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水分道(坂と山の名称) 2006/02/05初稿
・執筆者によって甲取坂、鞍取坂、屏風坂の位置がコロコロと変わっており
登山者の山行記録を見ても混乱することがあります。
市販地図と本を基に記載事実だけを整理します。
・赤坂山についての名称もわかる範囲で記述します。
1.坂の名前
・水分道の尾根筋には特定の名前は無いらしく、地元の人は単に「背」と
呼んでいると、地元に親戚を持つ水分道常連様より教えていただきました。
やはり、市販地図の水分道上にある甲取坂、鞍取坂、屏風坂も根拠が無
いようです。
この三つの坂の位置について執筆者ごとに調べてみました。
(出版された地図映像の掲載が一目瞭然ですが、出版社の許可がないと
問題なので坂の名称が振られている位置をカシミール3D地図上にライン
を引き併せて文章表現します。わかりにくさはご容赦を)
・甲取坂(かぶとりざか)
(日地出版昭和57年版金剛山と昭文社昭和62年 仲西政一朗版葛城高
原・二上山)では、二河原邊からアシ谷分岐に至るまでを甲取坂と記して
います。
(昭文社昭和62年 仲西政一朗版金剛山・岩湧山)は廃屋を越えた辺りに
甲取坂と記しています。
(昭文社2002年までの根来版)では後述する正しい位置に記しています。
(昭文社2003年以降版)では2本目と3本目の高圧線路に挟まれる部分に
甲取坂と記しています。
(甲取坂、本当の場所)
出発点森屋には千早赤楠公史跡保存会が掲示した甲取坂の説明が有り
ます。本当の場所が確認頂けるよう写真を紹介します。
見取り図
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/c0/1e33a2760e4346f809224afd8e0dda8c.jpg)
森屋から南にのびる旧千早街道と重なることが見て取れます。
説明文
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/6a/f02d603648ce6b0f542ff22d1e5a85f4.jpg)
ほかに千早赤阪村のホームページからも甲取坂が下赤坂城付近に
あったことが読み取れます。
甲取坂(執筆者毎の違いが極端に大きい)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/f7/70a28c3e98980bc957338c96af991167.png)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第9号)」
・鞍取坂
(日地出版)水分道が青崩道へ合流した地点から少し南に、鞍取坂と記し
ています。
(仲西氏版)後に出来る3本目の御坊幹線がはしる急坂にその名を記して
います。
(根来氏版)仲西氏とほぼ同じ位置に記しています(理由後述)。
(2003年以降版)御坊幹線から泣石谷分岐に至る辺りに記しています。
鞍取坂は昔に1回だけ引っ越し。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/62/4f4822e70f1c486aad48f9e027391e54.png)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第9号)」
屏風坂は執筆者ごとに引っ越しか削除、また同じ執筆者でもなぜか
引っ越ししていることすらある。
・屏風坂
(日地出版)セトから国見城跡に上っていく尾根にその名を記しています。
(仲西氏版)無線中継所のすぐ北の樹林の坂(青崩道上)に記しています。
(2002年までの根来氏版)記載無しとしています(理由後述)。
(2003年以降U氏版)青崩道と合流する水分道の最後の登りの尾根道の
上に記しています。
(1996創元社関西ハイキングガイドP311~P313U氏版)は無線中継所の
すぐ北の樹林の坂(青崩道上)に記しています。
根来春樹氏は、鞍取坂、屏風坂も地誌その他資料から根拠が無いことを
調査した上で『屏風坂のように、その根拠が
答えられないものは原則として記載をしなかった。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
例外として水分道一番の急坂に何らかの呼び名
が欲しく仲西氏の鞍取坂の名は敢えて地図に残した』と昨年聞きました。
注
まっくんより、コメントをいただきましたので本文中に追記します。
下赤坂城の出合屏風坂の戦い
が史実なら下赤坂城から、さほど遠くない位置と推定され、
屏風坂が水分道や青崩道上にあったとする根拠はますます薄くなります。
2.赤坂山(標高777.9 の三等三角点)について
点名を赤坂といいます。
このピークを、根来春樹氏はワンデルングガイドで赤坂山と呼称して
います。これも山名として正式では無く呼称です。
一方、誰のどんな本、どんな地図に出ているのか見たことはありませ
