今日も一日ありがとう♪

一番の幸せは美味しい食事。
一番の幸せは優しい心とのふれあい。
一番の幸せは・・・いっぱい。
そんな日々つれづれ。

ある女優からの手紙

2007年05月27日 00時00分06秒 | 伝えたいこと
家族    ある女優からの手紙


「父の分も」弟と歩んで


 日曜日の「家族」、いつも心を静かに拝読しています。
様々な生き様があるのですね。
私はパソコンを持っていないので、ペンを取らせていただきました。
この手紙は、私が女優をしている事で、同じ境遇の方々と少しでも
勇気を共有できたらという思いと、一人の人間として
純粋に心の声を聞いて頂きたく、ペンをとった次第です。


 私は島根県の出雲市で生まれ育ちました。
私が長女、下に3歳違いの弟、9歳違いの妹の3人兄弟です。
両親とも21歳の時、私が生まれました。

 父は農協に勤め、母はバスガイドを辞めて、地元で当時、
活気のあったベニヤの合板工場で働いていました。
田んぼや畑を祖父がしていましたので、幼い時は、
きょうだいで田植えや稲刈りを手伝ったり、
畑のビニールハウスの骨組みで遊んだり、
竹とんぼや竹馬、竹鉄砲など、おもちゃは、
もっぱら父の手作りで、野山を走り回って遊びました。
ぜいたくは出来ませんでしたが、明るく、思い出いっぱいの子供時代でした。

 父は勉強に熱心で、私が小学校中学校の頃から
「お父ちゃんテスト」をしてくれました。
新聞の漢字を書き出し、意味を辞書で調べる。
読んだ感想を作文に書く。
算数のテストを作り、赤丸をつけて採点してくれました。

 高1の1月、父は仕事上の試験のため、松江市で合宿をしていました。
金曜の夜に戻ってきて、土日を家で過ごし、また月曜からは松江に行く。

 2度目の金曜日です。
野菜がたくさんで肉が少しのすき焼きをみんなで食べ、
その後、父はこたつで勉強していました。
「真紀」と私は呼ばれ、

「真紀は勉強して、大学へ行けよ」

「約束」

と言い、私の頭をなでてくれました。


 その次の金曜日。
父は帰ってきませんでした。
夜になっても母もいません。
夜中の12時ごろ、電話が鳴りました。
病院からの危篤の電話でした。
きょうだい3人、おじさんの運転する車で松江に向かいました。

 廊下で、母と、父方のおばあちゃんが拝んでいます。
怖くなりました。
病室は面会謝絶の札がかかり、中に入ると、
父は機械に囲まれて少しも動きませんでした。

 後で知ったことですが、父は合宿所で、金曜日の夕方、
大量に吐血し、そのまま胃の手術をしたそうです。
術後、付き添った母と

「のどが渇いた」

「痛い」

「子供には言うなよ。すぐ良くなる」

など少し会話をしたらしいのですが、痛み止めの注射の後、
ショック状態になり、意識を失ったようです。

 私たち子どもは土日は病院にいましたが、
月曜日には家に戻り、学校に行きました。


 その月曜日、父は亡くなりました。

 37歳でした。

夕方、父が母と一緒に家に戻ってきました。
2年前に、畑をひとつやめて建てたばかりの家です。
母が泣きながら、でも強く

「お母ちゃん、これから頑張るけん」

と言い、私たちを抱きしめて泣きました。


 弟が一番大きな声で泣いていました。
中1でした。
部屋に閉じこもり

「お父ちゃん、お父ちゃん」

と何度も叫んで、泣いていました。
妹は小1で、皆が泣いているのが悲しくて泣いていました。


 私は父と約束した進学をあきらめ、実業団のバレーボールを選びました。
島根になるべく近いチーム、お給料の安定しているチームを選び、
当時、月10万円の手取りのうち、7万円を家族のために貯金しました。


 その後、弟と私は、同じ東京で暮らすことになり、
よくお互いを励ましました。
弟は結婚し、女の子ばかり3人の子に恵まれました。
一番下の子と、私の初めての子が同い年です。


