オースティン日記

オースティンでの日々の日記。毎日感じた事を記します。

ピンクの小花。

2006-02-28 10:36:34 | Weblog
春が来ている。オースティンの短い春が。日本での三寒四温のように、雨が続いた一週間の後に、ピンクの花が咲き始めるほどの暖かさが戻ってくる。ママから実家の庭のほころび始めた、そしてお母さんからバスツアーで観に行った梅の花の写真が携帯から送られてくる。「梅の花が咲き始めました。」「桜のつぼみが大きくなってきました。」「桜前線が北上してきました。」なんていう言葉から、以前ママとふと思い立ったように観に行った池上梅園の見事な梅の花を、かりんと会社帰りにいそいそと観に行った闇に真っ白に浮かび上がる外堀の夜桜を、交替休にデパートの地下でお弁当を買いピクニック気分で観に行った新宿御苑の桜を鮮明に思いだし、日本の春の訪れを遠くにいながらも感じることが出来る。梅や桜の開花は日本人にとっては特別な情緒を持っている。花自体の美しさに、寒かった冬の後のご褒美として更なる付加価値も付いてくるから、特別に輪をかける。私も「梅の花が咲き始めましたよ。」「桜の花がほころび始めました。」なんて言う季節の便りを皆に出したい。
毎年毎年、まだ肌寒いうちにほころび始めるピンクの小花を咲かせる木が、私のサンハーベストへの隠れ抜け道にある。小さな木に、可愛らしい鮮やかなピンクの花を咲かせる。毎年「あっ、あのピンクの花が咲き始めている!」と、毎日通る抜け道を通り気付き、「哲、あのピンクの花が咲き始めたよ。」と嬉しげに報告する。もう3回目の春になっても、ピンクの花は名無しのゴンベェのままだ。アメリカ人にとっては日本の梅や桜のように春を告げる代表花なのかもしれないけれど、何という名前なのかは、取りたててそれを聞くチャンスを作っていないから分からないままでいて、いつまでたっても「あのピンクの花」どまりだ。だから、ママやお母さんにも、梅の花の写真を送ってくれた返答に、「こちらでも、梅のような小さなピンクの花が咲き始めました。」と毎年、書くことになってしまう。今年こそは、ピンクの花の名前を知り、その名前が私のアメリカでの“春”と結び付くようにしたい。そして、毎年「~が咲き始めました。」とアメリカの春の訪れを皆に告げたい。
バス停のベンチに座り、夏はたくさんの葉をつけて陽射しを作ってくれる、今は裸ん坊の木を見上げる。木の芽はまだ膨らんでいない。頭を真上に上げベンチに座っている私を、「何見ているんだろう?」と物珍しそうに前を通る人が見て行った。季節が毎日変わっていく様子を見逃しまいと私は毎日空に向かって伸びる裸ん坊の木を凝りもせず見上げることだろう。


お洋服達。

2006-02-26 10:43:51 | Weblog
日本からワシントンDC、DCからチリ、チリからオースティン。引越しをする度に荷物をダンボールに入れ、大移動。日本を発って8年余りが過ぎ、その8年間1度も使われずに、着られずに、ただ大人しく移動だけしている物達がある。捨てるに捨てられないから、とりあえずまたどこかへ運ばれていく。
「もったいないなぁ。絶対に着ないけど、捨てられないし。」そんな私の目にバスの窓からガソリンスタンドに置いてあった「ドネイション(寄付)BOX」なるものがとまった。「これだ!」
私は着ない服達を紙袋に詰めた。哲に言ったら「もったいない。売れないの?」と言うけれど、そうこうしている内にまた時間が過ぎ、もしかしたらそれをもらって助かる人がいるかもしれないチャンスを見逃したくない。使われなくても良い。少なくとも自分よりもそれを必要としている人に届く確率があれば、ドネイションしがいがある。
箱の入り口についている重いバーを下に下ろすと、スペースが出来、物を箱の中に放りこめるようになっている。「さようなら、私のお洋服。誰かが嬉しく受け取れますように。」私の服を着られるアメリカ人はきっと子供くらいしかいないだろう。8年間、ずっと着られずにいたお洋服達が旅立っていく様子を見て、何だか肩の荷が下り、すっきりした。