んが尾上山という名称を使う方がいて話が混乱することがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_cloud.gif)
尾上は山主さん(赤坂から所有者も確認できます)の名で
もなく、根拠らしきものがまだ発見できていません。
トリプルセブンとでも言っておけばよかったのかもネ![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_night.gif)
2006/02/20 追記![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
赤松滋氏の資料に 赤坂山340mとあるので、検索してみたところ、
上赤坂城を赤坂山と呼んでいる可能性が強いことが分かった。(1)(2)(3)
槙尾山もずいぶん離れたところに三角点が設置されており、
同様な事情かも知れない。
やっぱり、トリプルセブンと呼んでおくかな。
「此城三方は岸高して、屏風を立たるが如し」という表現が
太平記の一部にあり、地形表現から上赤坂城の可能性も感じる。
いずれにせよ水分道は無関係。
2006/02/21 追記
クニキサン様からもコメントいただきました。ありがとうございます。
・手元の仲西氏の地図、コメント通りの場所(河原辺四等三角点231.1m付
近)に多聞坂の名が確認できました。
ついでに仲西氏の地図について書いてしまいますと、横尾四等三角点
(396.3m)に甲取山、猫背城趾)の記述が見られます。
仲西氏の地図は、そのあたりに道があるとヒントを提示する意味では効あ
りですが、精度や資料性では課題が多いですね。
2001年まで(注1)地図を執筆した根来氏は仲西氏より後を任され、年
月をかけて資料や地元の方の取材から誤りを沢山修正してきたと聞きます
が、とても完璧などとは思っておられず、指摘してくれる人が先生である
としています。
多聞坂&千早 でぐぐって見ると1963年「イモリの分布」を研究されて
いる資料に多聞坂~甲取坂という記述が出てきます。
このように学術資料で引用されることも有る訳で、後にどこのことかす
ら分からなくなってしまい調査を無にしかねないですね。
山地図を書く人が安易に名前を付けたり、名前を引っ越したり、ましてや
小和道のような歴史のある道を、新道に付け替えたりなど傲慢不遜な行為
は、厳に慎まねばならないことですね。
(注1)
2002年版は根来氏起因外の問題が複数有ったので2002と書きませんでした。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_thunder.gif)
また2003への引き継ぎ作業依頼も皆無だったと聞きます。
根来氏に聞くと、1例として、タイ谷は消してないのに2002地図から消え、
タイ谷入り口に「タイ谷道は地図から消しました」と書いた人がいたそうです。
Copyright (C) 2005 gouyuukai ALL Rights Reserved 金剛山剛友会
水分道(坂と山の名称) 2006/02/05初稿
・執筆者によって甲取坂、鞍取坂、屏風坂の位置がコロコロと変わっており
登山者の山行記録を見ても混乱することがあります。
市販地図と本を基に記載事実だけを整理します。
・赤坂山についての名称もわかる範囲で記述します。
1.坂の名前
・水分道の尾根筋には特定の名前は無いらしく、地元の人は単に「背」と
呼んでいると、地元に親戚を持つ水分道常連様より教えていただきました。
やはり、市販地図の水分道上にある甲取坂、鞍取坂、屏風坂も根拠が無
いようです。
この三つの坂の位置について執筆者ごとに調べてみました。
(出版された地図映像の掲載が一目瞭然ですが、出版社の許可がないと
問題なので坂の名称が振られている位置をカシミール3D地図上にライン
を引き併せて文章表現します。わかりにくさはご容赦を)
・甲取坂(かぶとりざか)
(日地出版昭和57年版金剛山と昭文社昭和62年 仲西政一朗版葛城高
原・二上山)では、二河原邊からアシ谷分岐に至るまでを甲取坂と記して
います。
(昭文社昭和62年 仲西政一朗版金剛山・岩湧山)は廃屋を越えた辺りに
甲取坂と記しています。
(昭文社2002年までの根来版)では後述する正しい位置に記しています。
(昭文社2003年以降版)では2本目と3本目の高圧線路に挟まれる部分に
甲取坂と記しています。
(甲取坂、本当の場所)
出発点森屋には千早赤楠公史跡保存会が掲示した甲取坂の説明が有り
ます。本当の場所が確認頂けるよう写真を紹介します。
見取り図
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/c0/1e33a2760e4346f809224afd8e0dda8c.jpg)
森屋から南にのびる旧千早街道と重なることが見て取れます。
説明文
