Per Mariam ad Jesum!

不肖なる罪僕Maxの徒然

悲しみの節

2016-03-17 23:53:47 | 日記
 大浦天主堂で旧信徒発見の出来事が起きた時の典礼暦は、キリシタン用語で言うところの「悲しみの節」、今で言う四旬節であった。
 此の主の御受難と御復活を迎えるに当たる準備の期間に、日本に於ける公教会復興の先魁として此の記念すべき出来事が起こった意義を心に浮かべる。
 待ち焦がれた「ぱーでれさま」に出会えた彼等が、その後、奉ずる信仰に因って蒙った想像を絶する迫害と、筆舌に尽くしがたい辛酸を嘗めた事実は、霊魂の救霊の為に聖主が受けた御苦難と御死去に相通じ、胸に迫る万感以上のモノが在る。
 陶器の欠片で畑を耕さざるを得なかった信仰の先達が文字通り流された血と汗と涙が、美しいステンドグラスや素晴らしい装飾に彩られた各地の聖堂の礎、其の基と成っている事を今一度弁えたく思う。
 大いなる感動を以って「われらのむね、あなたのむねとおなじ。さんたまりあのごぞうはどこ?」の言葉を思う時、何故か日々繰り返される二千年前の十字架の犠牲の再現をも想起させられていたのだが、その意味が今やっと解りかけ始めた気がする。
 ノーテンキで軽薄でお気楽な路線は矢張り受け容れ難い思いを新たにし、又、論を論ずる牧者よりも行いで諭された泥臭い牧者が懐かしく偲ばれた祝日であった。