成相博昭ブログ

これからを生きる素晴らしい明日へ・・・

コンプライアンスという見識

2007-06-26 14:36:25 | 随想
 松岡元農水相が国会で「法律に従ってやっているので何ら問題はない」と、事務所経費の会計処理に関する答弁をしていたのは記憶に新しい。
 おっしゃるとおり、法律に反していなければ非難されるものではないのだろうか。たとえば法令そのものが、ある一方(特定)の立場の人間に有利なものであったらどうだろう。たとえば、計上された裏付けとなる領収書は不要といった政務調査費等の使途について不適切なものが隠蔽できる不透明さが合法的であるように。大阪府ではこの件、領収書とひきかえに政務調査費を支払う形にするという論議もあるようだが、断言してもいい、つまるところはそのような議決を議会が採択することはなかろう。自らの首を絞めるような既得権や特権を失うことはしないのが日本の政治家だから。
 
 元国家公安庁長官であり広島高検の検事長をつとめた男が詐欺罪の容疑で逮捕された。なにをか言わんやである。マスコミのニュースでのまことに軽い取り上げ方も含めて今の日本は益々異常である。官僚の人事というのは、重大かつ許されざる事件を犯すその程度の人間が大変重要なポストに就いているという現在の横並び年功序列の無責任な体質がある。年功じゃなく正確には年数というべきだが、それはともかく、こういう官僚の制度は、課長級まではポスト対エリート官僚の数が整合しているので問題ない。ところがそれ以上の上位ポストは限られているので、あぶれた官僚は当然のこととして天下りによって立場と待遇を保証されて当然と公言してはばからない。このしくみこそが官製談合を生む必然の構造を作っていることは、併せて深刻な状況である。官僚にとっては抜け道だらけの国家公務員法の可決が選挙前の駆け込みでなされたからといって、この法案の草稿そのものが官僚自らの手によって作られ、それを政府与党が数の論理で強行採決している様を見ている国民は、安心し納得するほどおバカではない。はず・・・・。7月の参議院選挙の結果で国民はおバカか、そうでないかは判明する。
 この件で安倍総理は記者団に対して、涼やかな表情でこう発言していた。「審議を尽くし」「民主主義のルールに従って」国会で正式に可決された。と・・・・。
 「民主主義のルールに従って」という発言は、現在の採決方式は『多数決による』訳だから、そういう表現は間違いではない。しかし、「審議を尽くし」に至っては、あの委員会での議事運営は果たして審議を行っているものであったか。ましてや「やり尽くした」といえるものだったか。
 国民に向かって、政治とはこういうものだよ、政治家は「寄らば大樹の陰」なんだよ、といわんばかりの傲慢な姿勢を通して国民へ不信感や無力感を生んでいる。

 そもそも、コンプライアンスということばが「法令遵守」という部分に限ってのみ用いられることは、あまりに人間としての知性や見識に欠ける。いかに法令やルール、規則・規程にかなっていても、『人間社会に対して、不利益や迷惑となるような行為をしない』という意味こそが「コンプライアンス」なのである。
 こう考えると、「人間社会」という概念を「官僚社会」「政治家社会」「わが社」と置き換えられた各種法案や条例はたまた組織通達等そのものがコンプライアンスに抵触するという発想こそが良識と言うもの。
 ついでながら、このところの地裁・高裁・最高裁判決、さらには弁護団の弁護そのものに大きな違和感を覚えるケースが目立つと感じるのは私だけなのだろうか。 
 
 