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/6a/f02d603648ce6b0f542ff22d1e5a85f4.jpg)
ほかに千早赤阪村のホームページからも甲取坂が下赤坂城付近に
あったことが読み取れます。
甲取坂(執筆者毎の違いが極端に大きい)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/f7/70a28c3e98980bc957338c96af991167.png)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第9号)」
・鞍取坂
(日地出版)水分道が青崩道へ合流した地点から少し南に、鞍取坂と記し
ています。
(仲西氏版)後に出来る3本目の御坊幹線がはしる急坂にその名を記して
います。
(根来氏版)仲西氏とほぼ同じ位置に記しています(理由後述)。
(2003年以降版)御坊幹線から泣石谷分岐に至る辺りに記しています。
鞍取坂は昔に1回だけ引っ越し。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/62/4f4822e70f1c486aad48f9e027391e54.png)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第9号)」
屏風坂は執筆者ごとに引っ越しか削除、また同じ執筆者でもなぜか
引っ越ししていることすらある。
・屏風坂
(日地出版)セトから国見城跡に上っていく尾根にその名を記しています。
(仲西氏版)無線中継所のすぐ北の樹林の坂(青崩道上)に記しています。
(2002年までの根来氏版)記載無しとしています(理由後述)。
(2003年以降U氏版)青崩道と合流する水分道の最後の登りの尾根道の
上に記しています。
(1996創元社関西ハイキングガイドP311~P313U氏版)は無線中継所の
すぐ北の樹林の坂(青崩道上)に記しています。
根来春樹氏は、鞍取坂、屏風坂も地誌その他資料から根拠が無いことを
調査した上で『屏風坂のように、その根拠が
答えられないものは原則として記載をしなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
例外として水分道一番の急坂に何らかの呼び名
が欲しく仲西氏の鞍取坂の名は敢えて地図に残した』と昨年聞きました。
注
まっくんより、コメントをいただきましたので本文中に追記します。
下赤坂城の出合屏風坂の戦い
が史実なら下赤坂城から、さほど遠くない位置と推定され、
屏風坂が水分道や青崩道上にあったとする根拠はますます薄くなります。
2.赤坂山(標高777.9 の三等三角点)について
点名を赤坂といいます。
このピークを、根来春樹氏はワンデルングガイドで赤坂山と呼称して
います。これも山名として正式では無く呼称です。
一方、誰のどんな本、どんな地図に出ているのか見たことはありませ
んが尾上山という名称を使う方がいて話が混乱することがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_cloud.gif)
尾上は山主さん(赤坂から所有者も確認できます)の名で
もなく、根拠らしきものがまだ発見できていません。
トリプルセブンとでも言っておけばよかったのかもネ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_night.gif)
2006/02/20 追記
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
赤松滋氏の資料に 赤坂山340mとあるので、検索してみたところ、
上赤坂城を赤坂山と呼んでいる可能性が強いことが分かった。(1)(2)(3)
槙尾山もずいぶん離れたところに三角点が設置されており、
同様な事情かも知れない。
やっぱり、トリプルセブンと呼んでおくかな。
「此城三方は岸高して、屏風を立たるが如し」という表現が
太平記の一部にあり、地形表現から上赤坂城の可能性も感じる。
いずれにせよ水分道は無関係。
2006/02/21 追記
クニキサン様からもコメントいただきました。ありがとうございます。
・手元の仲西氏の地図、コメント通りの場所(河原辺四等三角点231.1m付
近)に多聞坂の名が確認できました。
ついでに仲西氏の地図について書いてしまいますと、横尾四等三角点
(396.3m)に甲取山、猫背城趾)の記述が見られます。
仲西氏の地図は、そのあたりに道があるとヒントを提示する意味では効あ
りですが、精度や資料性では課題が多いですね。
2001年まで(注1)地図を執筆した根来氏は仲西氏より後を任され、年
月をかけて資料や地元の方の取材から誤りを沢山修正してきたと聞きます
が、とても完璧などとは思っておられず、指摘してくれる人が先生である
としています。
多聞坂&千早 でぐぐって見ると1963年「イモリの分布」を研究されて
いる資料に多聞坂~甲取坂という記述が出てきます。
