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明智光秀 西教寺 坂本菊

2006年03月17日 | 歴史
 『皆さんおはようございます』幾百万の方にご挨拶です『よい朝をお迎えのことと、お喜び申し上げます』。
 明智光秀ゆかりの西教寺について調べていると、『芭蕉の「月さびよ明智が妻のはなしせむ」の句碑も残されていますという記述がありました。「句碑が残されている」ということは、芭蕉が西教寺を訪れて詠んだ句のように思い込み、調べてみると芭蕉が訪れて詠んだのではなく「光秀ゆかりのお寺だから、光秀ゆかりの句碑を建てた」のでした。だから「句碑があります」でないと、アワテ者の短慮を増やします。

 月さびよ明智が妻のはなしせむ の句は、1689年、芭蕉46歳のとき「奥の細道」の旅を終えて伊勢に入り、門弟山田又玄(ゆうげん)宅に宿泊した際に、けなげにもてなしてくれた又玄の妻に感じ、詠んだ句だそうです。
 明智光秀が、越前朝倉家に仕官を求めて訪れていた頃、称念寺の園阿上人の好意で門前に仮住まいをしていました。その頃、光秀は貧困であったようです。光秀の妻は、ある連歌の会の酒肴を調えるに際し夫に恥をかかせてはと、女の命である黒髪を売って金をつくり客をもてなしたという、美しく健気な逸話をあるそうです。
 この句について「さび」という本に「芭蕉はこんな句を詠んでいる。「月さびよ明智が妻の咄しせむ」。芭蕉は咄し家ではないが、ワサビをつかわずに咄しをも寂びさせた芸人でもあったのである」と評論しています。

 明智の妻の句のある西教寺は大津市坂本にありますが、
お寺HP「
西教寺と明智光秀」には元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際、当寺も災禍を被りました。その直後に築かれた坂本城の城主となったのが明智光秀でした。光秀は西教寺の檀徒となり、復興に大きく力を注ぎました。総門は坂本城城門を移築したもので、鐘楼堂の鐘は陣鐘です。天正10年にこの世を去った光秀は6年前に亡くなった内室熙子や一族の墓とともに祠られています」とあります。ここでは、明智の妻は秀より6年前に亡くなったことになっていますが、生没不詳が一般的なようです。「総門は坂本城城門を移築」は光秀のあとに坂本城主となった丹羽長秀が、秀吉の命で坂本城を廃城にして、大津城に移る時、寄進したか譲渡したかで移築されたもののようです。
 西教寺に主君を討った逆賊、明智光秀のお墓を祀ることが認められたのは、秀吉の時代か家康の時代になってからかはわかりませんが、家康はのブレイン、天海上人は坂本と比叡山の復活には尽力されたようである。(天海上人は光秀であるというハナシは嘘らしい)。

 比叡山の麓に延暦寺の里坊が並ぶ大津市坂本。里の紅葉はこれからという10月下旬頃から農家の畑に、黄色の菊畝が見かけられます。これは秋の味覚とされている食用の「坂本菊」です。
 およそ1200年前に比叡山を開いた最澄が、中国から薬用として持ち帰って、坂本で栽培したのが「坂本菊」の起源です。比叡山では古くから、僧の精進料理の材料として使ってきたといいます。また、坂本の庶民にとっても、里山で普通にとれたマツタケとユズで菊を食べるのが、秋の味覚の楽しみであったそうです。
 「坂本菊」を栽培している農家は、自家用の以外は西教寺に納めています。菊の季節に西教寺に行くと、「坂本菊」を使った季節限定の菊精進料理膳という特別料理が食べられるそうです。HPでは要予約の案内があります。

西教寺の料理案内(HPより引用)

1月中旬より 『秘伝大根煮』
  3月上旬 『雛御膳』
  11月中旬より 坂本の食用菊を使用した『菊精進料理』
  ※その他 各種料理を承ります。(完全予約制)

 坂本の菊栽培農家と西教寺の関係について『西教寺は坂本料理菊振興会が「菊料理を食べる会」を開いていたころ、寺の書院を借りていたつながりもあって「菊精進料理膳」として紅葉や文化財を見に訪れる参拝客に振舞うようになった』という記述もありました。
 坂本料理菊振興会というのは、「坂本菊」の栽培が難しいことや、坂本周辺で宅地化が進んだことから、「坂本菊」の栽培が下火になった時期に、農家の女性が中心になって結成した会で、栽培方法や調理法の改善、普及に取り組んできたのだそうです。その会の活動に西教寺が一役買ったということのようです。

 菊精進料理膳という特別料理を食べられた方の話ですが「膳は菊の小花を浮かべた菊酒に始まり、なます、白あえ、天ぷら、胡麻豆腐の菊あんかけ、寿司、すまし汁、一夜漬けからゼリーと菊づくしの九品。それぞれに菊の花が使われ、膳の上に菊の花園が広がっているようだ」ということです。
 田舎者の私的には、茹でた菊をどんぶりに盛って、好みの量の生醤油でいただくのが作法ですが、膳の上に広がる菊の花園という趣向にもワクワクします。

 
坂本菊の畝(うね) 堅田周辺にて

 「坂本菊」については、芭蕉47歳の時、堅田付近で詠んだ
蝶も来て酢を吸ふ菊の膾(なます)(かな) というのがありますが、この句の句碑は滋賀県にはないようですが「坂本料理菊振興会がどこか縁(ゆかり)の地に建てるかもしれない」などと期待しています。堅田というのは坂本から北北西に約8Kmほど上った、芭蕉ゆかりの地です。堅田周辺でも、今も「坂本菊」を栽培している農家があります。「堅田菊」とは言いません。
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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
坂本菊 (夢見子)
2006-03-17 09:52:21
家の近くの畑で栽培されているものも西教寺におさめられているようです。ここに住み始めて農家の方にいただくようになって 胡麻和えとか作って柚子をかけたりして食べるようになりました。秋を感じるには香りも色もあっていいですね。もちろん西教寺でもいただきました
嬉しいな (みずのように)
2006-03-17 22:35:16
夢見子さんこんばんは

自然にも歴史にも風土にも

ワクワクできるいい場所に住めて

何か因縁めいた



それにしても・・・・

うれしいコメントをありがとうございました