春が来ている。オースティンの短い春が。日本での三寒四温のように、雨が続いた一週間の後に、ピンクの花が咲き始めるほどの暖かさが戻ってくる。ママから実家の庭のほころび始めた、そしてお母さんからバスツアーで観に行った梅の花の写真が携帯から送られてくる。「梅の花が咲き始めました。」「桜のつぼみが大きくなってきました。」「桜前線が北上してきました。」なんていう言葉から、以前ママとふと思い立ったように観に行った池上梅園の見事な梅の花を、かりんと会社帰りにいそいそと観に行った闇に真っ白に浮かび上がる外堀の夜桜を、交替休にデパートの地下でお弁当を買いピクニック気分で観に行った新宿御苑の桜を鮮明に思いだし、日本の春の訪れを遠くにいながらも感じることが出来る。梅や桜の開花は日本人にとっては特別な情緒を持っている。花自体の美しさに、寒かった冬の後のご褒美として更なる付加価値も付いてくるから、特別に輪をかける。私も「梅の花が咲き始めましたよ。」「桜の花がほころび始めました。」なんて言う季節の便りを皆に出したい。
毎年毎年、まだ肌寒いうちにほころび始めるピンクの小花を咲かせる木が、私のサンハーベストへの隠れ抜け道にある。小さな木に、可愛らしい鮮やかなピンクの花を咲かせる。毎年「あっ、あのピンクの花が咲き始めている!」と、毎日通る抜け道を通り気付き、「哲、あのピンクの花が咲き始めたよ。」と嬉しげに報告する。もう3回目の春になっても、ピンクの花は名無しのゴンベェのままだ。アメリカ人にとっては日本の梅や桜のように春を告げる代表花なのかもしれないけれど、何という名前なのかは、取りたててそれを聞くチャンスを作っていないから分からないままでいて、いつまでたっても「あのピンクの花」どまりだ。だから、ママやお母さんにも、梅の花の写真を送ってくれた返答に、「こちらでも、梅のような小さなピンクの花が咲き始めました。」と毎年、書くことになってしまう。今年こそは、ピンクの花の名前を知り、その名前が私のアメリカでの“春”と結び付くようにしたい。そして、毎年「~が咲き始めました。」とアメリカの春の訪れを皆に告げたい。
バス停のベンチに座り、夏はたくさんの葉をつけて陽射しを作ってくれる、今は裸ん坊の木を見上げる。木の芽はまだ膨らんでいない。頭を真上に上げベンチに座っている私を、「何見ているんだろう?」と物珍しそうに前を通る人が見て行った。季節が毎日変わっていく様子を見逃しまいと私は毎日空に向かって伸びる裸ん坊の木を凝りもせず見上げることだろう。
毎年毎年、まだ肌寒いうちにほころび始めるピンクの小花を咲かせる木が、私のサンハーベストへの隠れ抜け道にある。小さな木に、可愛らしい鮮やかなピンクの花を咲かせる。毎年「あっ、あのピンクの花が咲き始めている!」と、毎日通る抜け道を通り気付き、「哲、あのピンクの花が咲き始めたよ。」と嬉しげに報告する。もう3回目の春になっても、ピンクの花は名無しのゴンベェのままだ。アメリカ人にとっては日本の梅や桜のように春を告げる代表花なのかもしれないけれど、何という名前なのかは、取りたててそれを聞くチャンスを作っていないから分からないままでいて、いつまでたっても「あのピンクの花」どまりだ。だから、ママやお母さんにも、梅の花の写真を送ってくれた返答に、「こちらでも、梅のような小さなピンクの花が咲き始めました。」と毎年、書くことになってしまう。今年こそは、ピンクの花の名前を知り、その名前が私のアメリカでの“春”と結び付くようにしたい。そして、毎年「~が咲き始めました。」とアメリカの春の訪れを皆に告げたい。
バス停のベンチに座り、夏はたくさんの葉をつけて陽射しを作ってくれる、今は裸ん坊の木を見上げる。木の芽はまだ膨らんでいない。頭を真上に上げベンチに座っている私を、「何見ているんだろう?」と物珍しそうに前を通る人が見て行った。季節が毎日変わっていく様子を見逃しまいと私は毎日空に向かって伸びる裸ん坊の木を凝りもせず見上げることだろう。