このように学術資料で引用されることも有る訳で、後にどこのことかす
ら分からなくなってしまい調査を無にしかねないですね。
山地図を書く人が安易に名前を付けたり、名前を引っ越したり、ましてや
小和道のような歴史のある道を、新道に付け替えたりなど傲慢不遜な行為
は、厳に慎まねばならないことですね。
(注1)
2002年版は根来氏起因外の問題が複数有ったので2002と書きませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_thunder.gif)
また2003への引き継ぎ作業依頼も皆無だったと聞きます。
根来氏に聞くと、1例として、タイ谷は消してないのに2002地図から消え、
タイ谷入り口に「タイ谷道は地図から消しました」と書いた人がいたそうです。
Copyright (C) 2005 gouyuukai ALL Rights Reserved 金剛山剛友会
今日は山頂でいろいろな方にお会いできました。
大変うれしかったです。
屏風坂について気になり調べてみました。
ネット上で気になるページが引っかかり
下赤坂城付近かなぁ・・・と思ってみたり
以下は参考URLです。下の方の行をご覧ください
http://www.skao.net/bjoho/chiha13.html
大和国に金剛山・・・
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sumita/orgdata/00022780/P0016.jpg
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sumita/orgdata/00022781/P0017.jpg
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sumita/00022763/
以上です
こっちのURLの方が良さそうです。
http://www.skao.net/bjoho/chiha.htm
全体から屏風坂がまだ特定出来ていない理由や楠木正成・正義の墓について輪郭がわかります。
下赤阪城址は金剛支脈の一端、甲取山に築かれたもので、千早赤阪中学校の裏手、「赤坂城址」の碑が建っているところから、北に
かけての丘陵一帯です。城は東・北の二方は東条川が流れて自然の堰となり、東南には上赤坂城・茶臼山砦などの山砦が重なって金
剛山頂に続き、西は佐備谷を隔てて龍泉寺城・金胎寺城を望み、南は高塚山砦へと続いています。当時は、城の南に堀切りを設け、
高塚山砦と併せて南面の防御としていました。飲料水は、高塚山から引いたとも、甲取山の湧水を利用したとも言われています。
頂上部は四方の展望がきき、河内平野から金剛の千早城へ攻め入ろうとした場合には、まず第一の関門の役目を果たしたのが下赤坂
城でした。現在では当時の面影をうかがうのは困難ですが、本丸城と称される二反歩程の田があり、本丸の北の方に出城が構えられ
ていました。地名に「甲取坂」「屏風塚」「藤林」「出会」「隠水」などが残っています。
元弘元年(1332)、が醍醐天皇が笠置山に還行の時、笠置がもし危うくなれば、ここに天皇を迎えようとして楠正成が急いで築城し
ました。しかし、笠置が陥り、後醍醐天皇は幕府軍に捕らえられてしまいました。笠置の城を陥れた鎌倉幕府勢は、勢いに乗じて下
赤坂城へ攻め寄せました。この城はにわかづくりの城でしたが、楠木軍は奇策を用いてよく戦いました。二重塀・大木や大石を転が
すなどの戦いぶりは「太平記」に詳しく記されています。楠木軍はもともと陽動作戦を考えていましたので、10日間程でこの城は
落ち、正成は金剛山中に落ち隠れました。
翌元弘2年、楠木正成は鎌倉方の湯浅定佛を奇襲、ふたたび下赤坂城を奪い返しました。約1年後、この城は鎌倉勢のためふたたび
落城しましたが、建武の中興となり、鎌倉幕府は滅亡しました。
その後湊川で楠正成が戦死した後は、正儀らがこの城に拠りました。正平15年(1360)龍泉寺・平石両城が落ちた時、正儀もこの
城を捨てて金剛山中へ退きました。 【「千早赤阪村の史跡・日本城郭体系12」より】
小生は、調べましたが、おそらく、泉州山岳会に所属されていた、山本 宏氏と、同仲西政一郎氏が、道の説明のために、考案されたのではないかと考えております。遡って昭和三十四年発行の「近畿の山」で初出ではないか、戦前の登山ガイドに無ければそれが証明になります。
戦前の二冊を見ましたが、そんな坂の名前はありませんでした。
なお、前記の「近畿の山」には、紅葉谷のいわれが書かれており、それはそうだと思われます。
本旨は、昔からの水分の道は、陸測の地図などで明白なように、基点が、建水分神社で、終点が金剛山頂上であり、道は、その「ナカバヤシ」のところを通っていた、そのことを言っております。だから、そこに坂の名前、多聞坂が (勝手に説明のために)つけられている。
その水分の道は、昭和三十年代、四十年代もほとんど廃道同然だったようです。