この違い。自分は意識しているか?
0を1にする力と1を10にする力 by shi3z from アキバ系!文京区本郷四畳半社長
ご自身では、「真新しい話ではない」と、述べられているが。
やはり、専門家たるもの。
自ら、きちんと意識しておくべき話だと思う。
ちょっと似た話に。
論文などで自説を展開し、その有意性を述べる際に、
・0が1になったことを証明する
・今まで1だったものが10になったことを証明する
・数式で(ある条件の範疇では)ありとあらゆる場合に適用できることを証明する
方法があることにも通じている。
専門性の色が濃い職業では、
・無から有を作り出す
・効率よく、短時間で大量の事象に対応する
ことが求められる場合が多い。
無論、両方できることが望ましい。
が。
両者を高次元で出来る人なんて、そう居るものではない。
従来の日本は。
歴史を振り返ってみても、海の向こうの東洋や西洋の地に存在する技を取り入れ、素早く習得し、効率よく短時間で大量の事象に対応してきたように思う。
そのために。
日本で行われてきた教育は、完成された技をいかに素早く習得するか?に重点が置かれ、決められたことを決められたように短期間でこなすことができるようになった人間を優秀としてきたように思う。
#この能力を重視してきたのは、能力の評価がしやすいことも理由として上げられるだろう。
#0が1になる話は、1にならない限り、前進しているのか後退しているのか評価することが困難。
#それに引き換え、1が10になる話は、たとえ10にならなくとも、1が1.1になったのか
#1が0.9になってしまったのか、評価することは比較的容易である。
無論、この能力は重要なことであり。
無から有を作り出すと言えど、自らの中が本当に無では、なにも出来やしない。
形になっていなくとも、やはり、ベースとなるなにか を有していることが必要不可欠だ。
そのために必要な行為とは。
『守』・『破』・『離』
指導者の教えを守り、
自らの創意工夫によって教えを破り、
指導者から離れて、独自の発展を追求すること。
専門性の色が濃い職業に従事するためには、この姿勢が必要不可欠。
と、なると。
・無から有を作り出す
・効率よく、短時間で大量の事象に対応する
ために必要な能力を身につけるプロセスには、大きな違いがないのではないか?
ならば。
shi3zさんも述べられているように、なぜ日本には、後者の能力を高次元で身につけている人は多いにも関わらず、前者の能力を高次元で身につけている人は少ないのか?
#少なくとも、ある分野における専門性の色が濃い職業に従事してきたGALANT's Cafeには、そう、思える。
この理由について。
GALANT's Cafeは、
・自らの意志で、究極を追求しようとする姿勢
・他者からの要求に応えるために、究極を追求しようとする姿勢
の違いではないか?と思う。
「0を1にする能力」を持った人の特徴として、shi3zさんが述べられている(一部抜粋)、
>・自分のやりたいことは夢中になってやる
>・やりたくないことは原則としてやらない、やらされると仕方なくやるが、やはりたいていは他者に丸投げする
>・規則正しい生活をしない
>・気がつくと常に寝ているか、遊んでいる
>・およそ真面目に仕事をしない
>・生活の90%が趣味のために費やされる
>・ごくたまにできた自分の仕事の成果をみんなに見せびらかすことに生き甲斐を感じている
>
>まさに典型的なダメ社員です。
のように、“自らの意志で、究極を追求しようとする姿勢”が、0を1にする(無から有を生み出す)能力を育てる(つまりは、自らの要求に自ら応えようとする姿勢だ)。
別の言い方をすれば、この能力は、他人から教育されたところで、そう大して育つことはないように思う。
それに引き換え。
1を10にする(効率よく、短時間で大量の事象に対応する)能力は、“自らの意志で、究極を追求しようとする姿勢”によって培うことも出来るが、やはり、“他者からの要求に応えるために、究極を追求しようとする姿勢”によって、より効果的に能力を育てられる(つまりは、他者の要求に応えようとする姿勢だ)。
専門性の色が濃い職業に従事するならば、無論、両方の能力を有することが望ましいのは、言うまでもない。
しかしながら、
・自らの力で、自らの能力を育てる力
・他者の教えに従って、自らの能力を育てる力
には相反する面があり、両立することは難しいように思う。
#考えて、みて欲しい。
#自分はより深みを追及したいにも関わらず、
#他者から「(別の)このことも学ばなければならない」と次々に要求されるとしたら。
#両立なんか、できると思うかい???
