうのですが、そうすると物体(A)を停止させようとして消費される【エネルギー消費(E/2)=(1/2)X重量(Aaa)X速度(Ab)²】の内の一部分である【〔(F)線の放射(エネルギー量)〕=(1/2)X〔総減少質量(Aaaa)〕X速度(Ab)²=(1/2)X〔重量(Aaa)X速度(Ab)²/光速(C)²〕X速度(Ab)²=(1/2)X〔重量(Aaa)X速度(Ab)²〕X〔速度(Ab)²/光速(C)²〕=(1/2)X〔重量(Aaa)X『速度(Ab)の4乗』/光速(C)²〕】が標的を失って物体(A)から発散する」ので、新たに「エネルギー消費(E/2)の内の〔速度(Ab)²/光速(C)²〕の割合のエネルギーが『(F)線の放射』として発散されるが、その増減は速度(Ab)の四乗に比例する」と想定されるのです。
そしてさらには「物体(A)の質量(Aa)から総減少質量(Aaaa)が起こって(F)線が放射されるのですから、質量(Aa)が重い場合は粒子の数も少ないので周波数が低く波長が長くてエネルギーが比較的大きい放射が少し発散され、質量(Aa)が軽い場合は粒子の数が多いので周波数が高く周波数が短くてエネルギーが比較的小さい放射が多く発散される」とも考えられるですが。以上までの事から電気の発光や放射性物質の放射線の仕組みの事を考えて行くと、『オームの法則』や『原発の放射線管理』の不思議さが実感出来ます。
さらには『質量の減少』を『時間』だと想定すると、【植物】の『光合成』や【バクテリア】の『物質分解による浄化作用』は物質の『質量』に働きかけていて、「生物は時間を制御している」と言えるのですが。その『質量』への働きかけの仕組みが人間に利用する事が出来れば、原発の『放射性廃棄物』の半減期が何万年もあると言って大騒ぎしているが、その解決策の足がかりに為るかもしれないのです。「何かを始めないと、何も始まらない」と言いますから、『演繹法主義』で『教訓』や『経験則』が積み上がる『時間』を待つのではなくて、本当の『時間』に働きかけをする科学に近づく第一歩として、『E=mc²』の復権を考えてみて下さい。



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