旅行、飲食、草花、イベント、乗り物、出来事など。

日々の生活の中から様々な物を写真付きで。

★ジャイアントパンダ★北京動物園

2012年10月07日 | ★動物★
ジャイアントパンダは、哺乳綱ネコ目(食肉目)クマ科ジャイアントパンダ属に分類される食肉類。中国大陸で進化し、アバ・チベット族チャン族自治州域内が主たる生息地である。現在では中華人民共和国のごく限られた地域(四川省・陝西省など)にわずかな頭数が残存する、竹食などの草食傾向が比較的高い雑食性の大型哺乳類。ネコ目(食肉目)- イヌ亜目- クマ下目中のクマ科- ジャイアントパンダ亜科に分類される、ジャイアントパンダ属の、唯一現生する1種。四川と秦嶺の2亜種が知られる。白と黒にはっきりと分かれた体毛が際立った特徴である。

世界の通用名(大小のパンダ)

今では世界中の諸言語で単に「panda、パンダ」と呼ぶ場合、レッサーパンダではなくこのジャイアントパンダを指すことが多いが、学術的に発見されたのは1835年のレッサーパンダが先であり、オリジナルの「パンダ」に比して大きな新種(当時はそのように考えられた)が1869年になって発見されたことを受け、「lesser (レッサー、意:より小さい、小型の)」という特徴が名前に付け加えられた経緯がある。

「panda」という呼び名の由来については、ネパール語で「竹を食べるもの」を意味する「ponga (ポンガ)」「ponya (ポンヤ)」「poonya (ポーンヤ)」(cf. レッサーパンダの現地・ネパール語名:nigalya ponya、nyala ponga、poonya)などに求める説、特徴的な手根骨などの骨格に求める説などがある。ただし、これらの語はどのようなネパール語辞書からも見付けることができないものであり、論拠に疑問がある。

中国語で言う「熊貓(繁体字)」「熊猫(簡体字)」も、レッサーパンダに由来する。猫にあまり似ていないジャイアントパンダであるが、それを指す中国語に「猫」という字が入るのも、元はこの名がレッサーパンダを指していた名残である。 中国の山奥では、竹を食べる等、生態が似ているため、レッサーパンダが大きくなるとジャイアントパンダになると信じられていた地域もある。今でも、熊ではなく猫の仲間だと誤解している中国人が少なくない。






















中国語名

標準名は「大熊猫」(ターシュンマオ)。
もう一つの亜種を「秦嶺大熊猫」として呼び分ける。

中国語ではパンダは「熊猫」(シュンマオ)と呼ぶが、台湾では「猫熊」が一般的である。
ジャイアントパンダはそれに大をつけた大熊猫である。クマの仲間であるジャイアントパンダが猫と呼ばれるのは奇異に感じられるが、奥地に棲むジャイアント・パンダの存在は、近代まで地元民以外には知られていなかった(地元民は白熊と呼んでいたらしい)。
その外部には正体が正確に伝わっていなかった(1934年が初版の辞書『辞海』には「熊猫」の語が収録されているが、60年間に発見され何属何科に属するかいまなおわからない動物(怪獣)とされている)。
結局、正体が知られるようになるより先に、パンダの訳が熊猫で定着してしまったようである。

中華民国では本種の呼称は猫熊で、中国共産党の影響が大きい地域あるいは中国共産党解放後に左書きに誤読され熊猫になったとする説もある。台湾での本種の呼称が猫熊であることも上記が理由とする説もあるが、前述の通り中国共産党の影響が大きくない1934年版の辞海においても既に熊猫の語で収録されている。

文献中に見られる最古の記述を探せば、爾雅注疏では本種と推定される「竹を食べる白黒模様をしたクマのような動物」が貘として記述されており、金属を食べる動物と考えられていた。これは竹を食べる→矢の原料になる竹を食べる→矢を食べる→時代が進んで金属矢を食べる…と変化していったと考える説もある。白居易が記した「獏賛序」では貘は金属を食べるという記述のみが誇張され、唐以前にはそれ以外の特徴が無くなったと推定されている。加えて唐時代に本種と同じ白黒模様をしたマレーバクが混在したと推定されている。説文解字注から、清時代でも貘は金属を食べる生物とされている。