「現場」の重みを知るリーダーシップ

2007-06-20 15:24:08 | 随想
 『知識は本の中にはない』
 『ナレッジマネジメントの本質は、一人ひとりが持っている情報をコンピューターに落とし込んで使うものではなく、情報には、意味が加わって初めて「知識」となり、役立つものである。知識というものは人間にくっついているものであり、その根本を間違うとデータばかりが増えて、何の役にも立たなくなる』
 『優れた軍隊の指揮者は、現場からのりポートに依存することなく、自分で現場に出かけて行き、自分の目で見る』
 『リーダーは、<自分は何をしたいか>との問いから物事を始めてはならない。<この場でいかなるニーズを満たすべきか><何に対して貢献することが要求されているのか><どこへ、どういう形で寄与したらよいのか>という問いからスタートせよ』
 これらは、5年前に95歳で他界された経営学者・未来学者・経済学者・哲学者であったピーター・ドラッカー博士が残された膨大な名言の中からほんの一部を拾い出したものである。もっとも、博士は尤もらしく金言や格言となることを予想して語られたものではなく、あまたの講演や著作の中で述べておられる言葉の一部であって、正確にはこのような言葉で語られた具体的な背景や意味の解説が必要なのだが、乱暴を承知で、あえて言葉のみを羅列してみた。
 
 博士を畏敬してやまない理由は幾つもあるが、中でも特に学者然とした生き方をとられなかったことである。常に実践に基づき理論や思想を創造し、提言を続けてこられたことである。だから実務的で、時に社会を大きく前進させる革新が含まれていた。私自身、60半ばに達したこれまでに、博士の思想・理念・理論や未来へ向けた提言の数々にどれだけ大きな示唆や指針をもらったかは計り知れない。

 未熟な私の20代半ば、某研究所の所員として研修や講演に明け暮れる日々から、ある会社のチェーン本部でチェーンシステムを構築する仕事に転身したのが第一のターニングポイント。40代初めにようやく本部機能と人材の基盤を作ることができたと判断し、我が身が惰性に陥るを怖れ組織を離れて、一匹狼で生きる道へ進路を取ったのが第二のターニングポイント。それからの50代までは仕事の実績と個人としての信用を築くため睡眠時間を削りながらの無我夢中の日々。子どももそれぞれ独り立ちし、夫婦が還暦を過ぎて二人(愛犬ラブも一緒に)して新しい挑戦をと、但馬に移住したのが第三のターニングポイント。
 三つのターニングポイントを越えたいずれのプロセスにおいても、冒頭にある言葉のごとくに、「現場と実践」を前提にしてきたという自負はある。会社組織でのそれは、全国くまなく最前線で働き業を営む顧客と社員との対話・傾聴という形を積み上げて構想し、しくみをを設計したことである。これはまた別の機会に詳述したい。単身独立してからのそれは、専業主婦だけに飽き足らない妻の社会的自立実現のための支援事業と、若い潜在力溢れる人々への自立支援事業を自己開発研究センターの実践現場として併設したことである。第三のターニングポイントとなる三年前からの挑戦こそ「現場と実践」の集大成として、妻との二人三脚で、コミュニティビジネスを核に置いた、いわゆる衰退構図がささやかれる「地方」の元気づくりに目下悪戦苦闘中なのである。今後折に触れ、この体験に基づくリアルタイムな人間のドキュメントを通したエッセンスの数々をライブでご紹介する心づもりでいる。

 ところで、冒頭のドラッカー博士のことばを現在の政治家、官僚、一流といわれる企業経営者、はたまた周辺のリーダー的立場の人間に当てはめて愚考を試みようとしたが、なんだかかけ離れすぎていてばからしくさえ思える。「幼児性ならぬ幼稚性」、「現実離れ以前の認識不足」などなどその本質が馬脚を現す。

 富山県警の氷見警察によるえん罪が今朝報道されていた。犯人として服役後に真犯人が自白してえん罪であったことが明らかになったというのである。警察の取り調べによる一方的な犯人づくりの一部始終が当事者から生々しく語られていた。もしこれが真実とすれば、警察による明らかな犯罪である。
 
 たしか刑事コロンボの毎回の犯人検挙は、すべて犯罪現場スタートであり、そこで拾い上げた現象、事象、現物を証拠として立証していくストーリー展開に視聴者は感動した。単に、テレビドラマの作り事と見ない方がよい。

「たるを知る」という節度は社会を豊かにする

2007-06-16 11:45:41 | ちょっといい話
 かつて土光敏夫という人物がいた。そう、かの東芝を立て直した人であり、経団連会長、行政改革臨調会長等要職を努めた知る人ぞ知る大人物である