4分、4年。

2006-02-24 10:39:52 | Weblog
人が何かを頑張っている様子を見るのは、見ていて本当に気持ちが良い。だから、スポーツを見るのは好きだ。そして、日本人が頑張っているのを見るのはもっと気持ちが良い。ほんの昨日まで私の頭の中にはその名前さえも存在しなかった「SHIZUKA ARAKAWA」は、今や私の頭の中にすっかりと入りこみ、私に元気と興奮と感動を与えてくれる。それにしても、本当に良かったね。金メダルなんてすごいね。アメリカでも一番の注目競技だったフィギュアスケートで、日本人が堂々と金メダルなんて、本当に誇らしい。
アメリカのオリンピック中継は日本のそれとはちょっと違う。青い目をした大御所のアナウンサーが番組を引っ張っていくけれど、日本の事実を伝えるだけのニュースや中継とは違い、このアナウンサーは自分の意見をずばずば言ったりするから、「そんなこと言っちゃって良いの?!」と、ニュースはニュートラルなものだと思っている私はドキドキしてしまう。そして、番組の最後にはいつも決まって何ともドラマティックな台詞で締めくくる。
感動の女子フィギュアスケートの中継の後、彼は言った。「日曜日は毎週やって来る。2月は毎年やってくる。誕生日、サンクスギビング、クリスマスも毎年やって来る。だけど、このルールからはずれている物がある。選手達は氷上のたった4分のために、4年間の努力を凝縮させる。この4分で全てが決まる。この4分でまた先の4年間を見なくてはならない。この4分で止めるか、進むか決める。4分で過去の4年間の努力が無駄になるかもしれない。4分で…」そう言って、青い目の毎日見ているのに名前も覚えていないアナウンサーは今日の中継を締めくくった。
そうかぁ、選手達の中にはそういう考えを持っていない者もいるかもしれないけれど、オリンピックでのメダルだけを目標にしている選手は、それぞれの競技の瞬間がまさに人生の全てなんだ。4年は長いよね。その間、毎日毎日出場出来るかも分からない試合に向けて、血と汗滲む努力を積み重ねていくんだ。並大抵の精神の持ち主では出来ないことだ。それに比べたら、私の目指しているものは、何とも“おいしい話”なんだろう。十分長いと思っている博士課程の3年間、もちろん私は一人前のセラピストになるために、勉強し努力する。でも、頑張った分だけ、報いが来る。頑張れば一人前のセラピストになれて、その後夢であったセラピストとしての人生が始まるんだ。3年間頑張れば、その後の30年は補償はされないまでも、「無駄」になることは決してない。オリンピック選手だって、4年の頑張りが何らかの形で自分に残り、“無駄”にすることはないと思うけれど、オリンピックだけを目指している選手にとっては、出場できるか出来ないかが自己評価をする大きな指標になるんだ。私は3年頑張って、一人前のセラピストになれたら、自分にハナマルをあげる。絶対にその日は来ると信じている。
4分だけの勝負。私には出来ないなぁ。夏のオリンピックにしても冬のオリンピックにしても、毎回観る度に「いいなぁ、私もオリンピックに出たいなぁ。なんの競技なら出られるだろう?」と真剣に考えたりする私だけど、例え素質があったとしても、私にはそんな度胸はないんだろうなぁ。私はスケート靴もスキー板も付けず、セラピストとして頑張っていこう!3年間の頑張りでその後の人生を豊かにするために。

レインチェック。

2006-02-15 14:23:46 | Weblog
私はブロッコリが大好きだ。ブロッコリならいくらでも食べられる。お弁当にもたくさん入れる。毎日ブロッコリを食べる様子を見て、「良く毎日そんなにたくさん食べられるね。」と誰もが驚くほどの量を食べる。だから我が家の冷蔵庫にはいつでもブロッコリが入っている。
このところ、オーガニック(有機栽培)のブロッコリが高い。とても手の出る値段ではない。比較的安い時は1パウンド(450グラムくらい)1.99ドルだったのに、今じゃ1パウンド3.99ドルだ。さすがにブロッコリを買うのを諦める日々が続いていた。ところが、我がサンハーベストで今週なんとブロッコリが1パウンド99セントだという宣伝が入った。破格だ。今まで見たことのないこの値付けに私はブロッコリ買いだめ作戦に入った。
毎日ブロッコリを買っては毎日固ゆでし冷凍する。ジップロックにたくさんのブロッコリが冷凍されるのを見ては安心した。水曜日から始まり水曜日で終わる一週間の安売りも今日でお終い。だから、今日授業がない哲に「最後にたくさんブロッコリ買っておいてぇ。」とサンハーベストでのお買い物をお願いした。
ところが、哲がサンハーベストに行くとブロッコリは棚にはなかった。哲は私ががっかりするのが分かってか、諦めずにお店の人に、明らかに品切れと分かるブロッコリの棚を指し「オーガニックのブロッコリはないんですか?」と聞いてくれた。ありがとう、哲。そして、哲はレインチェックをもらった。
レインチェック。これはなんとも消費者にとって便利なものだ。寛大なアメリカの側面が、面倒くさがりのアメリカの側面に勝ってくれた。日本語で言うと「品切れ特売品後日購買券」。これはバーゲンセールなどで商品が品切れになった時などに出してくれる引換券や次の機会に同じ条件で買える予約券だ。日常会話では、「今日どこか行かない?」と人に誘われたのに用事が入っていて断らなければならないときなどにも「レインチェックにしておいて。」と“次回にまた誘って”というかわりに言ったりする。そんなレインチェックは、冷蔵庫も冷凍庫の中もすでにブロッコリの緑だらけの我が家にはもってこいのおいしいオファーだ。つまりは私達が必要な時に、1パウンド99セントでブロッコリが買える権利をもらったのだ。「何パウンド買う予定?」と聞かれ、哲は「3パウンド。」と言ってくれたから3パウンド以上(1.5キロ以上)買えば良いらしい。
学校から戻った私に哲は誇らしげに、嬉しそうに、始めて書いてもらったレインチェックを見せた。レインチェック、なんとも便利なシステムだ。よし、ブロッコリをたくさん食べるぞ!

