礎石が復元されてるのは後期難波宮です
前期難波宮は、礎石を使わない掘立柱建物で、瓦も使ってませんでした
ところで、難波宮や難波津から見て、奈良の飛鳥を「遠つ飛鳥」、
河内地区の羽曳野や太子町辺りを「近つ飛鳥」と言うそうです。
武内宿禰を祖とする蘇我氏は元々河内の飛鳥を本拠地としていたようで、
「近つ飛鳥」と「遠つ飛鳥」を結ぶ竹内街道も武内宿禰に由来しそうです。
羽曳野市にある「近つ飛鳥博物館」に行きました。
古墳~飛鳥時代をテーマとした博物館です
水素爆発した原発みたいですが、安藤忠雄さんの建築です
このような古墳が多数あり、近つ飛鳥風土記の丘として整備されてます。
このあたり、一須賀古墳群には総数262基の古墳があるそうです。
展望台から見た磯長谷(しながだに)方面の景色です。
聖徳太子や推古天皇などの陵墓があり、王陵の谷と呼ばれます
聖徳太子の墓の模型が展示されてました。
本物は叡福寺にあり、母と皇后と共に合葬されてます。
かなり辺鄙な地域であり、こんな所に葬られてたとは正直驚きました
大仙陵の模型の展示です。
白石館長の講演「百舌鳥・古市古墳群の形成過程が語るもの」によると、
現在、大仙陵は仁徳天皇陵と比定されてますが、
実際には誰の陵(みささぎ)か何とも言えないそうです。
百舌鳥古墳群から大きな古墳を3つ選ぶと、大仙陵は北陵となり、
「延喜諸陵式」の記述から反正天皇陵になります。
埴輪のカケラから作った古墳の編年図から大王墓を選ぶと
大仙陵は4番目になり、倭の五王の4番目の安康天皇陵?になります
まだまだ分かってないことは多いようです
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