富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

おとなは知らない

2010-04-04 00:37:49 | コバルト
※連載:小説ジュニア(集英社 昭和43年9月号~)

集英社文庫 コバルトシリーズ 昭和51年初版
カバー・カット:萩尾望都

OH!モー様だ!
よく見ると男の子(たぶん水野)がつっかけ履いてるのに感動した!

※初出:集英社コバルトブックス(1969) (W)


<おとなは知らない>

もうちょっと時間をかけてまとめたいのだが、
書かないと次が読めないから書いてしまう。

読みはじめからいつもとは違う空気を感じた作品。
いつもなら1~2日で読み終える本を、今回は1章ずつもったいぶって読んでしまった。


物語は中山宗太の自殺からはじまる。
優等生の宗太は、評判の不良少女 洋子に婚約を申し入れ、断られたのちに自殺した。
そしてそれを止めることもなかった友達の水野。


ニヒリストの水野と、妖婦の異名を持つ不良少女の洋子というキャラクターは、
いつもなら脇役(もちろん魅力的な)扱いになっていただろう。

彼らはおおむね主人公のよき友達であり、しかし恋は破れがちだ。

でも今回は、そんなちょっと屈折したふたりにスポットが当てられている。


洋子はヤクザが彼女をめぐって撃ち合いしたとか、湯船に牛乳を10本入れてはいるとか、
中学で処女を失ったとか、数々の伝説を持ち、男にちやほやされてながら自由奔放に生きる少女だ。

そんな洋子に親近感を覚える水野は、両親を失った孤児。
心の孤独、そして洋子とは対称的な少女、妙子への思いを抑えながら生きている。


ふたりはなんとなしに会い、洋子はなんとなしに水野の家に泊まり、
水野はなんとなしに洋子に接吻を求める。

でも、洋子が水野にかいがいしく給仕をし、美しい声で白秋の詩をうたう姿には、
単なる不良娘の気まぐれ以上のものが感じられる。

洋子は「普通のあばずれの持っていない貴重な宝石を持つ」心のやさしい少女であり、
刹那の楽しみにむなしさを覚えているのだ。



「あたしはあなたを好きになるべきだったのよ」
「おれもそう思う」
「それなのに、矢吹妙子なんか好きになっちゃって。おかしな人」
「おれもそう思う」
「いまからでもおそくないわ。あたしを好きになりなさい」
「そうしようか」
「そうすべきよ」



「ふたりだけの真珠」の時に、
「『孤独』における結びつきは、大人では傷のなめあいになりかねない」と書いたが、
このふたりには、実はその雰囲気を感じた。


結局水野と妙子は、(お互い気になっていながら)心の中でたがいに別れを告げ、
それぞれにふさわしい相手のもとへ歩み寄ることになるのだが、
私はこの「ふさわしい」というのがキーワードのような気がして仕方なかった。


妙子が結ばれた相手は、まじめで一本気な名家の長男、堀太郎だ。
対して孤児と不良少女のふたり。


この「光と影」というべき二組のカップルの行く末は、これまた対照的で、
最終章に「洋子と水野はどこへ行くか」と題がついているが、ほんとうにその通りだ。


作中に、駆け落ちする教師と女生徒が出てくるが、
私はこのふたりと同じ道をたどるのではないかと想像してしまった。


「ふさわしい」を「運命」とみたとき、確かにそれはドラマティックだ。
でも現実では、一瞬の燃え上がりだけで生きるのは難しいだろう。


なんだかんだいって、堅実とか、安定とかが大事なのだろうか…
と、筆者の本意ではないであろう読み方をしてしまった。



さて、ところで冒頭の中山宗太の自殺は何だったのか。

この作品は駆け落ち、中絶、強姦未遂?などスキャンダラスな話題がもりだくさんだったり、
やたら「生理」という言葉が出てきたりと、過激さを狙ったのかとも思えるので、
(その分狂言回し的に筆者が登場し、ユーモアを添えてバランスを取っているような気がする)
そのひとつのエピソードとしても読める。


洋子への遺書には


きみに失恋したから自殺するのではない。ぼくはきみによって自殺からのがれようと企てたのだ。

ぼくはどうして、きみがとりまきとしてしたがえている連中のように生きることができなかったのだろうか。


とある。


宗太もまた水野のようにクールで孤独を抱えていた少年だったのだろう。


しかし水野にあって宗太になかったもの。

それは「洋子」ではない。

運命なのではあるまいか。




2010年4月3日読了


次は…考え中

※このブログについて…追記しました。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。