丹野清志の『散歩写真入門』『コンパクトカメラ撮影事典』を図書館から借りて来て読んだ。
ぶらパチ図書館 散歩写真の創始者?!、丹野清志「散歩写真入門」で、ヘムレンさんという散歩写真の達人が紹介しているのを見て、これはぜひ読んでみたいと思った本だ。 ちなみに、このヘムレンさんのぶらパチ写真館は、見応えがある。仕事柄なのだろうが、世界中を旅されていて、その土地土地でのスナップが掲載されている。散歩写真、というにはちょっと贅沢な感じだが、てらいの無い素直な写真で好感が持てる。
さて丹野清志だが、この2冊を読んでいると、彼の考え方が良く伝わってくる。堅苦しい写真は嫌だといいながら、その散歩写真への思い入れ、その背後にある現代プロフェッショナルフォトへの反骨精神はかなり頑固だ。多少、意固地とすら感じるほどだ。
文体はかなり古くさい。1992年と1996年の本だからというのもあるし、体現止めやオノマトペを平気で使うあたり、彼の繕いの無い人柄は感じられるが、文章としてはあまりほめられたものでない。ただ、そういった表面的な見た目の奥に、見えてくる。
カメラマンを職業としているだけあって、散歩写真への思い入れは、我々素人のそれとは違って、彼の生き方そのものに深く関わっている。いかに生きるかと、いかに撮るかが、一体化している。
以前、読んだ『散歩写真のすすめ』(樋口聡)での物足りなさが、ずーっと尾を引いていた。あれを読んだ時に何が物足りないのか、良くわからなかった。丹野 氏の『散歩写真入門』も、樋口氏の書の中でも軽く引用されてはいる。その物足りなさが、自分の中にこだまして、これらの本にたどり着いたのだとも言える。 そういう意味では、あの本を読んだ事にも意味はあったんだな。自分の中に疑問を沸き起こさせる本、そういう本も大事だ。
樋口氏は、「散歩写真もいいじゃないか」と言っている。丹野氏は心の中で「散歩写真がいいんだ」「自分には散歩写真しかない」と言っている。樋口氏はお洒 落でかっこいい。丹野氏はどろ臭く、かっこわるい。樋口氏は散歩と一緒に写真撮影をすることの有用性を語る。わかりやすい楽しみに結びつけて語る。丹野氏 は、フォトコレクションなどの、楽しみに結びつける事も書かないではないが、本音は、単に写真を撮るのが楽しくて仕方が無い。カメラを媒介として世界と触 れ合う事が楽しくて、もうどうしようもない。
樋口氏の本の冒頭に彼の書いた散歩写真の定義がある。
対して、『コンパクトカメラ撮影事典』の中に丹野氏の次のことばがある。
樋口氏の文を読んだ時に、「まなざしを残して」どうするの?、と感じた。彼は直接それに答えるのではなく、フォトエッセイ、自分史、見せてもらって批評をもらう、フォトコンテストに応募する、といった、撮影以外のわかりやすい有利性の方で価値を与えようとする。
これに対して、丹野氏は何度もフォトコンテスト型の写真を批判している。写真に一軸の上下があるという思想自体に疑問を呈している。写真の楽しみの第一は、誰かに写真を褒めてもらう事ではない。写真行為自体が楽しいのだ。
この考えを端的に表しているのが、「人生の楽しさを感じとる」という言葉だ。散歩写真で主に用いるのはコンパクトカメラだが、それを使う目的は何かという と、人生の楽しさを感じとることなのだ。人生はそれそのもので楽しい、その楽しさを豊かに感じとること、それが散歩写真の目的である。 撮影した写真を何かに使って楽しむ、もちろんそれはあっていい、でも、それは二の次だ。
丹野氏の別の言葉がある。
同感だ。散歩写真とりたくなってきた。新しいカメラも欲しいなぁ。