日本語名

日本語では標準和名「ジャイアントパンダ」のほか、古くは「白黒熊(シロクロクマ、シロクログマ)」「色分熊(イロワケクマ、イロワケグマ)」

とも呼ばれていた。これら異称としての和名は今ではほとんど用いられないが、消えたわけでもない。全ての生物名に漢字表記を当てることを旨としていた近代の博物学および生物学では、これらの名のいずれかが標準和名であった。

日本での飼育

神戸市立王子動物園:兵庫県神戸市 (旦旦[タンタン]、メス)

アドベンチャーワールド:和歌山県白浜町(永明:オス、良浜:メス、愛浜:メス、明浜:オス、梅浜:メス、永浜:オス、海浜:オス、陽浜:メス) 良浜の母である梅梅(2008年10月15日死亡)は来日前に中華人民共和国で双子の姉妹(奇縁:メス、奇珍:メス)を出産した経験があり、第3子である良浜を妊娠した状態で来日した。良浜の父は中華人民共和国にいる哈藍(哈蘭とも書く。2006年成都動物園にて死去)であり、永明と良浜の間に血縁関係はない。
愛浜、明浜(および、成都にいる雄浜、隆浜、秋浜、幸浜)は永明と梅梅の間の子である。
永明は梅梅の双子の姉(蜀蘭)との間に、人工授精により、2002年に中国で生まれた子(蘭宝:オス)がいる。
2008年9月13日に良浜が、メスとオスの双子(梅浜:メス、永浜:オス。2008年11月13日命名)を出産した。これらは日本初の3世代目のジャイアントパンダである。なお、父親は永明である。
2010年8月11日に永明と良浜の間に、オスとメスの双子(海浜:オス、陽浜:メス。2010年10月8日命名)が誕生した。9月4日より、一日2回、20分間一般公開されている。
2012年8月10日にも永明と良浜の間に、メスの双子が誕生したが、1頭は死産だった。

東京都恩賜上野動物園:東京都台東区(リーリー:オス、シンシン:メスの2頭、2011年4月1日より公開) 陵陵(リンリン)が2008年4月30日に死亡したため、東京都恩賜上野動物園からパンダが居なくなったのと同時に、日本が所有権を持つジャイアントパンダはいなくなった。

現在、日本国内で飼育されているジャイアントパンダはすべて中華人民共和国から借り入れている。なお、陵陵は血縁上、永明の伯父にあたる。

2011年2月21日に上野動物園へ力力(リーリー)と真真(シンシン)が到着した。公開は2011年3月22日から予定していたが、東日本大震災の影響で4月1日からとなった。

★ホッキョクグマ★上野動物園

2012年10月07日 | ★動物★
ホッキョクグマ(北極熊)は、動物界脊索動物門哺乳綱ネコ目(食肉目)クマ科クマ属に分類されるクマ。

分布
北アメリカ大陸北部、ユーラシア大陸北部、北極圏

形態
体長オス:200-250cm メス:180-200cm 体重オス:400-600kg(最大800kg)メス:200-350kg(妊娠時500kg)。生息地によっても大きさに違いがあり、ロシアのチュクチ海に生息する個体群が最も大型化する傾向がある。

他種のクマと比較すると頭部は小さいが、長い頸部を持つ。ヒグマと比べると、肩の盛り上がりや爪が小さい。吻端と足裏の肉球を除いた全身が体毛で被われている。夏季は汚れや油脂の酸化などにより毛衣が黄がかる個体もいる。

耳介は短く、寒冷地に適応している。

出産直後の幼獣は体重0.6キログラム。

体制は寒冷地に適応している。前述の長い首や流線型で小さな頭は遊泳への適応結果とされ、何時間も氷海を泳ぐ事ができる。また流氷に乗って長距離移動することもある。クマの中では高い視力を持つ。

全身が白い体毛に覆われているように見えるため、シロクマ(白熊)とも呼ばれる。多くの哺乳類の体毛がたとえ白色であっても光を透過しないのに対し、ホッキョクグマの体毛は光を透過し、内部が空洞になった特殊な構造のために、散乱光によって白く輝いて見える。ホッキョクグマの透明の体毛は陽光の通過を妨げず奥にある皮膚にまで届き熱をもたらす。

