松岡元農水相が国会で「法律に従ってやっているので何ら問題はない」と、事務所経費の会計処理に関する答弁をしていたのは記憶に新しい。
おっしゃるとおり、法律に反していなければ非難されるものではないのだろうか。たとえば法令そのものが、ある一方(特定)の立場の人間に有利なものであったらどうだろう。たとえば、計上された裏付けとなる領収書は不要といった政務調査費等の使途について不適切なものが隠蔽できる不透明さが合法的であるように。大阪府ではこの件、領収書とひきかえに政務調査費を支払う形にするという論議もあるようだが、断言してもいい、つまるところはそのような議決を議会が採択することはなかろう。自らの首を絞めるような既得権や特権を失うことはしないのが日本の政治家だから。
元国家公安庁長官であり広島高検の検事長をつとめた男が詐欺罪の容疑で逮捕された。なにをか言わんやである。マスコミのニュースでのまことに軽い取り上げ方も含めて今の日本は益々異常である。官僚の人事というのは、重大かつ許されざる事件を犯すその程度の人間が大変重要なポストに就いているという現在の横並び年功序列の無責任な体質がある。年功じゃなく正確には年数というべきだが、それはともかく、こういう官僚の制度は、課長級まではポスト対エリート官僚の数が整合しているので問題ない。ところがそれ以上の上位ポストは限られているので、あぶれた官僚は当然のこととして天下りによって立場と待遇を保証されて当然と公言してはばからない。このしくみこそが官製談合を生む必然の構造を作っていることは、併せて深刻な状況である。官僚にとっては抜け道だらけの国家公務員法の可決が選挙前の駆け込みでなされたからといって、この法案の草稿そのものが官僚自らの手によって作られ、それを政府与党が数の論理で強行採決している様を見ている国民は、安心し納得するほどおバカではない。はず・・・・。7月の参議院選挙の結果で国民はおバカか、そうでないかは判明する。
この件で安倍総理は記者団に対して、涼やかな表情でこう発言していた。「審議を尽くし」「民主主義のルールに従って」国会で正式に可決された。と・・・・。
「民主主義のルールに従って」という発言は、現在の採決方式は『多数決による』訳だから、そういう表現は間違いではない。しかし、「審議を尽くし」に至っては、あの委員会での議事運営は果たして審議を行っているものであったか。ましてや「やり尽くした」といえるものだったか。
国民に向かって、政治とはこういうものだよ、政治家は「寄らば大樹の陰」なんだよ、といわんばかりの傲慢な姿勢を通して国民へ不信感や無力感を生んでいる。
そもそも、コンプライアンスということばが「法令遵守」という部分に限ってのみ用いられることは、あまりに人間としての知性や見識に欠ける。いかに法令やルール、規則・規程にかなっていても、『人間社会に対して、不利益や迷惑となるような行為をしない』という意味こそが「コンプライアンス」なのである。
こう考えると、「人間社会」という概念を「官僚社会」「政治家社会」「わが社」と置き換えられた各種法案や条例はたまた組織通達等そのものがコンプライアンスに抵触するという発想こそが良識と言うもの。
ついでながら、このところの地裁・高裁・最高裁判決、さらには弁護団の弁護そのものに大きな違和感を覚えるケースが目立つと感じるのは私だけなのだろうか。
おっしゃるとおり、法律に反していなければ非難されるものではないのだろうか。たとえば法令そのものが、ある一方(特定)の立場の人間に有利なものであったらどうだろう。たとえば、計上された裏付けとなる領収書は不要といった政務調査費等の使途について不適切なものが隠蔽できる不透明さが合法的であるように。大阪府ではこの件、領収書とひきかえに政務調査費を支払う形にするという論議もあるようだが、断言してもいい、つまるところはそのような議決を議会が採択することはなかろう。自らの首を絞めるような既得権や特権を失うことはしないのが日本の政治家だから。
元国家公安庁長官であり広島高検の検事長をつとめた男が詐欺罪の容疑で逮捕された。なにをか言わんやである。マスコミのニュースでのまことに軽い取り上げ方も含めて今の日本は益々異常である。官僚の人事というのは、重大かつ許されざる事件を犯すその程度の人間が大変重要なポストに就いているという現在の横並び年功序列の無責任な体質がある。年功じゃなく正確には年数というべきだが、それはともかく、こういう官僚の制度は、課長級まではポスト対エリート官僚の数が整合しているので問題ない。ところがそれ以上の上位ポストは限られているので、あぶれた官僚は当然のこととして天下りによって立場と待遇を保証されて当然と公言してはばからない。このしくみこそが官製談合を生む必然の構造を作っていることは、併せて深刻な状況である。官僚にとっては抜け道だらけの国家公務員法の可決が選挙前の駆け込みでなされたからといって、この法案の草稿そのものが官僚自らの手によって作られ、それを政府与党が数の論理で強行採決している様を見ている国民は、安心し納得するほどおバカではない。はず・・・・。7月の参議院選挙の結果で国民はおバカか、そうでないかは判明する。
この件で安倍総理は記者団に対して、涼やかな表情でこう発言していた。「審議を尽くし」「民主主義のルールに従って」国会で正式に可決された。と・・・・。
「民主主義のルールに従って」という発言は、現在の採決方式は『多数決による』訳だから、そういう表現は間違いではない。しかし、「審議を尽くし」に至っては、あの委員会での議事運営は果たして審議を行っているものであったか。ましてや「やり尽くした」といえるものだったか。
国民に向かって、政治とはこういうものだよ、政治家は「寄らば大樹の陰」なんだよ、といわんばかりの傲慢な姿勢を通して国民へ不信感や無力感を生んでいる。
そもそも、コンプライアンスということばが「法令遵守」という部分に限ってのみ用いられることは、あまりに人間としての知性や見識に欠ける。いかに法令やルール、規則・規程にかなっていても、『人間社会に対して、不利益や迷惑となるような行為をしない』という意味こそが「コンプライアンス」なのである。
こう考えると、「人間社会」という概念を「官僚社会」「政治家社会」「わが社」と置き換えられた各種法案や条例はたまた組織通達等そのものがコンプライアンスに抵触するという発想こそが良識と言うもの。
ついでながら、このところの地裁・高裁・最高裁判決、さらには弁護団の弁護そのものに大きな違和感を覚えるケースが目立つと感じるのは私だけなのだろうか。