大切なことは。
・無から有を作り出す
・効率よく、短時間で大量の事象に対応する
2つの能力のどちらが優秀か?ではなく、自らが、どちらの能力をより有する人間になりたいのか?を強く意識しておくこと。
どちらの能力をより伸ばしたいか?によって、生き方はまるで異なるのだ。
さて。
GALANT's Cafeの場合は。
自ら“何を見て、何を感じ、何を考えるか? そしてどう生きるか?”を追求してきた生き方。
無論、今までにも山ほどの他者からの指導もあったのだが。
その大半が、無駄なものになってしまった。
いや、自ら、無駄なものにしてきてしまったのだ。
#事実。
#「お前ほど、教え甲斐の無い奴は居ない!」と、どれだけ多くの指導者を嘆かせたことか。
#それに対し。
#「なぜ君は、そんなことが出来るのだ!?」と、周囲の人々を驚かせた事象の大半は、
#自らが見よう見まねではじめ(自ら試行錯誤を重ね)た上で培われた能力に依存していることが多い。
が。
自ら、強く意識しておかなければならないことは。
「無から有が生まれた事実」は、「自ら試行錯誤した結果」であることに間違いないが。
「自ら試行錯誤した結果」によって、常に、「無から有が生まれる」とは限らないことだ(当たり前のことなのだが)。
「無から有が生まれる」ために、「自らはどのような試行錯誤するのか?」を考え続けておかなければならない。
この言葉を、自らの33回目の誕生日に、記しておこう。
P.S. GALANT's Cafeって。
ホント、人から教わるのが下手なんですよね^^ゞ
それを補うために。
試行錯誤して独自の技を身につけることで、他者を寄せ付けないように、自らを守っていたとか、いないとか...
0を1にする力と1を10にする力 by shi3z from アキバ系!文京区本郷四畳半社長
ご自身では、「真新しい話ではない」と、述べられているが。
やはり、専門家たるもの。
自ら、きちんと意識しておくべき話だと思う。
ちょっと似た話に。
論文などで自説を展開し、その有意性を述べる際に、
・0が1になったことを証明する
・今まで1だったものが10になったことを証明する
・数式で(ある条件の範疇では)ありとあらゆる場合に適用できることを証明する
方法があることにも通じている。
専門性の色が濃い職業では、
・無から有を作り出す
・効率よく、短時間で大量の事象に対応する
ことが求められる場合が多い。
無論、両方できることが望ましい。
が。
両者を高次元で出来る人なんて、そう居るものではない。
従来の日本は。
歴史を振り返ってみても、海の向こうの東洋や西洋の地に存在する技を取り入れ、素早く習得し、効率よく短時間で大量の事象に対応してきたように思う。
そのために。
日本で行われてきた教育は、完成された技をいかに素早く習得するか?に重点が置かれ、決められたことを決められたように短期間でこなすことができるようになった人間を優秀としてきたように思う。
#この能力を重視してきたのは、能力の評価がしやすいことも理由として上げられるだろう。
#0が1になる話は、1にならない限り、前進しているのか後退しているのか評価することが困難。
#それに引き換え、1が10になる話は、たとえ10にならなくとも、1が1.1になったのか
#1が0.9になってしまったのか、評価することは比較的容易である。
無論、この能力は重要なことであり。
無から有を作り出すと言えど、自らの中が本当に無では、なにも出来やしない。
形になっていなくとも、やはり、ベースとなるなにか を有していることが必要不可欠だ。
そのために必要な行為とは。
『守』・『破』・『離』
指導者の教えを守り、
自らの創意工夫によって教えを破り、
指導者から離れて、独自の発展を追求すること。
専門性の色が濃い職業に従事するためには、この姿勢が必要不可欠。
と、なると。
・無から有を作り出す
・効率よく、短時間で大量の事象に対応する
ために必要な能力を身につけるプロセスには、大きな違いがないのではないか?
ならば。
shi3zさんも述べられているように、なぜ日本には、後者の能力を高次元で身につけている人は多いにも関わらず、前者の能力を高次元で身につけている人は少ないのか?