 父が亡くなって20年以上たち、それぞれの人生を歩み、幸せでした。
父の分も・・・・と皆が生きてきました。


 おととし、その弟が、がんの告知を受けました。


  生まれ変わっても、きょうだい


 弟は、会社の定期健診で胃潰瘍(かいよう)といわれ、
05年6月に再検査を受けました。

「どうせたいしたことないよ」

弟も私もそう思っていましたが、胃がんだと診断され、
7月下旬に全摘手術。

「良くなるから、田舎の母や妹には知らせない」

と弟は言いました。
8月に退院しましたが、183センチで75キロはあった体重が
10キロ近く落ちてしまいました。
1ヶ月ごとの検診は、裁判を待つ被告人のような気持ちです。
陰性の結果が出るたびに大喜びをしていました。


 12月に皆で田舎に帰る事にしました。
母、妹夫婦、弟夫婦、私の夫、そして子どもたち。
温泉の大部屋で雑魚寝し、鍋をつつきました。
弟は、前のようには、どんどん食べる事が出来ません。
口の中で少し食べ物を運んでは、30回以上かみました。
少しでも早く飲み込むと、のどに引っかかり、もどしてしまいます。

 盛り上がりの勢いで、弟ががんのことを話しました。

「でも、もう大丈夫だから」

弟も私も言いました。
母も妹も泣きました。

「家族だから、これからは何でも言ってね」

と母が言うと、弟は

「これからだけん、頑張ろう」

と。
私たちはきずなを深めました。


 去年、桜を見て、私たちは何度、泣いたことでしょう。


 弟のがんが突然、脳に転移しました。
会社で倒れたのが4月3日。
精密検査を受けた病院で

「どうやら転移の可能性が高い」

と言われた弟が、携帯でメールを送ってきました。

「桜がきれいだから、缶チューハイを買って知らない公園で飲んでる。
お姉ちゃん、これが夢ならいいのになあ」

初めて本音で苦しさを伝えてくれました。


 再入院の説明の際です。
医師からは突然「余命1年」と突きつけられました。
あの時の弟の横顔。
ピタッとメモを取るペンが止まった様子は一生忘れません。

 帰りの車の中、2人とも何も話しませんでした。

「大丈夫だよ」

それしか言えませんでした。
弟と別れ、車に乗った時、一人、大声で泣きました。


 何も罪を犯していない人間が死刑宣告されたような、世の理不尽さ。
言いようのない怒り。
希望を失った数日を経験しました。
外を歩いていても、何を食べても、何も感じないのです。


 06年5月23日
弟は36歳で亡くなりました。


再入院してからの1ヶ月の出来事は
つらくてつらくてうまく書くことが出来ません。

「家族に手紙を書くんだ」

と、弟はベット脇に辞書と便箋を置き、
仕事の書類も紙袋のそこが抜けそうなほど持ち込んでいました。
しかし、それらに触れることは一度もありませんでした。
脳への転移で言語障害が進み、不自由になった言葉で

「母さんに言わないで」

と言い続けました。


 亡くなる3日前に、母に言いました。
病院の階段のおどり場で

「母さん、本当はよくないんだよ。しっかりしてね」

と言うと、

「真紀ちゃん。私は母親だけん、わかっちょったよ。
あんたがどんどんやつれていくのを見て、わかっちょった」


 最期は、私がみとりました。
苦しく息をしている弟に

「もう頑張った。
家族のことは姉ちゃんに任せて。
安心していいよ。
いつか生まれ変わったら、またきょうだいだよ。
お父ちゃんとお母ちゃんの子どもだよ」

と耳元で言いました。
すると、うそのように、すーっと息をするのをやめ、
医師も見守る中、ほんの数分で心臓が止まりました。

 今日がある━。

こんな当たり前のことが私たちにとっては、幸せです。
開いて置いてある窓辺の本が、そよ風でページがめくられるような何げない毎日。
幸せな事です。

 入院の前、弟夫婦と少しお酒を飲みました。
弟は笑いながら

「お姉ちゃん、ぼくに何かあったら家族を頼むよ。家族はボクの分身だけん」

と言いました。


 父が、弟が、心の中にいます。

残された弟の家族は、

私の、

私たちの大切な家族です。                         
                                                                                 江角 マキコ
   




 江角さんの手紙は、先週まで5回にわたり掲載した
「千の風になって」をきっかけに寄せられました。
ご本人の了解のもと、一部省略して紹介しました。                                                                              
(谷津 憲郎)


(朝日新聞 5月20日)



人生色々です。
私も大切な家族を失って哀しい気持ちを胸の奥底に秘め、
必死で生きています。
もがいていた時期もありますが普段はあまり深く
考え込むことはなくなりました。
でも・・・この手紙を読んでいろんなことが・・・



