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ガンドガコバ

2006-03-30 22:17:20 | 知識
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ガンドガコバとは

クニキサン様、ありがとうございます。小字名は盲点でした。コメントにしておくのはもったいない興味深いテーマなので記事中に引用させていただきます。
ガンドガコバ (クニキサン)
2006-03-20 17:28:14
ガンドガコバ???

おそらく、皆々様、ほんとうは????と思ってられるものと想像しています。

なんなのかなぁ、由来はなんなのかなぁ~と思われているのだけれど、別に判ったところで、どうということもない。 けれど、いつ見ても、口で言ってみても何かチョッとひっかかる、ガンドガコバ。

いったい何か。小生も以前からずーーと疑問でありました。

答え。

町村合併前の、葛上村(奈良県南葛城郡葛上村)の大字関屋の、関屋を構成するたくさんある小字(こあざ)の一つ、「ガンダコバ」にちなむものと考えます。

「ド」は調子をととのえるためのものと思います。

「コバ」は、お説の通りで、広辞苑などにも示されている意味です。

「ガンダコバ」は、「葛上村史」(昭和三十三年三月発行)の434頁に記載されています。

今日、中之島図書館で調べ物をしていてついでに御所市史を開架で探したのですが無く、「葛上村」を知らなかったので。タッチの差でした。また調べてみます。

木場道へのピースケ様へのコメントで、ガンドガコバは太尾塞と書いたのは、「金剛山記」P155に依っています。

(注:金剛山記 金剛山総合文化学術調査委員会編 155頁の図を引用しました)

この位置は、河内側、大和側の水論の重要なポイントであり、
大和側は(今の太尾塞)当時はかんとけ木場から鎌取石(石筆橋前の重石(かさねいし)のこと)までを国境と主張し、
河内側はおおよそ、ダイトレのパノラマ台から尾根を下りないで越口方向へのびる国境を主張し、
京都所司代の裁定はかんとけ木場(今の太尾塞)から今は山道のない現県境を国境と定め大和側勝利が確定したようです。


重石境(石筆橋北側)

実は「ガンド」だけ検索すると、木を伐るのにマサカリを入れ最後反対側からガンドと呼ぶ鋸で挽いて倒すものを指すか、
それとも太尾塞あたりの峰々が鋸の歯に見えたかのどっちかなと思っていました。
かんとか木場、がんとけ木場、カンドケ木場、とか資料によって書き方は様々な様ですが、「ガンダコバ」地域の人の働きが所司代の裁定に貢献していたらと、何か関係有るような気もしてきました。

06/03/21追記
ちょっと学者でもない私が暴走気味かもしれませんが・・・
現在の県境は昔の国境です、一方河内側である東谷から丸滝谷にかけては、大和の吐田郷が共有林としている経緯も見つかっています。
国境の要所、かんとか木場、かんとけ木場、に番所でも有ればかんとか屋敷、かんとけ屋敷と呼ぶ可能性はないでしょうか?

中尾の背が分かつ丸滝谷と石ブテ東谷本谷。後者奥には仲西氏の時代の地図には勘助屋敷と記されていた。
こんなところに屋敷が建つわけがない。誰しもそう思いますね。
以前根来春樹さんにそう話したら、『東谷を上り詰めた太尾塞跡なら考えられる。しかし村史等でもその名を見つけていない。それで勘助屋敷の名前は東谷本谷からは削除した。』と聞きました。


何が言いたいか?・・・これ以上の説明は略します。


06/03/30追記
関屋地区の地名について調べてみました。
関屋には114の地名があります。地図との対応記載が無いので位置特定はできません。
(「葛上村史」(昭和三十三年三月発行)の434~436))
その中のアレかなと思う地名五つだけ

1.ガンダコバ      本題なので省略
2.大田和(オタワ)   おたわ地蔵は仲西根来地図は大田和地蔵とあるので以後大田和地蔵に統一します
3.祈滝(イノダキ)   祈りの滝付近か?
4.細尾(ホソオ)    水越峠~越口を結ぶ県境稜線付近か?
5.丹生谷(ニュウダニ) 祈りの滝方向へ北上する谷らしい(仲西地図~)。
             丹生は辰砂がとれる場所の名前といわれる(ふるさと千早:房 巌)。  

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2 コメント

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祈りの滝の南方に (クニキサン)
2006-03-22 14:20:51
お世話になり、ありがとうございます。

この近辺で、おもしろき道、ありますので、紹介させていただきます。

今では、取水の用で、祈りの滝の前には自動車がたくさんありますが、道路から水越川の方へ、川を越えた南に尾根がありますが(ここらへんは公園みたいになっていて、階段状の遊歩道が尾根のすそに谷の上流へ延びている)、この尾根の稜線部に(昔からの道と思う)、U形にほられた立派な山道があります(ごく最近、伐採があり、放置の丸太材でU形道は埋もれた様になってますけれど、その横にしっかりした道はある)。

ずーと真南に、行きますと、あのパノラマ台に、ひっこり出ます。

途中、標高700メートルあたりで、山道と直角に交差しますが、山道は無視して、どんどん高い方へ行きます。

行きますと、踏みあともなくなって、道は、分からなくなりますが、大木の幹にピンクのリボンテープを結んだそれを目印に追跡しますと(稜線を界に山林の持ち主が異なるようでその目印と思われる)、また道に至り、結局は、上記のように、ヒョッコリと、パノラマ台に出ます。



関屋のこのあたりは、昔、水争いした現場と思われますが、道としては

おたわ地蔵を経由する関屋道(または名柄道)、越口へ至るくねくね道、それと、最近できたそのガンドガコバ林道、ということになっていますが、

むかし関屋の若くて元気なひとは、上記のみちを登っていたのではないでしょうか。

小生は、勝手に、この道を祈りの滝南尾根道と名づけましたが、興味のある方は一度行ってみて下さいませ。

なお、この道は、新旧を問わず市販のどの地図にも記載されてはいません、小生は御所市1/2500白地図、No.12,No.18を見て行きました。













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石ブテ尾根道、登路三通り? (クニキサン)
2006-04-03 13:45:26
楠公像の入ったあの大堰堤がつくられたため、石ブテ谷の南方にある尾根 (石ブテ西谷と、石ブテ東谷・丸滝谷で囲まれる尾根) へは、両谷の出会い付近から、簡単には取り付けないようになってしまいましたが、大堰堤の建設前は、容易に取り付くことができ、剛友会の皆様方はそちらを行かれていたようです。

 昭文社の2002年までの地図にも、道は朱線で、そのように示されてある。

 昭文社の2003年以降の地図では、ご承知のように、石ブテ林道の終点から石ブテ西谷に沿って行き、後、急登する道、つまりU氏が作られた道のみが示されてあります。

 もう一つは、鉄板の橋を渡ってすこし進んだところに先端部がある尾根を行く道で、中尾の背並みの急な山道で、出口は、前記のU氏の道と同じところです。

 ワンデルングガイドΙ「金剛山」に記載の石ブテ尾根道の様子と、前記の二つの道の登路がぜんぜん異なるので、改めて地図を参照して気付きました。また、実際に、行きました。ワンデルングガイド記載の「石ブテ尾根の稜線」、これは実にすばらしい。

 石ブテ尾根道、ワンデルングガイドに記載されている道が、正当な道と思う(取り付きが容易になれば、こちらがおすすめ)。



 
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