対話練習帳

私的情報収集、自習ブログ

感情を切り離す

2008-10-05 18:02:46 | 考え中
(追記)
続きをこちらに書きました。書いた私自身が自分の理解不十分、表現が不完全であることを認識しています。全体の主張を咀嚼して読み取ろうとされるよりも、断片的にでも共感や違和感を覚える部分があって、活用いただけるのであれば嬉しく思います。

<動機と目的>
感情を切り離すということについて、自分の感情を実際に観察してみようという試みです。読み手には、しろさんを想定していますが、動機は、まず自分のことをより知るためです。そして、それをコントロールできるようにしたいと考えています。副次的に、これが定型発達者のリアクションのサンプルとして、ASの方に比較考察してもらう資料になればという意図を持って編集しています。

どこから切り込んでいいのか、どこをどう分析したいのか、誰に何を伝えたいのか、そもそも何がしたかったのか、いろいろ考えが広がり過ぎて収拾がつかなくなりそうなので、まず、ケーススタディから始めてみようと思います。しろさんの記事にある事例をなぞって、自分ならどう感じるかという心理を出来るだけ客観的に追ってみます。
余力があれば次の記事で、感情の重みづけが変動することについて、感情を切り離す作業について、この一連の思考の過程で、実際どのような心理的変遷があったのか、自己観察した記録も整理して提示したいと思います。さらに次の段階があるとすれば、感情の切り離しと効率的な学習について考察したいと思っています。最後に、この一連の記事をまとめるにあたって、無編集のままのメモ書きも資料として提示できればと計画しています。

<自分の立ち位置、視点>
前提として、私は、一応、簡易自己診断の結果では平均的な定型発達者でした。現在までの交遊範囲で、ASと診断された方と身近に接したことはありません。今考えるとASが疑われる知人が、過去に一人だけ思い当たります。この方としろさんの事例を、ASの方の参考として比較考察しています。知識に関しては、ネットを通じて、主にしろさんからASについての情報を得ているレベルです。

「友達」というものの考え方
しろさん以上に、私は人付き合いにおいて淡白です。勿体ないという感情も薄ければ、面倒くさいという感情を抱いてしまうこともあります。密な連絡を必要とする関係は苦手で精神的ストレスになります。こちらから一度も連絡をしなかったことで、かつて友人に責められたこともあります。数値に表してみましょう。これまでに親族、近所付き合い、学校、仕事、趣味やサークル活動等を通じて知り合った人数を全て含めれば500人は下らないでしょう。この内、今現在、こちらから連絡を定期的に取っている人の割合は、一割にも充たないことは確かです。そして、今身近に居る知人に聞いても、同じようなものだと答える人はやはり一割くらいはいます。なので、この傾向自体は、ASに限定されるものではなく、個人の性格によるものであると思います。その性格を形成する過程でASの故の体験が影響を及ぼした可能性は否定できません(高いと思います)。しかし同様に、年齢や地域性、環境、性差など、多くの要因が関わると感じています。それ故に絶えず変化しうるものであると考えます。自分の場合、地域性が大きな要因ではないかと感じます。
連絡が密であるのを好むグループに比べて、連絡が疎であるのを好むグループは、それがグループであると認識され難いです。従って、見かけ上、連絡を密であるグループに属する人の方が多くなる傾向にあるという点も考慮すべきだろうと思います。

定型発達者はよく「ありがとう」や「ごめんなさい」を言う
(「友達」というものの考え方)
友人の「50倍」という数字や「友人関係の完全崩壊の危機」という表現、これ自体が「自分はこれほどに不安に思ったのだ」という感情を込めた過剰な表現である可能性が高いので、深刻度の判断が難しいですが、自分にも「ありがとう」「ごめんなさい」がなかったためにトラブルに発展したり、人間関係に亀裂が入った/入れたことは数多くあります。その経験の中で、この人には/このケースでは、感謝の言葉、謝罪の言葉が必要だという個別の対応をしていることがあります。その場合、実際に謝罪や感謝の感情を持っていない「演技」であることも多いです。しかしここで、定型発達者は演技に感情を込めるというスキルを習得しているとは言えるかもしれません。
そして、この「ありがとう」「ごめんなさい」の必要な場面か否かを決める時に、状況、表情、仕草、声のトーンやテンポ、言葉の間合いというような、当人の言語以外のリアクションはもちろん含みますが、これに先んじて、相手の所属する文化、性別、年齢、肩書き、職種、周囲のその人に対する評価というような背景情報が判断に影響を与えています。判断を誤ることは当然あります。「ありがとう」「ごめんなさい」を言いそびれてトラブルになるよりも、必要のないところで言うことでトラブルになる確率の方が低いという経験から、私は必要以上にいうように習慣付いています。
「友人関係の完全崩壊の危機」について付け加えます。しろさんが個人の性格とASの特性を切り分けられないのと同様に、定型発達者も通常、自分の見解と一般論を切り分けずに、個人の意見を集団の総意であるかように発言します。ですが、定型発達者といえども、全く均一の集団ではありませんので、全員が同じように考え行動するというケースは稀です。ですので、もし一対一の諍いに周囲全体が巻き込まれてしまうのが事実であるならば、その集団のアンバランスさを暗示しているようで、むしろ周囲のご友人の精神的未熟さを心配致します。私は、「友人関係の完全崩壊の危機」は言葉のあやであろうと感じます。

