今日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」である。呼びかたについては議論があったらしいが、一般的には「終戦の日」とされ、日本政府は1952年から全国戦没者追悼式を主催している。69年前のこの日、玉音放送(昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送)により、日本の降伏が国民に公表されたのである。
などと長々説明すると、「なにを今さら」と仰るかもしれないが、8月15日というと、「甲子園でサイレンが鳴って黙祷する日」くらいにしか思っていない若者も増えているというし、日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した9月2日と混同することもあるので、ご勘弁願いたい。
もっとも「甲子園・・・・ウンヌン」の話は真偽が疑わしいような気もするが、以前は8月15日が「終戦の日」であることを思い起こす情景を、あたりまえのように目にしたものである。
生まれ育った北の地方都市では、1950年代の終る頃まで、8月15日の正午には甲子園と同じようにサイレンが鳴り、街のあちこちで黙祷する姿を目にした記憶がある。なかには手をあわせて祈るお年寄りもいて、子ども心にも「普通ではない祈りの日」として刻みこまれたような気がする。
もっとも、だからといって戦争体験の話に耳を傾けるわけでなく、8月15日について詳しく知るようになったのは、後年「日本のいちばん長い日(岡本喜八監督 東宝)」を見てからだった。
だから、東京に出てきてからは、8月15日は「甲子園でサイレンが鳴って黙祷する日」でしかなくなってしまい、いまの若者と変わるところは少しもない。
おそらく地方の都市にしても、街角で黙祷する姿など、もうなくなっているのだろう。そう思い、生まれ育った地方都市で暮す旧友にメールしたところ、やはり「もう、そのような光景はない」とのことだった。彼がいうには「(前の)オリンピックの頃から、『交通のジャマになる』ということで自然消滅した」らしいが、オリンピックの前には、戦没者への黙祷も「交通のジャマ」となってしまったのだろうか。
もちろん、街角で黙祷したのは一部の地方都市だけだっただろう。しかし、生まれ育った地方都市で「なぜ『街角での黙祷』をするようになったのか」については、オトナの誰も説明してくれなかったし、子どもだったこちらからも積極的に聞こうともしなかった。
いま思えば、生まれ育った地方都市は地方にしては激しい空襲を受けた歴史があり、手をあわせて祈るお年寄りの胸中に去来していた思いを想像すると、心が痛む。
もっとも、積極的に聞いても戦争体験を語ってくれたかどうかはわからない。私事で申し訳ないが、一昨年亡くなった実父は、傷痍軍属だった。左半身には大きな銃創の跡が残されたまま、実父は一生を船舶エンジニアとして一生をまっとうしたのである。しかし、その銃創についての話を実父はしようともしなかったし、親不孝ものの息子(=自分)も聞こうともしなかった。
ただ、実父が亡くなる少し前に届いた訃報に、「あぁ、これで生き残りもいなくなった」という実父がいった言葉は、今でも鮮明に覚えている。その頃は実母が入院していたこともあって、実父と一緒に過ごす時間もあり、世間話になかで切れ切れに聞いたことから想像すると、訃報で伝えられたのは、実父の船員養成の専門学校のクラスメートらしく、どうやら戦争を生き残ったのは実父を含め2~3人だったようである。
正直いって、それを知ってから、銃創についての話を聞く勇気を失ってしまった。
もちろん、戦争の悲惨な体験を味わった方は多いし、その体験談には心が痛む。しかし、クラスメートが次々と帰ってこないなか帰ってくる可能性がないに等しい航海に出発するときの気持ちや、船底に近いエンジンルームで、いつ雷撃されるかわからない緊迫のなか過ごした航海。肉親としては、それを語る辛さを想像すると、あえて聞く覚悟が生まれてこなかったのである。
しかし「それでも聞くべきだった」という悔いはつきまとう。語る辛さに比べれば、聞くほうの覚悟など軽いかもしれない。しかし、肉親としては、実父への思いとの狭間で、これからも悩みつづける8月15日になるのかもしれない。
