ふなやすさんの数字と戦う生活

転職と同時にブログタイトルも少々変更ですよ。

日本女帝名鑑

2005年09月08日 00時13分16秒 | 歴史やら神社やら
あんまり今回の選挙で話題になってない話題
女性天皇論、
私は容認派です。
女性の社会進出とかそういうのは興味ないです、っていうかそんなどうでもいいです。
とりあえず私の容認理由は前例があるから
これだけです。天照大御神も女性ですしね。
というわけで歴史上の日本の女帝についてまとめてみました

33代推古天皇554~628(在位;592~628)
豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしぎやひめのすめらみこと)(日本書紀二十二巻)
欽明天皇の娘で用命天皇の同母妹、額田部皇女
摂政聖徳太子の時代の天皇として結構知名度はある天皇
蘇我馬子・聖徳太子とともにいろいろな改革に取り組む、実は聖徳太子や馬子より長生きだったもよう。

皇極・斉明天皇 594~661 (在位;642~645、655~661)
天豊財重日足姫尊(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
日本書紀二十三巻に登場
敏達天皇の曾孫、押坂彦人大兄皇子孫茅淳王の娘、母は吉備姫王、舒明天皇二年に后となる、十三年に天皇が没しその後をついで即位、蘇我蝦夷・入鹿が摂政となる、どちらかというと傀儡の色を感じるが・・・
いうまでもなく天智天皇の母、皇極天皇の条は日本書紀二十三巻~二十四巻と非常に長いがそれはいうまでもなく入鹿暗殺、山背大王子暗殺などの記述があるから、
さて、皇極天皇の後を受けたのは孝徳天皇だがこちらは五年目の七月に没し再び皇極天皇が再即位、今度は斉明天皇として即位するが百済出兵中に朝倉橘広庭宮にて崩御、この後即位するのが天智天皇、息子の大化の改新を支えた天皇といえよう。

持統天皇 645~702(在位;690~697)
高天原広野姫尊(たかまのはらひろぬひめのすめらみこと)
日本初期三十巻登場
父は言うまでもなく天智天皇、母は遠智娘
即位前は鵜野讃良皇女(うのさららのひめみこと)飛鳥浄御原令の施行、大宝律令の完成に深くかかわる、天武天皇に譲位したのちも太上天皇として政務を取り仕切った。
歌人としても有名で万葉歌人らとも信仰があった。
百人一首にも一首
「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」という歌が載っている。

元明天皇661~721(在位;707~715)
天智天皇の娘
文武天皇・元正天皇の母、二人の中継ぎ的な短期的な即位、いまいちよくわかりませんが和同開珎が使用されたコロの天皇だそうです。

元正天皇680~748(在位;715~724)
日本根子高瑞浄足姫天皇
その元明天皇の娘父は草壁皇子
即位中に起きた事件は藤原不比等が養老令の編纂に当たったり日本書紀が完成したぐらい、即位九年も聖武天皇の成長とともに譲位、中継ぎ的な天皇の模様・・・

孝謙・称徳天皇 718~770(749~758、764~770)
宝字称徳孝謙皇帝
父は聖武天皇、母は光明皇后、当初は藤原仲麻呂や和気清麻呂を登用したりしてたんですけどねえ・・・
この人を語るとどうしても道鏡・・・・というキーワードが浮かんでしまいますね。政治自体悪いことをやったわけじゃないんですがどうしてもこのマイナスポイントがあまりにも大きすぎた人、
本来は息子の淳仁天皇が即位するまでの中継ぎだったと思われるが恵美押勝の乱により退位、再び即位した際に称徳天皇になる。
吉備真備センセの弟子なのになあ・・・

明正天皇 1623~1696(在位1629~1643)
時代が一気に飛びます。江戸時代です、父は後水尾天皇、母の父は徳川秀忠、この血統でわかると思うが政治色がかなり強い、徳川将軍の親戚ということぐらいしか特に書くことなし

後桜町天皇 1740~1813(在位1762~1770)
父は桜町天皇、現在では最後の女帝、時代的には十代徳川家治のころか、この時期に本居宣長が古事記伝を発表するなど、国学的には一番おいしい時期、

番外、
※注意、この二人は天皇125代にはカウントされておりませんが歴史書によってはカウントしていることもあります。こういう異説もある、という程度で頭の片隅においておいて貰えるとありがたいです。

飯豊天皇(飯豊青皇女)扶桑略記には飯豊天皇と記されており、即位を認めている。記紀などでは一時的に政務を執ったということがかかれているが即位したとは認めていない、もし本当に即位していたなら推古天皇より早いため日本最初の女帝となっていた。

神功皇后
こちらも出展は忘れましたが天皇にカウントしていた本があったはず、日本書紀では神代を除いて即位していない人物では唯一巻を割いてまで記される人物、即位していたら日本最初の女帝の可能性もありましたがおそらく日本最強の女帝、というか日本最強の天皇の一人になっていたかもしれない方、
中哀天皇の后で応神天皇の母、信託を受け名臣武内宿弥とともに三韓征伐、クワソ征伐を行う。妊娠中であるにもかかわらず自ら剣を持ち前線にたち戦い、さらに石を抱いて子が生まれるのを遅らせ帰国後応神天皇を生むなどの豪傑ぶりだった。

といった感じで過去にはこれだけ女帝がいました。
まあ少なくとも女帝論者のセンセ方(容認しないセンセも)でこの辺りがチャント押さえられている人はいるのか疑問ですがこれを期に少しは歴史を勉強してほしいものです、もちろん山川などではなく扶桑社の教科書で!!

さて、改めてみてみた私の結論、中継ぎで・・・ただし後の天皇がある程度目処が付いた状態で、ということなら女性天皇もいいかな、と思ってみたりします。
結局推古・持統天皇以外は中継ぎ天皇でしかなかったわけで、江戸時代の天皇は良くわかりませんが、明正天皇は21歳で譲位しているからこれも中継ぎ?
具体的にいってみると結局今の皇太子殿下に早くお孫様が御誕生されればその愛子様のお子様がある程度大きくなるまで愛子様が一時的に即位という形とかであれば・・・いいんじゃないかな、と思ってみたりしますが、その前に愛子様の御結婚の相手を見つけるのが大変かあ・・・

参考図書 神典 より日本書紀(大倉山精神文化研究所編)他

また変な知識が増えた・・・と思った方はクリックお願いします。

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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2005-10-02 16:08:14
推古天皇、持統天皇両名とも中継ぎですよ?

中継ぎではないのは孝謙天皇で、彼女は日本史上唯一

女性皇太子を経て正式に即位した天皇です。
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ご指摘ありがとうございます。 (ふなやす)
2005-10-03 00:25:24
ありがたい情報ありがとうございます。

たしかに孝徳天皇立太子してましたね。

いわれてみれば思い出しました。血筋は最高にいい天皇ですしね(父聖徳天皇・母光明皇后)

推古・持統両天皇も中継ぎでしたか、推古は経緯を考えると納得、そして持統もでしたか、これは不勉強でした、ありがとうございます。
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