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辰吉丈一郎への手紙

2014-05-15 | 日記
下の写真は辰吉丈一郎が日本バンタム級王者当時に大阪帝拳ジムが作った91年のカレンダーだ。

辰吉丈一郎様

誕生日おめでとうございます。
1970年5月15日が生まれた日だから、44歳になったのですね。
貴男が、もう、40も半ばにさしかかるとは、時日の経つ速さに驚くばかりです。
思えば25年前に貴男が19歳、私が40歳、初めて取材で接したことを思い出します。
「10代で、凄いボクサーがいてるで」
そんな評判を聞いて、好奇心をくすぐられ、大阪・京橋の大阪帝拳ジムに行きました。

わずか17歳でアマ日本一(全日本社会人選手権バンタム級優勝)になった怪物。
何より、19戦18勝全KO(アマではRSC)1敗という戦績に驚きました。

貴男が働いていたミナミのサウナ「ニュージャパン」にも行きました。
ワルガキ、不良、番長などなど、こわもての評判でしたが、接すると人懐っこく、謙虚で礼儀正しい。
そのギャップにも驚かされ、いっぺんに好感を持ちました。

アマでの1敗はソウル五輪選考予選会。
減量失敗に伴う発熱で体調を崩した結果でしたね。
若さゆえの調整ミス。

プロテストは天下茶屋にあったグリーンツダジムだったような気がします。
いきなりのB級テストで、プロのボクサーを子ども扱い。
あっさり合格した記事を書きました。
平成になった89年9月29日がプロデビュー戦。
2ラウンドKO勝ちで鮮烈のお披露目。
みんなに囲み取材を受けるときは、突っ張り発言をする。
個人的に接すると実に謙虚でした。
それを直に言うと、貴男は大いに照れたものです。
突っ張ってみせるのも仕方のない年齢でしたが。

今でいう亀田ファミリーとは大違いでした。
いつまでも辰吉人気が根強いのも、そういったところです。

後に、わかるんですが、それもこれも、すべては亡き父親の粂二さんの素晴らしい人間性からきていたんですね。
幼いころに離婚し、男一人で育てた親父さん。
一卵性父子、ともいうべき仲の良さでした。

ヤンキーで番長だった貴男でしたが中学時代は皆勤賞。
だからこそ倉敷・味野中の担任先生が「不思議な魅力あふれる生徒でした」と最後まで面倒を見てくれたんですね。

でも、誕生日に言いたいのは「早く引退宣言をしなさい」ということです。
「世界チャンピオンになったら、もうやめれ!」
そういった粂二さんは観戦に一度も行かなかった。

今は二人の息子のオヤジさんになった貴男。
現役にこだわるのは、決して格好いいものではありません。
そして、誰もが貴男の無様な中年男のボクシングを見たいと思っていません。

過去の栄光が大きければ、大きいほど、未練など引きずってはいけません。
レジェンド辰吉は、ボクシングファンの中に、輝き、生きている。

親父さんに成り代わって、嫌なことを貴男に言わせてもらいました。

長嶋茂雄を見て野球始めたのと同じくらい辰吉丈一郎を見てボクサーになった人が多い。
だれも貴男が引退していない、なんて思ってる人はいません。
先日も長谷川穂積、山中慎介のダブル世界戦中継で貴男を見ました。
しかし、話す言葉は呂律が回ってなかった。
少しパンチドランカーの症状がみられました。

現実をもっと見て、晩節を汚さないでください。
それより、息子を辰吉ジュニアとして、リングで輝かせてください。

◆辰吉丈一郎(たつよし・ じょういちろう)1970年5月15日、岡山・倉敷市生まれ。味野中学→帝拳ジム。第50代日本バンタム級王者、第18代・第24代WBC世界バンタム級王者。87年、17歳で全日本社会人選手権バンタム級優勝。89年9月29日、崔相勉を2回KOでプロデビュー。91年9月19日、WBC世界バンタム級王者グレグ・リチャードソン(米国)に挑み10回終了TKO勝ち。国内最短(当時)8戦目で世界王座奪取。同年12月、「網膜裂孔」手術。92年2月6日に予定されていた初防衛戦(対李勇勲=韓国)は中止。92年9月17日、初防衛戦を暫定王座に就いたビクトル・ラバナレス(メキシコ)と統一戦。9回TKOに敗れ王座陥落。93年7月22日、世界再挑戦でラバナレスと再戦。雪辱を果たすと同時に、世界王座返り咲き。9月、網膜剥離で暫定王座返上。94年7月2日、ハワイで復帰戦ホセフィノ・スアレス(メキシコ)を3回KO。同年12月4日、名古屋市総合体育館レインボーホール(現・日本ガイシホール)でWBC世界バンタム級正規王者薬師寺保栄との統一戦。12回判定負けで陥落。愛称は浪速のジョー。血液型B。るみ夫人と2男。




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