私の後悔。

2006-02-14 14:22:15 | Weblog
後悔なんてしても始まらない。だから、後悔はしないようにしている。過去の行動が自分の現在に悪く影響する場合は、自分がその迷惑をこうむるだけだからまだ良い。でも、自分の過去の行動が、自分だけではなくて、自分も含めもっと大きな枠の中に入る集団に影響するとなると、やっぱり後悔せずに入られない。
そんな後悔が私にはある。“日本史七つの謎上下”を読み終わった私の次なるベッドタイム書物は「日本の三大宗教」だ。宗教はこれまたアメリカ人やチリ人に、何度となく質問されるトップカテゴリーの一つだ。「日本の宗教は?」「サチコは何を信じてるの?」「神様はいるの?」「神社って何?」「鳥居って何?」「仏教と神道は何が違うの?」そんな質問達に自信を持って答えられた試しが情けないことにない。曖昧に返しただけならばまだ良いけれど、私は間違った情報を“日本人”として外人に広めていた。それが私の“後悔”だ。
日本人は良く「無宗教」と言われる。特に神様がいないと。私も外人に「日本の宗教は?サチコの宗教は?」と聞かれると「日本は、神道、仏教が主流だけど、私はNO RELIGIONなんだ。でも、神様は信じているよ。」と答える。すると、私に質問をした外人は「NO RELIGION?!でも、神様は信じているんだぁ。」と理解不能と言う感じで返してくる。私のように答える日本人は多分たくさんいるんだと思う。そして、私はそれで正しいと思っていた。
まず、外人が驚くのも無理はない。「GOD」という言葉は英語では「=イエス様」だ。「GOD」という言葉を日本語に訳す時に「神様」ともっと広い意味で訳してしまったのがそもそも最大の間違いだと言われている。だから、私が「宗教はないけどGODを信じている。」と言えば「どうして宗教はないのにイエス様を信じているんだろう。」と理解不能に陥るのは当然だ。だから、この「GOD」という言葉を「神様」の意味で使ってしまっていたことがまず“後悔”だ。私はいつでも神様を信じている。私の神様はいろいろな所にいる。自然の中だったり、おばぁちゃんだったり、子供のような表現で情けないけれど天国にいる偉い人を漠然とイメージしたり。他の日本人もそうだと思う。だから、「GOD」に変わる「八百万の神、先祖の神様」なる言葉を、私の頭の中の辞書に入れなくてはならない。次に外人に聞かれたときにすんなりと出てくるように。
もう一つの“間違い情報提供後悔”は私は強く宗教を信じていたと言うことだ。だって、こんなにも神様の存在を信じているということはそれは立派な宗教になるんじゃないのかなぁ。しかも、日本独自の「神道・仏教・儒教融合」伝統儀式をアメリカにいても律儀に行っているじゃない!儒教の礼義に始まって、お正月、初詣、お雑煮、お守り、お墓参り、節分、ひな祭り、厄除け、お盆。子供の時にはたくさんのお祭りに行った。最後にもらえるお菓子が目当てとは言うものの、お神輿を担ぎ山車を引いた。それに結婚式だって三三九度の杯を交わしたじゃない。「今日は冬至だから、カボチャを食べなさい。ゆず湯に入りなさい。」とママから電話で言われると「ハイハイ。」とさすがにゆず湯は出来ないまでも、西洋カボチャを食べたりする。おばぁちゃんと一緒に住んでいた時は、生理の時にお風呂に入る前は“塩”を撒いてお風呂を清めた。いつの頃からか失ってしまったこの習慣を、年末ママと話していた時にふと思い出した。よっぽど「ワタシハ、クリスチャンデス。」と言っておきながら、クリスマスプレゼント交換くらいしかしない若者アメリカ人よりも、神道・仏教・儒教を私は信じ行動に起こしていたと思う。
今まで「無宗教です。」と言う時に、あたかもそれが悪いことかのように小さな声で申し訳なさそうに答えていた私だけど、これからは胸を張って、「神道と仏教、それに儒教です!」と答え、どうして3つの宗教を持つことができるのかも説明してあげよう。「日本人は無宗教。」という間違った情報をアメリカ一部とチリ一部にばら撒いてしまった。日本よ、ごめんなさい。これから誤解を解くように説明できるようにしておきます。