もたらされた熱はぶ厚い脂肪層と体毛に保護され、容易に失われることはない。それに加え体毛内の空洞も蓄熱の役割を果たすという巧みな保温機構を成立させている。体温が殆ど外に逃げないため、体から輻射される赤外線の量が非常に少ない。この特性から、赤外線カメラによる空中撮影の際は雪の反射光に遮られる為、ほぼその姿を捉えられないことが知られている。

なお、動物園などに飼育されている個体の場合、体毛の空洞に汚れが入り込むことで黄色っぽく変色したり、ときには空洞内に藻が発生し緑みがかかった色になってしまうことがある。





















分類
ホッキョクグマは分岐分類学的にヒグマに極めて近い位置にある。ホッキョクグマとヒグマは、氷期だった約15万2000年前に共通の祖先から枝分かれした。そのため互いに交配し、生殖能力のある子孫を残せることが判明しており、野生下でも稀にこのような個体の存在が確認されている。
このためヒグマとホッキョクグマの生殖的隔離は不完全となっている。

昨今では温暖化の影響もあり、北上してきたヒグマと陸地に上がってきたホッキョクグマの生息域が重なり「ハイブリッド」と呼ばれるヒグマとホッキョクグマの交配種が確認されている。
ハイブリッドは体毛はホッキョクグマのように白いが、盛り上がった肩と土を掘るための湾曲した長い爪などヒグマの特徴を強く受け継いでいる。

2004年(平成16年)、アイスランドの地質学者が、ノルウェー・スバールバル諸島の地層からホッキョクグマのあご骨と犬歯を発見。ペンシルベニア州立大学などの欧米の研究チームは化石に残された遺伝子と、米アラスカ州に生息するホッキョクグマ2頭とヒグマ4頭の遺伝子を比較解析した。

その結果、氷期だった約15万2000年前にヒグマとホッキョクグマの共通の祖先から枝分かれし、最後の間氷期が始まる直前の約13万4000年前には現在のホッキョクグマに近い形で存在していたことが判明している。

道具を使うホッキョクグマ

大阪市天王寺動植物公園で飼育されているホッキョクグマのゴーゴ(オス、5歳)は、同動物園がゴーゴ用の遊び道具として置いてある棒やプラスチック製の筒を使って、ぶら下げてある餌の肉を落して食べる。ゴーゴは2009年(平成21年)9月頃からこのような行動をするようになった。カナダ環境省野生動物研究所のイアン・スターリングは「長年シロクマの観察を続けているが野生でも道具を使っているような例は見たことがない。非常に興味深い事例」と語り、また、北海道大学の坪田敏男は「クマは知能が高いとされているが、道具を使ってエサを取るというのは初めて聞いた」と語る。

和名と俗称

和名はホッキョクグマであるが、俗にシロクマと呼ばれることも多い。日本初のホッキョクグマは、1902年(明治35年)の恩賜上野動物園。この時、上野動物園では、新潟県で捕獲されたアルビノの白いツキノワグマを飼育しており、それを「シロクマ」と呼んでいた。そのため、北極の白いクマのほうには「ホッキョクグマ」という和名を付けたことが名の由来である。なお、日本においては国後島において白いヒグマの個体群が生息する事が近年判明しており(ヒグマ#分布参照)、前述の日本に二頭流れ着いた記録に関しては、上野で飼育されたようなアルビノの個体、或いは国後島の白いヒグマであった可能性も指摘されている。

生態

流氷水域、海岸などに生息する。冬季には流氷の南下に伴い南へ、夏季には北へ移動する。1日あたり70キロメートルを移動することもあり、年あたり1,120キロメートルの距離を移動した例もある。地域によっては直射日光、天候、外敵から逃れるための風通しの良い巣穴を作る[2]。流氷の間を数時間にわたって泳いだり、時速6.5キロメートルの速度で約65キロメートルの距離を泳ぐことができる。