#少なくとも、ある分野における専門性の色が濃い職業に従事してきたGALANT's Cafeには、そう、思える。
この理由について。
GALANT's Cafeは、
・自らの意志で、究極を追求しようとする姿勢
・他者からの要求に応えるために、究極を追求しようとする姿勢
の違いではないか?と思う。
「0を1にする能力」を持った人の特徴として、shi3zさんが述べられている(一部抜粋)、
>・自分のやりたいことは夢中になってやる
>・やりたくないことは原則としてやらない、やらされると仕方なくやるが、やはりたいていは他者に丸投げする
>・規則正しい生活をしない
>・気がつくと常に寝ているか、遊んでいる
>・およそ真面目に仕事をしない
>・生活の90%が趣味のために費やされる
>・ごくたまにできた自分の仕事の成果をみんなに見せびらかすことに生き甲斐を感じている
>
>まさに典型的なダメ社員です。
のように、“自らの意志で、究極を追求しようとする姿勢”が、0を1にする(無から有を生み出す)能力を育てる(つまりは、自らの要求に自ら応えようとする姿勢だ)。
別の言い方をすれば、この能力は、他人から教育されたところで、そう大して育つことはないように思う。
それに引き換え。
1を10にする(効率よく、短時間で大量の事象に対応する)能力は、“自らの意志で、究極を追求しようとする姿勢”によって培うことも出来るが、やはり、“他者からの要求に応えるために、究極を追求しようとする姿勢”によって、より効果的に能力を育てられる(つまりは、他者の要求に応えようとする姿勢だ)。
専門性の色が濃い職業に従事するならば、無論、両方の能力を有することが望ましいのは、言うまでもない。
しかしながら、
・自らの力で、自らの能力を育てる力
・他者の教えに従って、自らの能力を育てる力
には相反する面があり、両立することは難しいように思う。
#考えて、みて欲しい。
#自分はより深みを追及したいにも関わらず、
#他者から「(別の)このことも学ばなければならない」と次々に要求されるとしたら。
#両立なんか、できると思うかい???
大切なことは。
・無から有を作り出す
・効率よく、短時間で大量の事象に対応する
2つの能力のどちらが優秀か?ではなく、自らが、どちらの能力をより有する人間になりたいのか?を強く意識しておくこと。
どちらの能力をより伸ばしたいか?によって、生き方はまるで異なるのだ。
さて。
GALANT's Cafeの場合は。
自ら“何を見て、何を感じ、何を考えるか? そしてどう生きるか?”を追求してきた生き方。
無論、今までにも山ほどの他者からの指導もあったのだが。
その大半が、無駄なものになってしまった。
いや、自ら、無駄なものにしてきてしまったのだ。
#事実。
#「お前ほど、教え甲斐の無い奴は居ない!」と、どれだけ多くの指導者を嘆かせたことか。
#それに対し。
#「なぜ君は、そんなことが出来るのだ!?」と、周囲の人々を驚かせた事象の大半は、
#自らが見よう見まねではじめ(自ら試行錯誤を重ね)た上で培われた能力に依存していることが多い。
が。
自ら、強く意識しておかなければならないことは。
「無から有が生まれた事実」は、「自ら試行錯誤した結果」であることに間違いないが。
「自ら試行錯誤した結果」によって、常に、「無から有が生まれる」とは限らないことだ(当たり前のことなのだが)。
「無から有が生まれる」ために、「自らはどのような試行錯誤するのか?」を考え続けておかなければならない。
この言葉を、自らの33回目の誕生日に、記しておこう。
P.S. GALANT's Cafeって。
ホント、人から教わるのが下手なんですよね^^ゞ
それを補うために。
試行錯誤して独自の技を身につけることで、他者を寄せ付けないように、自らを守っていたとか、いないとか...
おめでとうございます^^
私たちの世界では、0か1かは非常に重要なポイントです。
居る(ある)のと、居ない(ない)のとでは大違いなんですよね。
作り出すというお話からは逸れてしまいますが^^;
自然科学における“発見”は、一番最初に見つけ出さないと、その重みが大きく違ってしまいますね(泣)
仮説に基づいて探し出し、(一番最初に)見つけ出した時の喜びは大きいでしょうね^^
どのジャンルにも変革期と言われる時期にはそんな人が出てきてますね。
0から1を作ると思われていても、大半は0.1を集めて1にする人だと思いますが…
少なくとも。
工学の世界では、天才であろうとなかろうと!?、0から1を作るタイプの方が居ます。
が。
作られたモノが世に出て、本当に残っていくか?となると、話はまったく別ですね。
芸術もそうなのでしょうか...?
まぁ、本当に無からは、何もできませんものねぇ...^^;
#何もないと、無なのか有なのかすら、識別できませんもの(・3・)~♪
おめでとうございます。
そして、この記事とても参考になりました。
プレゼントをもらう立場なのに、プレゼントを生み出されるとは。
ありがとうございます。
この話は、自分のメモ書きとして書いてありますが。
こんなのでよければ、差し上げます。
どうぞ、貰ってやってください^^