江角マキコさんを身近に感じました。




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ここは台所横のネット。
ここにはフライ返しとかみそこしとか立てている場所。
糞をつけるなよ~(涙)

最新画像から1357(3月)



これまたQ&Oの幼い写真ですね~。
ネムネムですか

最新画像から1358(3月)



これは何につかまってるのでしょうか
割り箸ですかね~
耳掻きかな~
それを持ってるのは人間ですよ、ぼ~ちゃん様。

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10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
胸に響きました (けいちゃん)
2007-05-26 23:51:34
私はまだもがいてる。
でも、以前よりは考え込まなくなってきた。
それに気付いたとき愕然とした。
時が経てば当然の事かもしれないけど、息子に何だか悪いような気がして…
忘れてるわけじゃないのにね
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そうだったんですね (智絵)
2007-05-27 05:29:15
深過ぎて、安易に語ることができませんが、改めて、笑顔の裏のたくさんの哀しみの存在を思いました。
返信する
忘れたわけじゃないけれど・・・ (未来→けいちゃんへ)
2007-05-27 10:50:27
今、旅行記を作ってるのね。
ハウステンボスの。
で、10年前に娘が同じ場所で写真に写ってるんよ。
その写真を見ながら夢か幻か・・・
って思うわけよ。
だから

『本当にいたんだよね?』

これが素直な私の今の気持ち。
いないのがもう当たり前になってしまって・・
絶対に忘れたりはしないけど、元気で今、家にいない子とは全然違うんよ。

久々にこの手紙を読みながら泣きました。
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これは誰かの打ち込みなんで (未来→智絵ちゃんへ)
2007-05-27 10:54:12
今日、朝日新聞の愛媛支局まで行って(連絡済)
新聞の現物をいただいてきます。
当直の記者さんも快く承諾していただいて・・・
スキャナして保存しておきます。
江角マキコさんって・・・「ショムニ」のイメージが強すぎて
気が強いってのが表面に出すぎてて今までは
好感が持てなかったんだけどちょっと
身近に感じました。
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Unknown (おばはりねっと)
2007-05-27 17:02:18
江角マキコさんって 美人というより かっこいい颯爽とした女優さんですよね
彼女の出てる番組で ご主人の事を「家族」って言葉で表現されてて なんだか そこにコダワリを感じて 恋愛についてのトークだったので 何か「家族」に対して強い思い入れがあるんだろうな~って思ったことがありました
あたりまえの幸せ これが一番大切なことですよね!
成績が悪かろうと 制服をドロドロに汚して帰ろうと
電気つけっぱなしで朝まで寝てようと 弁当箱を学校に忘れて帰ろうと…これを怒っていられるのも 幸せ?なんですよね!
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そうそう (未来→オばはりねっとちゃんへ)
2007-05-27 20:42:14
そういうことよ。
普通でも子どもが成長して言わなくなると
言ってるうちが華だったと気がつくんだけど・・・
本当にいなくなられるとね~。
今の幸せを大事にね。
うちの娘たちはそれをわかって無理難題を吹っかける(笑)
それでもうれしい。
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Unknown (のんちゃん)
2007-05-27 21:59:31
未来さん、有難う。
“有難う”て言葉は不適切の様な気がしますが
貴女のお陰で心に響く記事に触れる事が出来ました。
余りに重く感想を書くに至ませんが・・・
感謝します。
返信する
どういたしまして (未来→のんちゃんへ)
2007-05-27 22:14:36
私も久々に文章を読んで涙しました。
人を見た目で判断したらダメですよね。
笑顔の奥に秘めた思い・・・少なからず
誰にもあるんでしょうけどね。
見た目で『幸せそうね』と判断するのは間違いだと
私は思いました。
私もよく言われるんですよ。
『幸せそうな奥様ね』
と。
笑って『そうね』と答えますが。
返信する
読みました (粒あん)
2007-05-27 23:30:02
私も今朝の新聞でこの記事読みました
出かけなくてはいけないのに泣いてしまいました

誰にも心の奥に秘めたことってあるんだなあ~~
と思った記事でした
表面に出してもどうにもならないことを
人は秘めて生きていってることを改めて知りました
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とっても複雑 (未来→粒あんさんへ)
2007-05-28 15:50:45
若くして癌と言う病気で・・・
残された子達への思いを考えると
もうたまらんね~。
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