雑食獣であるクマの中で最も肉食性が強い種であり、ヒグマに比べ歯がより特殊変化している。アザラシ(主にワモンアザラシ、次いでアゴヒゲアザラシ。時にズキンアザラシやタテゴトアザラシも捕食する)を主食とするほか、魚類、鳥類やその卵、イッカクやシロイルカなどの哺乳類、クジラ等の動物の死骸に加え、氷の溶ける季節には植物(コンブ、スゲ、イチゴ等)も食べる。アザラシを捕食する際は、優れた嗅覚で匂いを察知し、氷を掘って巣穴にいる個体を襲う、氷上にある呼吸用の穴や流氷の縁で待ち伏せる、氷上にいる個体に忍び寄るなどの方法を取る。

繁殖形態は胎生。3-6月に交尾を行う。受精卵の着床が遅延する期間も含めて妊娠期間は195-265日。11-翌1月に1-4頭の幼獣を産む。幼獣は生後28か月は母親と一緒に行動する。生後5-6年で性成熟する。生後21年で繁殖を行ったメスもいる。寿命は25-30年。

500kgの雄の個体の体重を維持するには1日に12000-14000カロリーを必要とし、これには1週間でアザラシ1頭の捕食を必要とする。このため食糧事情により個体差が大きく分かれ、飢え死にする個体も多い。食糧事情が乏しいときは、同種の子を狙うことも多い。これはオスばかりでなく子の母親でも同様である[脚注 3]。

交尾相手のメスをめぐり、オス同士が争うこともある。ただし、この争いは相手の殺害が目的ではなく、威嚇を重視したものでレスリングに近い。なお、仔の2頭に1頭は生後1年以内に死亡することが多く、この中にはホッキョクグマのオスの成獣に捕食される個体も多い。このため子グマをつれたメスはオスを大変に恐れ、警戒する。

生息地帯において銃を持った人間以外脅威となるものは殆ど存在しないが、ごく稀に水中活動中にシャチに襲われる例が確認されている。近年は海氷が激減したことにより、必然的に泳がなければいけない距離が長くなり、以前よりシャチに襲われる危険性が高まっている。ホッキョクグマに限らず、大型の海生動物の減少には、シャチによる捕食が拍車をかけているという指摘もある。
出典・ウィキペディアフリー百科事典。

★北極熊★上野動物園

2012年10月07日 | ★動物★
ホッキョクグマ(北極熊)は、動物界脊索動物門哺乳綱ネコ目(食肉目)クマ科クマ属に分類されるクマ。

分布
北アメリカ大陸北部、ユーラシア大陸北部、北極圏

形態
体長オス:200-250cm メス:180-200cm 体重オス:400-600kg(最大800kg)メス:200-350kg(妊娠時500kg)。生息地によっても大きさに違いがあり、ロシアのチュクチ海に生息する個体群が最も大型化する傾向がある。

他種のクマと比較すると頭部は小さいが、長い頸部を持つ。ヒグマと比べると、肩の盛り上がりや爪が小さい。吻端と足裏の肉球を除いた全身が体毛で被われている。夏季は汚れや油脂の酸化などにより毛衣が黄がかる個体もいる。

耳介は短く、寒冷地に適応している。

出産直後の幼獣は体重0.6キログラム。

体制は寒冷地に適応している。前述の長い首や流線型で小さな頭は遊泳への適応結果とされ、何時間も氷海を泳ぐ事ができる。また流氷に乗って長距離移動することもある。クマの中では高い視力を持つ。

全身が白い体毛に覆われているように見えるため、シロクマ(白熊)とも呼ばれる。多くの哺乳類の体毛がたとえ白色であっても光を透過しないのに対し、ホッキョクグマの体毛は光を透過し、内部が空洞になった特殊な構造のために、散乱光によって白く輝いて見える。ホッキョクグマの透明の体毛は陽光の通過を妨げず奥にある皮膚にまで届き熱をもたらす。

もたらされた熱はぶ厚い脂肪層と体毛に保護され、容易に失われることはない。それに加え体毛内の空洞も蓄熱の役割を果たすという巧みな保温機構を成立させている。体温が殆ど外に逃げないため、体から輻射される赤外線の量が非常に少ない。この特性から、赤外線カメラによる空中撮影の際は雪の反射光に遮られる為、ほぼその姿を捉えられないことが知られている。

なお、動物園などに飼育されている個体の場合、体毛の空洞に汚れが入り込むことで黄色っぽく変色したり、ときには空洞内に藻が発生し緑みがかかった色になってしまうことがある。






