自閉症スペクトラムの人間の感情は、定型発達者には上手く伝わらないようだ。
(「友達」というものの考え方)
敢えて数値で表すと、自分の感情が伝わり難いと感じる人は、日常で接する範囲に5%くらい。この人の感情が読み取れないと思わせる人は、それよりやや多く10%くらいいました。英語圏で生活するようになり、この数字がぐんと上がっているのを感じます。感情を伝える時、言語に大きく依存しているということだと思います。ただ、他の要因も複数絡んでいる感触もあります。世代間格差を感じる、職業的な気質の違いを感じる、文化の違いを感じる、性別の差を感じる、これらが原因で感情が伝わらないと思う個別のケースに分けると、ASと定型発達者のコミュニケーションの齟齬は、しろさんが思っておられるほど深刻ではないかもしれません。
感情が伝わらない相手に対して、私は多くの場合、ほぼ無意識に近い状態で、理解されることを諦める心境になっているようです。それでも、ごく少数の限られた人に対しては、理解したい/理解されたいと感じて、感情的になることがあります。学生だった頃は、その感情を相手に抱くかどうかが「友人」の定義だったように思います。しかし、このような感情も、薄れつつあるのが実感です。それが、年を重ねたためなのか、それとも環境の変化がそうさせたのかわかりません。学生時代は、誰とでも理解しあえることが理想であり当然であるという気持ちが強かったですが、現在では、理解できないことは理解できないものとして存在を受け入れられる方が、懐が深く精神的に成熟した状態なのではないかと考えています。
ただ、そこで、

「理解できないことを補う努力」をすべきなのだろうか。
(「友達」というものの考え方)
この「理解できないことを補う努力」というのが、理解しようとする姿勢を示し続けることだったりするので厄介です。「理解できる」ではなく、わからないことはわからないのだけれども、何とか相手を「理解したい」と思っているという素振りは相手に安心感を与えるために必要なようです。この「素振り」や先ほどの「演技」というのは、ASの方には難しいかもしれないと推測致します。となれば、理解不能であるとしても、それでも実際に「理解したい」と考えることができるかどうかが鍵になるように思います。

定型発達者は言葉を文字通りには受け取らない
インターネット上でのやりとりなど、文字に限定されたコミュニケーションの場合は、定型発達者同士でも、相手の真意を見抜くのは難しいですし、こちらの意図をそのまま伝えることは難しいです。誤解だ、意図が読めていない、読解力がない、感情的だ、脊髄反射だ、といった言葉が飛び交い議論が紛糾している例をいくらでも見つけることができます。
ある組織を廃止すべきか否かという議論で、私はその組織を廃止すべきだという立場でありましたが、そこに所属していた人達の廃止後の受け皿を用意する対案の提示が必要だと主張したところ、廃止に反対であると受け取られてしまいました。このような齟齬の発生には、自分の読みたいように読める(聴こえる)内容であるか否か、二者択一でそれ以外の選択肢はないと思い込んでいるケースが多いように思います。

文章の読み方について、人それぞれ異なるとはいえ、自分を含め定型発達者は、文章を必ずしも頭から読まないようですし、一文字も余さずに読んでいる訳でもないようです。ちょうどこれ(TRIVIA: Reading Test)がよい例になるでしょうか。英語がベースではありますが、多くの人が同意しているように、私にも何となく意味が掴めてしまいます。
会話においても、センテンスを丸ごと聞き取ってから解析するようなことはまずなくて、聞いた傍から次に繋がる単語や展開を予測しながら聞き取っていくようです。なので、文章構成が不完全でも違和感を覚えないことがあり、それを巧みに利用した詐術的な論理の飛躍に気付かなかったりします。その反面、予測された展開と異なる言葉を聞き取った時に、感情に直結した直感が、相手の言葉に注意を喚起して、聞き返したり、頭の中で聞き取った会話全体をリフレインしたりします。