 この方には伝説が多い。通常、「伝説」といえば、事実と異なるフィクションが多いのだが、この方のそれは事実に裏付けられたエピソードばかりである。大会社の社長でありながら、「めざし」と自宅菜園で獲れた野菜での質素な食事のエピソードや、着古した背広姿、バスや電車を使った通勤姿のエピソードなど、挙げれば数多くのアンビリバボー的伝説がある。これは決して話題づくりや一時の恣意的演出スタイルではない。ご自身の生き様そのものだったのである。

 「個人の生活は質素に、社会は豊かに」というのが土光敏夫(敬称略)の日常口にされた言葉だった。浅はかで思慮のない経済人や政治家はこの言葉尻を捉えて、「国民がこぞって質素な生活をすれば景気が悪くなる」と・・・・。土光敏夫という人は、このとき既に年間所得は5,000万円を超えていた。税金を支払った後に3,500万円余り手元に残ったそうだが、ご自分の手元には5万円だけを残して、あとは全てご母堂が設立された学校(橘学苑)のために寄附しておられたのである。こんな生き方を終生貫かれたのが土光敏夫なのである。今の(当時もそうだが)政治家や企業人や金儲けの得意な人の多くは、この「個人の生活は質素に、社会は豊かに」という深遠な意味がわかる気配すらなく、むしろ「個人の生活を豊かに、社会は質素に(餌食に)」という考えの軸があるかのようである。
 もし、「社会に」よりも、「自分個人の利得に」だけエネルギーが向けられる世の中であればまさに豊かな社会が生まれるべくもないはず。

 東京都が税収の一部を地方に還元するという考えを持っていることが報道されている。その地方では、地方自治協議会の設立など、地域社会を自分らの手で築こうという動きも顕著になってきた。さもしたり顔をして、「格差社会」という大合唱の聞こえる歪んだ風潮にあって、どっこい人々の良識は健在なのだ。

 
 
 
 
   

心のオアシス~癒されるよろこび~

2007-06-07 01:55:41 | ちょっといい話
            栗の花も開花準備中

 庭先の栗の木の若葉が輝いている。3株の丹波栗である。今年もたくさんの蕾がたわわに風に揺れている。秋の収穫が楽しみだ。
 新芽が一斉に伸びている南面を囲むツゲの植え込みが気になっていた。早めに散髪をしないと細やかな枝が太く堅くなってしまい、バリカンの刃を傷めてしまうからである。汗びっしょりになって苅込を終え、枝葉を集めて一輪車で枯れ葉置き場に運ぶ。ドーム型や蒲鉾型、箱形と、少々の虎刈りがあっても自己満足の出来である。自分の頭の散髪を終えた気分より増してさわやかなのだ。心地よい疲労感になぜか心癒される。

 月末から月初めにかけ、仕事で4日半和歌山に滞在した。仕事先のスタッフとは10年ぶりの再会であった。彼はその間別の部門で活躍していたが、この4月に移動で古巣に戻り、和歌山の勤務場所に単身で赴任している。一回り太めになり貫禄は出たが、エネルギッシュな若々しさがちっとも変わっていないのがうれしい。細やかな気配りと阿吽の呼吸で仕事が気持ちよく進められることに、楽しささえ感じられる。気心の通じ合った仕事のパートナーの有り難みを痛感させられる。10年という時間の空白を全く感じない友人とは、仕事をしていても一杯飲みながら語っていても心が癒される大切な時間となる。

