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医療の犯罪 1000人の医師の証言 - 序章 21P

2014-10-08 19:06:02 | 読むとためになるもの
医療の犯罪 1000人の医師の証言 - 序章 21P


誤りをいつまでも正そうとしない科学者の強迫観念について

過去一世紀半もの間、著名な科学者、医師、生理学者および医療研究者はもちろん、多くの尊敬すべき市民たちが、医学知識を得る手段としての動物実験が、いかに無益であり、また、その動物実験によって得られた誤った考え方が、いかに人間の健康に悪影響を及ぼすかを、繰り返し訴えてきた。
にもかかわらず、政治、公衆衛生、教育、メディアそして動物愛護の各分野で「重きをなす人々」、それから当然のように、これらの人々に影響されている一般の人々は、動物実験を断念することは不可能である、と思い続けてきた。

これはいったいどう説明したらよいのだろうか。
この現象には多くの理由がある。
以下、それを様々な角度から検討してみよう。



歴史的側面から

真正の、もしくは正規の科学もっともらしいエセ科学との間には大きな違いがある。
前者は系統的な知識、論理的に相互関連のある事実、立証できる一般的法則の確立をめざし、後者はたんに教会やその時代の科学者を含む当代の権力者たちのお墨付きがあるという理由で正しいと信じられているもので、いわば“公認の”科学と定義できよう。
公認の科学は通常、そして時には数世紀も、正規の科学に先立っている。
例えば。

AD二世紀、ギリシャ系エジプト人で、天文学者、地理学者そして数学者であったクローディウス・プトレマイオスは、彼の生きていた時代の知識としては見事な、反論不可能の宇宙理論を打ち立てた。
それは誤ってはいたが、中世にいたるまで、全人類のものの考え方を条件づけたのであった。
なぜそれは誤っていたのか。
アリストテレスの、地球は不動であり、宇宙の中心である、という間違った考えに基づいていたからである。
この間違った前提から出発したにもかかわらず、彼は天空の星の運動について輝かしい説明を提供し、それは船乗りたちの安全な航海を可能にすることができたのである。

彼の理論は教会の祝福を得た。
なぜなら、この理論のおかげで、教会は地球のように極小な宇宙の一部ではなく、この宇宙の精神的指導者であり、信仰のセンターとして自らを誇示できたからである。
そこで十六世紀になって、天文学者、物理学者のガリレオ・ガリレイがそれまで容認されてきた理論を覆そうとしたとき、真正の科学は公認の科学と真正面から衝突し、最初、彼は敗北するより仕方がなかった。
彼は逮捕され、生命を脅かされ、拷問さえ受けたと言われる。
とどのつまり、彼は自説を引っ込めざるを得なかった。

今日、そんなことはただ全体主義国家でのみ起こりうると信じている人々がいるとしたら、それは、たいへんな誤解である。
この種のことは、我々のいわゆる自由民主諸国のさまざまな分野でいつでも起こっていることなのである。
ただ違いがあるとすれば、異議申し立て者に対する刑罰が死刑でないだけであり、経済的あるいはその他の制裁によって、同じように彼らの生存が脅かされていることには変わりない。

ガリレイの理論は教会の反対にあったばかりではない。
当時、「自然哲学者」と呼ばれた、同僚の科学者たちによっても非難されたのである。
多くの人々に半ば“半神”のように崇められ、賞賛されている今日の多くの科学者たちと同様に、彼らは自らが間違っていたと認めるぐらいならむしろ死を選ぶか、その誤りをさらに押し広めるかのどちらかを選んだであろう。

正確にこれと同じようなことが、今日、動物実験の領域にたずさわる多くの者の間に起きている。
人間の本性は変わらないものだ。
だからこそ新しい考え方が受け入れられるまでには、通常、すべての師のみならず、その弟子たちの死をも待たねばならないほどの長い時間うぃ要してしまうのだ。

もう一つの事例をあげよう。

イタリアのパデュアで解剖学を教えていたベルギー人、アンドレアス・ヴェサリウスのケースである。
ガリレイとほぼ同じ頃、ヴェサリウスは絞首刑に処された者の死体解剖を行って(古代以来、それまで死体解剖は厳しく禁じられていた)、ガレノスの人体解剖図の多くは動物解剖を基にしているため間違っている、ことを明らかにした。
再び、ヴェサリウスが真実を明らかにしたため、科学は公認の科学と衝突したのである。
彼は「異論者で愚か者である」とされ、あげく、命からがら逃亡しなければならなかった。

人間の腰骨は雄牛のそれのようにフレアー状(裾広がり)であるとするガレノスの説をヴェサリウスが訂正すると、彼の同僚の大学教師達は、自分たちが一千年もの間、間違いを永続させてきたことを認めたがらず、ガレノスの時代以降、人間の腰骨は、トガ(ゆるやかな上衣)の代わりにズボンをはくようになったため、その形を変えたのに違いない、と説明した。
真実は誰の目にも明白であったにもかかわらず、ガレノス式の誤りはその後二百年も学問の符に生き延び、またもや、学者の無知ほど頑固なものはない、ことを証明してみせたのである。
これがまさに、教育や健康管理に携わる人々を、人間の生物学について何かを学ぶ要因として動物を使用することは、公認科学の誤りのさらなるものだ、ということを認めさせるのが困難な理由の一つである。

(この点で、最も興味深いのは、生命と宇宙の起源に関する知識をめぐる思い違いである。
人々はこれら二つのどちらかの誤りに支配されている。この誤りに比べれば、過去のプトレマイオスの誤りなどその大きさと本質において、些細なものに思えるほどである。

誤まてる両派は、はっきり言えば虚構〔フィクション〕の上に足場を置いているが、それぞれの信仰の支持者たちは、あたかもそれが福音の真理もしくは“純金”であるかのように、揺るがぬ信仰をもって、そのいずれか一つにしがみついてくる。

一つは、進化論から当然のように導き出される、我々の惑星地球に関する「ビッグ・バン」説である。
これは一種の科学者気質から生まれたもので、彼らは、無知で近視眼的なため、この世界には人間の知能でははかりしることのできない領域がいくらでもあるということを認めたがらないのである。
尊大な彼らは、彼ら自身の基準をもってさえ反証があげられるのに、突飛な理論をひねり出してそれを反芻不可能な事実であると提示する。

我々の存在に対するもう一つの説明は、もちろん、宗教的なもの、すなわち神の創造によるというものである。
それは新しい装いこらした科学者たちの理論と同じくフィクションではあるが、おそらく真実により近く、詩人たちは、美の探究において、科学者たちが知識の探求において見出す以上の真実を発見した、と言ったジュベールの言葉を思い起こさせてくれる。
創造の理論はフィクションである。
しかし、それは、科学者たちの理論には全面的に欠けている人間的、道徳的価値に満ちたじつに見事なフィクションであり、その誤りが科学的に証明されたことがないという点で、科学者たちの理論より優位を保っている、といえるかもしれない)



医療の犯罪―1000人の医師の証言



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