中国・大連で倒れた長岡出身の「妖怪博士・井上円了」死去前後の顛末(1)
私、亀川純一の出身は新潟県長岡市で、卒業した高校は「新潟県立長岡高等学校」という明治5年創立の(長岡洋学校)学校です。
ここには私が在校していたころに「和同会(わどうかい)」という名称の生徒会が存在し、古参の威張り腐ったまるで学校の主のような教師が大勢いて、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず、がこの生徒会発足の趣旨である」などと分かったような口をきいていたものです。
その「和同会」を明治9年に創設したのが、井上円了(いのうええんりょう)なのです。
円了には、妖怪博士やおばけ博士などの異名があって、その名のほうが通りが良いようなところもありますが、本稿は、私が彼の終焉の地となった中国遼寧省大連市を訪れて調べたことを、少し詳しく書かせていただきます。
井上円了は、幕末の安政5年(1858)に、越後国三島郡浦村(三島郡越路町浦・現在は長岡市)に生まれました。
明治維新の年から10年にわたって旧来の漢学を学び、その後新時代の洋学へと転じました。このときの学校名は先の洋学校ではなく、新潟学校第一分黌といいましたが、長岡時代の円了は当時としては珍しい、演説と討論を目的とした「和同会」
を組織し、激しく変動する時代に自主的で進取な知的青年として成長していったのです。
しかし、生まれは浦村の「慈光寺」という浄土真宗のお寺の長男としてでしたので、新時代と旧時代の間で心の中に葛藤を抱えます。
明治11年京都の東本願寺の学校に進み、更に東京大学へと進学し、そこで今まで学んだ仏教でもない儒教でもない耶蘇教でもない、西洋の「哲学」と出会うことになるのです。
やがて円了は、29歳で日本初の哲学専修の私立学校「哲学館」を創立しますが、これが明治20年9月で、東京大学を卒業してわずか2年後というものでした。
今日の東洋大学の起源はここになるわけです。
次回はこの「哲学館」の位置づけや経営の苦労、そして円了を全国行脚へ向かわせるところなどを記したいと思います。
私、亀川純一の出身は新潟県長岡市で、卒業した高校は「新潟県立長岡高等学校」という明治5年創立の(長岡洋学校)学校です。
ここには私が在校していたころに「和同会(わどうかい)」という名称の生徒会が存在し、古参の威張り腐ったまるで学校の主のような教師が大勢いて、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず、がこの生徒会発足の趣旨である」などと分かったような口をきいていたものです。
その「和同会」を明治9年に創設したのが、井上円了(いのうええんりょう)なのです。
円了には、妖怪博士やおばけ博士などの異名があって、その名のほうが通りが良いようなところもありますが、本稿は、私が彼の終焉の地となった中国遼寧省大連市を訪れて調べたことを、少し詳しく書かせていただきます。
井上円了は、幕末の安政5年(1858)に、越後国三島郡浦村(三島郡越路町浦・現在は長岡市)に生まれました。
明治維新の年から10年にわたって旧来の漢学を学び、その後新時代の洋学へと転じました。このときの学校名は先の洋学校ではなく、新潟学校第一分黌といいましたが、長岡時代の円了は当時としては珍しい、演説と討論を目的とした「和同会」
を組織し、激しく変動する時代に自主的で進取な知的青年として成長していったのです。
しかし、生まれは浦村の「慈光寺」という浄土真宗のお寺の長男としてでしたので、新時代と旧時代の間で心の中に葛藤を抱えます。
明治11年京都の東本願寺の学校に進み、更に東京大学へと進学し、そこで今まで学んだ仏教でもない儒教でもない耶蘇教でもない、西洋の「哲学」と出会うことになるのです。
やがて円了は、29歳で日本初の哲学専修の私立学校「哲学館」を創立しますが、これが明治20年9月で、東京大学を卒業してわずか2年後というものでした。
今日の東洋大学の起源はここになるわけです。
次回はこの「哲学館」の位置づけや経営の苦労、そして円了を全国行脚へ向かわせるところなどを記したいと思います。
お懐かしい。
情報紙マイスキップもまだかろうじて続いています。
また寄稿してください。
前に博物館で円山円了展がありました。
切り口を変えて特集をやりたいですね。
時々寄せてもらいますね。