などと長々説明すると、「なにを今さら」と仰るかもしれないが、8月15日というと、「甲子園でサイレンが鳴って黙祷する日」くらいにしか思っていない若者も増えているというし、日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した9月2日と混同することもあるので、ご勘弁願いたい。
もっとも「甲子園・・・・ウンヌン」の話は真偽が疑わしいような気もするが、以前は8月15日が「終戦の日」であることを思い起こす情景を、あたりまえのように目にしたものである。
生まれ育った北の地方都市では、1950年代の終る頃まで、8月15日の正午には甲子園と同じようにサイレンが鳴り、街のあちこちで黙祷する姿を目にした記憶がある。なかには手をあわせて祈るお年寄りもいて、子ども心にも「普通ではない祈りの日」として刻みこまれたような気がする。
もっとも、だからといって戦争体験の話に耳を傾けるわけでなく、8月15日について詳しく知るようになったのは、後年「日本のいちばん長い日(岡本喜八監督 東宝)」を見てからだった。
だから、東京に出てきてからは、8月15日は「甲子園でサイレンが鳴って黙祷する日」でしかなくなってしまい、いまの若者と変わるところは少しもない。
おそらく地方の都市にしても、街角で黙祷する姿など、もうなくなっているのだろう。そう思い、生まれ育った地方都市で暮す旧友にメールしたところ、やはり「もう、そのような光景はない」とのことだった。彼がいうには「(前の)オリンピックの頃から、『交通のジャマになる』ということで自然消滅した」らしいが、オリンピックの前には、戦没者への黙祷も「交通のジャマ」となってしまったのだろうか。
もちろん、街角で黙祷したのは一部の地方都市だけだっただろう。しかし、生まれ育った地方都市で「なぜ『街角での黙祷』をするようになったのか」については、オトナの誰も説明してくれなかったし、子どもだったこちらからも積極的に聞こうともしなかった。
いま思えば、生まれ育った地方都市は地方にしては激しい空襲を受けた歴史があり、手をあわせて祈るお年寄りの胸中に去来していた思いを想像すると、心が痛む。
もっとも、積極的に聞いても戦争体験を語ってくれたかどうかはわからない。私事で申し訳ないが、一昨年亡くなった実父は、傷痍軍属だった。左半身には大きな銃創の跡が残されたまま、実父は一生を船舶エンジニアとして一生をまっとうしたのである。しかし、その銃創についての話を実父はしようともしなかったし、親不孝ものの息子(=自分)も聞こうともしなかった。
ただ、実父が亡くなる少し前に届いた訃報に、「あぁ、これで生き残りもいなくなった」という実父がいった言葉は、今でも鮮明に覚えている。その頃は実母が入院していたこともあって、実父と一緒に過ごす時間もあり、世間話になかで切れ切れに聞いたことから想像すると、訃報で伝えられたのは、実父の船員養成の専門学校のクラスメートらしく、どうやら戦争を生き残ったのは実父を含め2~3人だったようである。
正直いって、それを知ってから、銃創についての話を聞く勇気を失ってしまった。
もちろん、戦争の悲惨な体験を味わった方は多いし、その体験談には心が痛む。しかし、クラスメートが次々と帰ってこないなか帰ってくる可能性がないに等しい航海に出発するときの気持ちや、船底に近いエンジンルームで、いつ雷撃されるかわからない緊迫のなか過ごした航海。肉親としては、それを語る辛さを想像すると、あえて聞く覚悟が生まれてこなかったのである。
しかし「それでも聞くべきだった」という悔いはつきまとう。語る辛さに比べれば、聞くほうの覚悟など軽いかもしれない。しかし、肉親としては、実父への思いとの狭間で、これからも悩みつづける8月15日になるのかもしれない。
「てほ」のハンドルで活動しておりました、手嶋です。
その節は大変お世話になりました。
もう10年ほどお会いしておりませんが、お元気でお過ごしですか?
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