探偵の口笛─海外ミステリのクラシック音楽─

海外ミステリに登場するクラシック音楽のセンテンスを中心にミステリ論、ミステリ史などミステリの関連文献を毎日読んでいます。

「ヘレンの顔」アガサ・クリスティ マスカーニ(2) レオンカヴァロ(1) コヴェント・ガーデン王立歌

2006-12-15 19:35:25 | コヴェント・ガーデン王立歌劇場

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「探偵の口笛」は、海外ミステリに登場するクラシック音楽のセンテンスを毎日読んでいます。

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本日(239回)は、アガサ・クリスティのハーリ・クィンとサタースウェイト氏ものの短篇「ヘレンの顔」(1930)を読みたいと思います。

登場音楽は、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」とレオンカヴァロの「道化師」です。

サタースウェイト氏は劇場の第一列目の大きなボックスに、たった一人ですわっていた。ドアの外側には、彼の名前を印刷したカードが貼ってあった。あらゆる芸術の鑑賞家、目ききであるサタースウェイト氏は、いい音楽が特に好きで、毎年きまってコベント・ガーデン(劇場の名前)を予約して、シーズンの間中ずっと、火曜と金曜のボックス席を取っておくのだった。

しかし彼がそこに一人で坐っていることは、珍しかった。彼は、社交好きの小柄な紳士で、好んでそのボックス席を、自分の属しているすばらしい世界のより抜きの人たちや、また、芸術界の貴族階級で満たすのだったが、この人たちの間にあっても、彼は同じくらい気楽なのだった。今晩彼が一人でいるのは、ある伯爵夫人が約束をことわってきたからだった。この伯爵夫人は、美人で、また有名な女性であるうえに、また、良い母親でもあった。彼女の子供たちが、おたふくかぜという、あのありふれた、厄介な病気にかかったので、伯爵夫人は家にとどまって、びしっと糊のきいた着物の看護婦たちと、涙ながらにあれこれ相談し合っていたのである。いま話に出た子供たちと爵位とを彼女に与えはしたが、その他の面ではまったく影の薄い彼女の夫は、その機会を捉えて、行く方をくらました。彼にとっては音楽ほど退屈なものはなかったのだ。

というわけで、サタースウェイト氏は一人ですわっていた。今晩の出し物は、《カヴァレリア・ルスティカーナ》(マスカーニ作のオペラ)と《パリアッチ》(レオンカバレロ作のオペラ)で、初めのものはどうも虫が好かなかったので、彼はサントゥツァ(カヴァレリア・ルスティカーナの女主人公)の死の苦悶の場面に幕が降りた直後に到着したが、まだ時間があったので、挨拶を交わしたり、押し合いへし合いしてコーヒーやレモネードを買おうとみんながぞろぞろ出ていく前に、慣れた目で場内をひとわたり眺めた。サタースウェイト氏はオペラ・グラスの度を合わせて、場内を見まわし、獲物を見つけ、これからの作戦計画をちゃんと繰り上げて、勢いよく出撃した。しかし、彼はこの計画を実行に移しはしなかった。というのも、ボックス席のすぐ外で、彼は背の高い、黒髪の男に出くわし、彼の顔に気づいて、楽しい興奮のスリルを感じたからからである。

「クィンさん」と、サタースウェイト氏は叫んだ。

彼は興奮して友人の手をとり、いつなんどきすうっと消え失せてしまうかもしれぬというように、その男をしっかりとつかまえた。「ぜひわたしのボックスに来てください」と、サタースウェイト氏は、否応言わせぬ調子でいった。「お連れはないんでしょう?」

「ええ、ひとりで一等席にいるんです」と、クィン氏は微笑を浮かべて答えた。

「じゃ、そう決めましたよ」と、サタースウェイト氏は、安堵の溜息まじりにいった。

誰かがそばで見ていたら、彼の態度は滑稽にも見えたことだろう。

「どうもご親切に」と、クィン氏はいった。

「どういたいしまして。嬉しく思っていますよ。あなたが音楽がお好きだとは存知ませんでした」

「いろいろわけがありましてね。《パリアッチ》─には興味をもっとります」

「ああ!もちろん」と、サタースウェイト氏は、のみこみ顔でうなずいた。が、もし問い詰められたら、なぜ自分がそんな言葉を使ったのか、説明するのはむずかしかったろう。「もちろん、そうでしょう」

彼らはベルが鳴るとすぐにボックスへ戻った。そして、前に身を乗り出して、一等席に戻ってくる人々を見つめていた。

引用部分は、アガサ・クリスティ「ヘレンの顔」(1930) 石田英士訳 (クリスティ短篇集 5 「謎のクィン氏」所収 ) ハヤカワ・ミステリ文庫 1978年の発刊です。


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