ぶらパチ図書館 散歩写真の創始者?!、丹野清志「散歩写真入門」で、ヘムレンさんという散歩写真の達人が紹介しているのを見て、これはぜひ読んでみたいと思った本だ。 ちなみに、このヘムレンさんのぶらパチ写真館は、見応えがある。仕事柄なのだろうが、世界中を旅されていて、その土地土地でのスナップが掲載されている。散歩写真、というにはちょっと贅沢な感じだが、てらいの無い素直な写真で好感が持てる。
さて丹野清志だが、この2冊を読んでいると、彼の考え方が良く伝わってくる。堅苦しい写真は嫌だといいながら、その散歩写真への思い入れ、その背後にある現代プロフェッショナルフォトへの反骨精神はかなり頑固だ。多少、意固地とすら感じるほどだ。
文体はかなり古くさい。1992年と1996年の本だからというのもあるし、体現止めやオノマトペを平気で使うあたり、彼の繕いの無い人柄は感じられるが、文章としてはあまりほめられたものでない。ただ、そういった表面的な見た目の奥に、見えてくる。
カメラマンを職業としているだけあって、散歩写真への思い入れは、我々素人のそれとは違って、彼の生き方そのものに深く関わっている。いかに生きるかと、いかに撮るかが、一体化している。
以前、読んだ『散歩写真のすすめ』(樋口聡)での物足りなさが、ずーっと尾を引いていた。あれを読んだ時に何が物足りないのか、良くわからなかった。丹野 氏の『散歩写真入門』も、樋口氏の書の中でも軽く引用されてはいる。その物足りなさが、自分の中にこだまして、これらの本にたどり着いたのだとも言える。 そういう意味では、あの本を読んだ事にも意味はあったんだな。自分の中に疑問を沸き起こさせる本、そういう本も大事だ。
樋口氏は、「散歩写真もいいじゃないか」と言っている。丹野氏は心の中で「散歩写真がいいんだ」「自分には散歩写真しかない」と言っている。樋口氏はお洒 落でかっこいい。丹野氏はどろ臭く、かっこわるい。樋口氏は散歩と一緒に写真撮影をすることの有用性を語る。わかりやすい楽しみに結びつけて語る。丹野氏 は、フォトコレクションなどの、楽しみに結びつける事も書かないではないが、本音は、単に写真を撮るのが楽しくて仕方が無い。カメラを媒介として世界と触 れ合う事が楽しくて、もうどうしようもない。
樋口氏の本の冒頭に彼の書いた散歩写真の定義がある。
散歩写真とは、身辺の日常的断面を切り取り、自分のまなざしを残す行為である。
対して、『コンパクトカメラ撮影事典』の中に丹野氏の次のことばがある。
コンパクトカメラは、人生の楽しさを感じとる機械だ。
樋口氏の文を読んだ時に、「まなざしを残して」どうするの?、と感じた。彼は直接それに答えるのではなく、フォトエッセイ、自分史、見せてもらって批評をもらう、フォトコンテストに応募する、といった、撮影以外のわかりやすい有利性の方で価値を与えようとする。
これに対して、丹野氏は何度もフォトコンテスト型の写真を批判している。写真に一軸の上下があるという思想自体に疑問を呈している。写真の楽しみの第一は、誰かに写真を褒めてもらう事ではない。写真行為自体が楽しいのだ。
この考えを端的に表しているのが、「人生の楽しさを感じとる」という言葉だ。散歩写真で主に用いるのはコンパクトカメラだが、それを使う目的は何かという と、人生の楽しさを感じとることなのだ。人生はそれそのもので楽しい、その楽しさを豊かに感じとること、それが散歩写真の目的である。 撮影した写真を何かに使って楽しむ、もちろんそれはあっていい、でも、それは二の次だ。
丹野氏の別の言葉がある。
ぼくにとっては、写真よりも記事よりも人びととの出会いの時間の中で体で感じたことのほうが大切なのである。(中略)
いい話が、いい時間が、写真に写り込んでいればそれだけで嬉しいのである。
いい話が、いい時間が、写真に写り込んでいればそれだけで嬉しいのである。
同感だ。散歩写真とりたくなってきた。新しいカメラも欲しいなぁ。