神社の世紀

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日置神社(長野県生坂村)と太陽の船

2011年02月07日 08時01分51秒 | 日置氏、日置神社

 「日置」には「へき」という訓がほどこされることもあるが、ほんらいは「ひおき」で、太陽の滞空時間を延長することで穀物の実りを豊かにする祭祀、「日招オき」のこととされる。日置氏はこの「日招き」の祭祀にたずさわった古代氏族で、彼らによる太陽祭祀の遺跡が日置神社であった、── どこまで定説なのかはともかく、こういった言説は「日置」というキーワードの周辺で絶えず反復される。

 ところが、全国に「日置神社」という式内社は7社あるものの、祭神とか社伝によって上代に太陽が祭祀されていたことが確認できるようなケースはほとんどない。また、私はこの7社のほとんどを参詣しているが、じっさいに現地を訪れたときも太陽を祭祀する自然信仰がそこで行われていたということはあまり実感されなかった。ただ、長野県東筑摩郡生坂村大字北陸郷字日岐の日置神社を訪れた際、境内で非常に興味深いものを見つけた。

長野県生坂村の日置神社

 この神社、神名帳の信濃国更級郡に登載されている日置神社の有力な論社で(もう一つの論社は、長野市信州新町大字日原にある。)、社伝によれば応神天皇の皇子、大山奉行尊の子孫である「日置部眞木己利」という人物が日岐之郷に来て祭祀したという。

社頭風景

境内の様子

簡素な社殿

ふきんの犀峡
当社は犀川右岸の崖上に鎮座している。
北アルプスの槍ヶ岳に源流を発するこの川は
生坂村内では幾重にも蛇行して流れるが、
その間、鋭角的な山並みが迫る渓谷美は犀峡と呼ばれる。
日置神社は犀峡の真っ直中にあり、社殿等の施設は比較的簡素だが、
ふきんの景観は山水図を思わせてなかなか印象的。

 祭神は平成祭りデータによると「彦火火出見尊、天照皇大神、菅原道真」だが、当社が式内・日置神社であった場合、創祀の頃からこれらの祭神が祀られていたかどうかは疑問である(菅原道真は明治四十二年に神社合併令で合祀されるまでふきんで祀られていた天神社の祭神であろう。)。

 しかし境内にあった土蔵の軒下で、下画像のようなマークを見つけた

 このマークはおそらく当社の神紋だろうが、色々な意味で興味深い。

 興味深いことの第一としてまず、太陽を乗せた船の航行がシンボライズされており、当社の信仰に太陽へのそれがあったことを感じさせるということが挙げられる。「日置神社」と言えば、さっきも言ったとおり、日置氏による太陽祭祀の遺跡だったという説がかなり流通しているが、そのことが確認できる珍しいケースではないか。

 いっぽう、太陽が船に乗って描かれている、というのも神話学的に言ってかなり興味深い。

 太陽が船に乗って天空を巡るという観念は、エジプトの太陽神ラーをはじめ世界中に見られるものだが、古代のわが国にも同じような神話的思考があったことは、福岡県うきは市吉井町富永にある屋形古墳群の、珍敷塚メズラシヅカ古墳や鳥船塚古墳の装飾壁画によってわかる。下画像は鳥船塚古墳の玄室奥壁にある壁画だ(実物は赤の顔料で描かれている。)

鳥船塚古墳の玄室奥壁にある壁画。
太陽を表す同心円の下に人物の乗る船があり、
船体の両端は反り返っていて、それぞれに鳥が留まっている。
同じような図像表現はやはり屋形古墳群にある
珍敷塚古墳の壁画にも見られる。

これらの壁画にはさまざまな解釈があるが、
死・太陽・船・鳥がセットになった
神話的思考の産物であることは確実で、
東南アジアのドンソン文化が残した銅鼓の模様などと
通底するものを感じさせる。

 ここで興味深いのは、生坂村の日置神社の神紋にある船は両端が反り返っており、鳥船塚古墳にある壁画の船と形態がよく似ているということだ。たんなる偶然だろうか。あるいは古代の神話的イメージが信濃の山村で奇跡的に残り続け、それがこの神紋に影響を与えているのだろうか。ちなみに珍敷塚古墳の壁画が発見されたのは昭和25年で、鳥船塚古墳の壁画はさらに後で発見された。いっぽう、神紋がついているのは古めかしい土蔵なので、この神紋が屋形古墳群の壁画から影響を受けた可能性は少ないだろう。

 また、このマークにある水面は当社の下を流れる犀川のものだろうか。

 同じ信濃の国にある佐久郡の式内社、大伴神社には『御牧望月大伴神社記』という社記があって、その中に父神から海原を支配するように命じられた祭神の月読尊が、さらに竜馬に乗って国中の河や渓を見回り、やがて千曲川をさかのぼって今の地に鎮座したという伝承が登載されている

信濃国佐久郡の式内社、大伴神社、
長野県佐久市望月にある。

祭神は大伴氏の祖である天忍日命のほか、
月読尊や須佐之男命ら

大伴神社(丘の上の森)ふきんを流れる千曲川の支流、鹿曲川
月読尊は海から竜馬に乗ってこの川を遡ってきたという。

 

 犀川も千曲川水系(信濃川水系)である。となると、あるいは日置神社にも日神が船に乗ってこの川を遡上し、現在地に鎮座したという伝承があったかもしれない。日置部眞木己利という人物が日岐郷に来訪して日置神社を創祀したという社伝も、こうした伝承の残滓だった可能性がある。

 さらにまた、祭神が犀川を遡って鎮座した場合、当社の信仰のルーツは日本海側に求められるのではなかろうか。「日置神社」という式内社7社のうち、4社までが若狭・加賀・越中・但馬と、日本海側に多いこともこうした推測と合致する(あとの3社は信濃の当社のほか、尾張と近江にある。)。

 近くで農作業をしていた人に、この神紋について何か知らないかと聞いたが、「昔からあの土蔵についているが、詳しいことは分からない。もっと年輩の人なら何か知っているかもしれない。ただ、日置神社というのは太陽に関係があるらしいから、そのことに関係があるのではないか。」というような返事が返ってきた。

 機会があればこの神紋についてもっと情報を集めてみたい

 

 


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