1年半のガン闘病も7日朝、ついに力尽きた。
我が戦友「伊ケ崎光雄カメラマン」。
食道がん、享年68。
「ガンとも戦いまっせ!」
闘病中の口癖だった。
会えば口にした。
メールでも毎日「負けへんで」と送信してきた。
終盤の1年は固形物も咽喉を通らない。
抗がん剤を打ちながら、流動物を流し込む。
点滴の針が通らなくなって、飲む抗がん剤に切り替えた。
入院していても「取材があるんや」と病院を抜け出した。
重いカメラ担いで甲子園、大阪、名古屋場所、事件現場にかけつけた。
元気な頃より20キロもやせた身体。
喉は固形物を寄せ付けない。
当然、その痩せ細った体に現場は驚く。
「そんなこと関係あれへん。闘魂カメラマンや」
プロレス取材からスタートした写真誌カメラマン。
フリーの事件取材に転身して、事務所も構えた。
「フラッシュ」を主戦場に「女性自身」など軟派も手かげた。
10月末、事務所を泣き泣き閉鎖した。
35年間の汗と涙で閉じた。
さすがに寂しそうだった。
雑誌と新聞、カメラマンと記者の違いはあったが同業。
現場でよく逢った。
気心通じた取材カメラマンだった。
95年のオウム真理教事件取材で知り合った。
坂本弁護士一家の捜索で富山(宇奈月、魚津など)山中の取材だった。
当時、互いに血気盛んな40歳半ば。
段取りの悪さに私が捜査陣にかみついた。
その後、伊ケ崎カメラマンが近寄ってきた。
「あんた、オモロイね」
名刺をくれた。
闘魂の塊だった。
「俺ら、もっと若いころに知り合ってたら、凄いスクープの連続やなあ」
「いや、どっかでぶつかってるで」
笑いあった。
互いに突撃取材を信条としていた。
伊ケ崎は写真を撮るだけのカメラマンではない。
情報収集は半端ではなかった。
そのための人脈作りの努力は惜しまなかった。
黒革の手帳ならぬ連絡先をビッシリメモしたハンドブックは宝物。
互いに知らないネタ交換をするのが楽しかった。
悔しそうな顔。
嬉しそうな顔。
刺激し合った。
それをきっかけに会っては酒酌み交わした。
これまで飲んだ相手と違って驚いた。
とにかく、バー、居酒屋、飲み屋を短時間でハシゴする。
短い時はほんの20分ほど。
「次、行くで」
多い時は一晩8軒も行ったか?
最後の締めはいつもラーメン。
これは我がルートで、伊ケ崎は大食ではなかったが、付き合ってくれた。
必然として、晩年は「糖尿仲間」となってしまった。
当初は飲み方に面喰った。
だが、飲んでいるうちに分かってきた。
芸能人、スポーツ人、やくざ、政財界人の出入りする酒場に顔を売っておくことだった。
頻繁に通うことで、口の堅いバーテンが情報を漏らしてくれる。
ヒントをくれる。
金のかけ方は真似できなかった。
で、酒の銘柄、肴の良し悪し。
酒場を開けるのでは?というほど知識が豊富だった。
大阪キタ、ミナミは「目をつぶってでも歩ける」と豪語した。
我が60年来の大親友2人とも何度か引き合わせた。
「あんたの仲のええ友人なら会わせてくれ」
中学の野球部仲間で、仕事とは無関係。
それでも、興味深く付き合ってくれた。
4人で会ったのは昨年の5月だった。
生まれ故郷の奈良を伊ケ崎はこよなく愛する。
町歩きを得意げに引率してくれた。
なじみの名店居酒屋「蔵」で痛飲した。
当時、ガンなど思いもよらなかった。
ただ、兆候はあった。
しわがれ声が気になっていた。
「喉がつかえるし、声が出にくい。検査しに行くわ」
その言葉が暗転してしまった。
こちらがリタイアしてからは役に立てなかったのが残念だった。
それでも、以前ほどではないが会った。
1か月ほど前、なぜかこんなことを言った。
「日本海にカニを食べに行こうや」
流動食さえ喉を通らない。
50メートルの距離を20分も30分もかけて歩く。
痛々しいぐら衰弱しているのに誘ってきた。
思い出旅行のつもりだったか?
「あんたが食べずに、自分だけが食べるなんて出来ん」
「目の前で見られて、食べるカニなんて旨くないわ」
憎まれ口をたたいて断った。
この時、すでに死期を悟っていたのかもしれない。
ガンに勝つには己の肉体、細胞を死滅させなければならない。
増殖するガンと闘う、とはそういうことだ。
まさにガン細胞と刺し違える。
伊ケ崎は入院していた病院から家族に内緒で突然退院した。
「病院は息苦しくて、自宅がええ」
さっさと手続き、医師、看護師らは唖然茫然。
長期入院の間に、便所、寝室など自宅をリフォーム。
戸惑う家族をしり目にさっさと帰宅した。
急きょ呼び出された娘はあきらめ顔。
「病院にいれば安心だったのに」
「やすし(横山)でも、娘の言うこと聴いた。聴いたげなアカン」
そう告げたものの、耳を傾ける男ではない。
だが、伊ケ崎は見事だった。
6日に帰宅、翌7日朝、息を引き取った。
素晴らしい生きざまを見せてくれた。
「もう、あんな人は出てこないでしょう」
若い同僚カメラマンがつぶやいた。
「最後まで人生を貫きました」
「声は出てなかったけれど、『左手が凄く腫れてるんや』これが最後の言葉でした」
直前に見舞った伊ケ崎を慕う記者がポツリ。
そして若いころ反発していた長男。
「絶対に親父と同じ仕事は嫌です」
そういっていた長男が30過ぎてカメラマンになった。
いま、朝日新聞やアエラで頑張っている。
「親父には頭が下がります」
息子に立派なオヤジの背中を見せて旅立った。
記者生活の後半で、私は最も濃密な時間を共有した。
戦友の仕草、言葉が脳裏を巡る。
涙がこぼれて仕方がない。
◆通夜 9日(金)18時~。
◆葬儀10日(土)11時~
◆場所:西方寺まんだら坊
奈良市油阪町434-1
近鉄奈良駅徒歩5分
JR奈良駅徒歩10分
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