そして、定型発達者は特定の事物だけを切り離して考えることができない
このタイトルに対して,最初に反発を覚えました。この時点で、自分は感情の切り離しができていないと証明されたようなものですね。確かに感情の切り離しは意識しないと難しいです。ただ、あげられた事例では、しろさんの考え方が(正しい、ではなく)優先されるのが社会通念上は健全だと感じますし、しろさんの周辺環境でも、これからそのような意見が優勢になっていくだろうと予想します。これについて、恥を忍んで自分の事例を紹介します。
学生時代、サークル内で、サークル内の主要メンバーである女性に告白して振られました。これがサークル内メンバーに知れ渡り、お互いに顔をあわせるのが気まずいと、相手がサークルになかなか顔をださなくなってしまいました。そのために、サークル更新手続きに必要な書類の準備が滞る事態になりました。全体の利益を考慮すれば間違いなくサークルの継続手続きが優先されるべきと思うのですが、当時は、そのような気まずい雰囲気を作った当人、即ち告白した人間の方が周りに責められました。
同様のことが研究室内でも起こりました。ところがその時は、周囲の反応は逆でした。つまり、気まずいからといって顔を出さなくなった方が注意を受けていたのです。このように、構成メンバーによって結果は異なります。単純な切り分けは賢明でないと考えます。最初の例は、趣味のサークルでしたので、年代も気質も似通った人間が集まっていて、気持ちを共有し合えるだろうとの甘えが全体にあったように思います。後者の事例では、年齢差があり、趣味ではなく実益に関わることでしたので、その点で深刻度が違っていたと思います。ただ、どちらも時間の経過とともに、数年後には他愛もない笑い話として消化されるようになりました。

その時点では本当に深刻に感じられていたのに、時間の経過とともにその深刻度が下がっていくということはよくあります。優先順位や重み、深刻度は、時々刻々と変化します。私も含め、多くの人が、仕事の優先順位を上手くつけらないと自覚しています。コーチングスキルに、どの作業から手を付けるのか判断する方法として、(重要度)X(緊急度)で数値化して作業の重み付けをする方法があると、教えてもらったことがあります。定型発達者は作業の重要度に感情が絡み付いてしまい、鍛錬しないとこれができないことが多いように思います。仕事の優先度を必ずしも重要度で割り切れない、面倒くさいとか、気持ちが沈んでいるだとか、この作業が楽しいだとかの感情に呑まれやすい傾向があります。

感情を切り離せないが故に、相手の意図を確認するより先に感情的にレスポンスしてしまう人が定型発達者に多いことは間違いないでしょう。しかし、このレスポンス、何がナイーブな問題で何がそうでないのか、個人差が大きく出るように感じます。思い入れの違い、置かれた状況の違いでも深刻度が変わるでしょう。これに関しては、相手との相性、表現手法の共有の問題になると考えています。より冷静に居られる側が、相手の気が鎮まるまで待つか、相手の気持ちを汲む姿勢を表明する(相手の言葉を取り入れて表現する)か、話にならないと切り捨てるしかないと思います。

「定型発達者は特定の事物だけを切り離して考えることができない」
「定型発達者は何事も感情的に関連づけて考える」
(定型発達者は特定の事物だけを切り離して考えることができない)
この二つの文を読んだときに励起される感情はそれぞれ異なります。できない、と言われることに対して、自分がそれに当てはまる場合、自分の人格の否定を無意識に読み取ってしまいます。その後、文脈から、あるいは、それ以前に伝えられたしろさんご自身の特性を勘案し、意識下でその感情は打ち消されます。さらに関係が親密な場合、あるいは過去のコミュニケーション体験が充分にある場合、このような無意識下の感情は、ほぼ無意識下で処理されるようになります。周りが聞いていて、それは当人が不快になるのではないかと感じるようなことを言える人、キャラクターというのが存在します。

全体を通しての印象は、しろさんの所属するグループが、いずれも気質の似通った人達で占められているが故に、しろさんの言動が実際以上に浮き立ってしまい、必要以上にトラブルメーカー扱いされているように感じます。そのために、しろさんが自己処理できる範疇を越えて問題意識を抱え込んではいないだろうか、情報が充分公平に共有されているのだろうかと心配になりましたが、後のコメントで冷静に自己分析されておられる印象を受けましたので、しろさんとご友人方に関しては杞憂であったかと今は考えています。

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