 和歌山の居酒屋でこの彼と獲れ獲れヒラメのお造りをこりこり食しつつ、ひよっと顔を上げると、なんと目の前に恰幅の良い「大物友人」がぬっと現れたではないか。実は、毎日彼に連絡を入れようと携帯のボタンを押したかったのだが、めっぽう忙しい中、何としても無理に時間をやり繰ってでも私のために時間をとろうとすることがわかっているので控えていたのである。帰り際に元気な声を聞くだけに止めておこうと考えていた。私の顔を見るなり「いつ和歌山に?」と、にこりともせず問いかけてきた。案の定、「我が庭に来ていながら、連絡もくれないとは水くさいじゃないか」と言わんばかりの非難を含んだ空気がぴりっと伝わってくる。考えてみたら、この店に来たのは「大物友人」に連れられて来て知った店なのである。ここでぱったり会うのも何の不思議もなかったのである。それからの時間は何と愉快で楽しいことか。あっという間に深夜2時になっていた。和歌山のこと、政治・経済の裏話・・・・話の途切れることはない。「またな・・・・」と別れ、ホテルにタクシーを飛ばし、シャワーを浴び、ベッドに横になったのは3時前になっていた。
 
 この日は朝から午後5時15分までの研修で、今回の和歌山最終の日であった。まだアルコールも残り、2日酔いでふらついても不思議ではない。・・・・・・はずが、自分でも不思議なほど身体も頭も口も一日しゃきっとして、熱く研修を終えることができたのである。心地よく元気を分け合え、駆け引きも建て前も損得もなくつきあえる真の友人と過ごす時間はまさに心のオアシスタイムなのだ。この思いを彼にどうお返ししたらよいのか見当もつかない。


「誠実」こそCSの本質

2007-06-05 18:51:11 | ひとりごと
無農薬有機栽培のコミュニティパン工房ベンチタイムの専用パン粉用小麦畑



 輸入食材の危うさ。添加物表示はなされていても身体への作用や影響がわからない添加物混入食品の数々。毎日確実に体に摂り込む最も健康に影響を与える「食」であるのに・・・。
 商社も食品メーカーも自分たちの属する組織の利益優先で、顧客である国民の益へは無関心としか思えない食品で私たちの日常は埋めつくされている。企業倫理という言葉ばかりが上滑りしている。

 これらの実態を挙げていくエネルギーはもはや私には失せ、生活者としては食の安全についての学習と注意力で自己防衛するのみである。日本の経済発展は、この分野においては間違ってきた。もはや現在・未来においても修正不能の過ちを含んだ道を歩いている。厚生労働省は、テレビインタビューで、日本は他国に比べると安全だと言ってはばからない。この問題は、他国との比較が必要なことではなく、人間の身体への影響という観点から捉えるべき事であるはず。この一事においても日本がおかしくなる要因がよくわかる。

 かくいう私ども、コミュニティビジネスとしてのパン工房では、パンを作るために必要なイースト、塩、砂糖、卵、マーガリン、バター等以外、フードと呼ばれるような発酵促進剤等生地そのものに混入はしない。したがって、お饅頭のようにふわふわとした水っぽく、見かけだけ大きいパンは作れるわけがない。通常、手づくりパンとかフレッシュベーカリーという街の個人営業の店やチェーンの系列店で、このように頑固な物づくりをしている店は非常に少ないと言っても良い。代表的な例は、手づくりパンと称しながら、実態は冷凍生地をメーカーから仕入れ、ただ店先で成形、焼成しているだけである。パンの命は生地づくりにあるはず。イーストを持たずにメーカーの作った生地でパンを焼く、生地に独自のコンセプトを持たない手づくりパン屋というわけである。冷凍生地そのものについてどうこういうわけではないが、合理性優先で店独自のオリジナル性がないことには変わりない。

 私どもの責任は、食していただく方へ美味しいというだけでなく、健康に益する物づくりにある。これが製造者責任であり、顧客への誠実なサービスの原点だと考える。現代の顧客ニーズでは、「柔らかくて口でとろけるようなパン」とか「日持ちのするかびの生えないパン」とかが主流だそうである。こうだとするなら、私どもは明らかにこういったニーズの対極での物づくりをしていることになる。商売が下手ともいわれる。しかし、媚びずに信念を持った物づくりをしているところを探している顧客も確かに存在する。このたび私どものパン工房の作るパンが、Yahooで全国のネット通販上位にランクされたのがその一例である。

 顧客に誠実な仕事を通し抜くには、商売上の「やせ我慢」を必要とする。このやせ我慢の価値をさらに後継者にも継承することが大切だと実感させられる。