ファミリー メンタル クリニック

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要するにひとりごと・・・

女王の教室から考えたこと 1 超自我

2005年09月21日 | 児童精神医学
「女王の教室」を見て精神医学の臨床面から何回かに分けて気ままに、思い付いたままblogに書いていきます。
もちろん毎回ビデオに撮って見るようなことは無かったので、記憶をたよりにしていきます。blogでは児童精神医学のカテゴリーで続けます。

最終回が皆さん記憶に残っていると思うので,そこから。

阿久津先生が休職中,教頭が代わりに授業を行うことになりました。生徒達はボイコットしようと言い出しましたが、主人公の和美ちゃんは、「阿久津先生はどう思うかな」みたいな意見を言い、クラスの皆に思いとどまってもらいました。

 今の社会に欠けているモノです。規範と言えばそうでしょう。
でも内から出てきた規範です。外から押しつけられたものではありません。
超自我というと難しいですが、そのようなものを言っている瞬間です。

よく子どもの言うとおりにしています、という大人がいます。それは少し違うことがあります。(虫歯の例で説明しますが,子どもはお菓子を食べたい,でも歯を磨くのはめんどくさいと泣き叫びます。子どもの自主性を尊重しているのではありませんね。育児を放棄しているのです。)
子どもが道徳的に倫理的にものを判断するときには、モデルが必要なのです。躾と言ってもいいでしょう。
でも暴力によるしつけ、暴力により悪いことをしてはいけないとたたき込んでも、
悪い意味のモデルにはなるかもしれませんが,いつかそれは崩れます。

健全な超自我として機能していないからです。誰も見ていないからいいか・・・そんな風になっていきます。
(東大を出た官僚でも行うのです。ノーパンしゃぶしゃぶって一体何だったのでしょうかね)

でも阿久津先生が1年間教えてきて、子ども達に伝わったモノ、それが内からの規範です。
自分で判断が出来ないときに先生だったらどうするだろう、何て言うだろう、自分の心に聞いている面と、
モデルとなる人の思考行動パターンを確認する面もあるのです。
(犯罪者の人生がどうなるか諭す場面もそれですね)

教育委員会が今回は悪玉でした。生徒へのいじめ、体罰、無理矢理社会の暗い部分を強調しすぎる・・・そんな教師はいけないと言う論理でした。
当事者の生徒から支持されているかどうかは論外なわけです。
けちな道徳ではなく,倫理的な意味では阿久津先生の行動が正しいでしょう。

超自我からコントロールする倫理・・・これが今回blogで言いたいことです。
それは外側から子どもの心の中に入り、自分の中で徐々に形作られていきます。
自分の道徳価値判断、損得いろんな計算や感情が働きます。
そこで超自我機能がコントロールできるかどうかが大切なことです。
ドラマでは悪いことをした生徒にはとことん罰を与えていき、生徒はそれを受け入れていきます。
罰は嫌だと、行動を修正していきます。
それは子どもの頃には重要なことです。
教室でナイフで同級生を刺したり、校外で集団リンチをしても、「悪いことはしていけません」厳重に注意しましたで、いったい何が解決するのでしょうか?
やった生徒の成長を本気で考えているならそんな言葉でお茶を濁そうとしないはずです。

超自我の機能不全は厚生官僚の無駄使いや、収賄事件で証明されます。
あまり難しいことは言いませんが、罰金を高くしたら県内の飲酒運転が(一時的に)減ったと言うようなことも外からの規制と超自我機能のバランス調整といっていいでしょう。

阿久津先生が子ども達に厳しくしていた背景には超自我機能不全を起こすこの国への危機感が強かったからなのでしょう。

「その2 肛門期」に続く

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