分類
ホッキョクグマは分岐分類学的にヒグマに極めて近い位置にある。ホッキョクグマとヒグマは、氷期だった約15万2000年前に共通の祖先から枝分かれした。そのため互いに交配し、生殖能力のある子孫を残せることが判明しており、野生下でも稀にこのような個体の存在が確認されている。
このためヒグマとホッキョクグマの生殖的隔離は不完全となっている。

昨今では温暖化の影響もあり、北上してきたヒグマと陸地に上がってきたホッキョクグマの生息域が重なり「ハイブリッド」と呼ばれるヒグマとホッキョクグマの交配種が確認されている。
ハイブリッドは体毛はホッキョクグマのように白いが、盛り上がった肩と土を掘るための湾曲した長い爪などヒグマの特徴を強く受け継いでいる。

2004年(平成16年)、アイスランドの地質学者が、ノルウェー・スバールバル諸島の地層からホッキョクグマのあご骨と犬歯を発見。ペンシルベニア州立大学などの欧米の研究チームは化石に残された遺伝子と、米アラスカ州に生息するホッキョクグマ2頭とヒグマ4頭の遺伝子を比較解析した。

その結果、氷期だった約15万2000年前にヒグマとホッキョクグマの共通の祖先から枝分かれし、最後の間氷期が始まる直前の約13万4000年前には現在のホッキョクグマに近い形で存在していたことが判明している。

道具を使うホッキョクグマ

大阪市天王寺動植物公園で飼育されているホッキョクグマのゴーゴ(オス、5歳)は、同動物園がゴーゴ用の遊び道具として置いてある棒やプラスチック製の筒を使って、ぶら下げてある餌の肉を落して食べる。ゴーゴは2009年(平成21年)9月頃からこのような行動をするようになった。カナダ環境省野生動物研究所のイアン・スターリングは「長年シロクマの観察を続けているが野生でも道具を使っているような例は見たことがない。非常に興味深い事例」と語り、また、北海道大学の坪田敏男は「クマは知能が高いとされているが、道具を使ってエサを取るというのは初めて聞いた」と語る。

和名と俗称

和名はホッキョクグマであるが、俗にシロクマと呼ばれることも多い。日本初のホッキョクグマは、1902年(明治35年)の恩賜上野動物園。この時、上野動物園では、新潟県で捕獲されたアルビノの白いツキノワグマを飼育しており、それを「シロクマ」と呼んでいた。そのため、北極の白いクマのほうには「ホッキョクグマ」という和名を付けたことが名の由来である。なお、日本においては国後島において白いヒグマの個体群が生息する事が近年判明しており(ヒグマ#分布参照)、前述の日本に二頭流れ着いた記録に関しては、上野で飼育されたようなアルビノの個体、或いは国後島の白いヒグマであった可能性も指摘されている。

生態

流氷水域、海岸などに生息する。冬季には流氷の南下に伴い南へ、夏季には北へ移動する。1日あたり70キロメートルを移動することもあり、年あたり1,120キロメートルの距離を移動した例もある。地域によっては直射日光、天候、外敵から逃れるための風通しの良い巣穴を作る[2]。流氷の間を数時間にわたって泳いだり、時速6.5キロメートルの速度で約65キロメートルの距離を泳ぐことができる。

雑食獣であるクマの中で最も肉食性が強い種であり、ヒグマに比べ歯がより特殊変化している。アザラシ(主にワモンアザラシ、次いでアゴヒゲアザラシ。時にズキンアザラシやタテゴトアザラシも捕食する)を主食とするほか、魚類、鳥類やその卵、イッカクやシロイルカなどの哺乳類、クジラ等の動物の死骸に加え、氷の溶ける季節には植物(コンブ、スゲ、イチゴ等)も食べる。アザラシを捕食する際は、優れた嗅覚で匂いを察知し、氷を掘って巣穴にいる個体を襲う、氷上にある呼吸用の穴や流氷の縁で待ち伏せる、氷上にいる個体に忍び寄るなどの方法を取る。

繁殖形態は胎生。3-6月に交尾を行う。受精卵の着床が遅延する期間も含めて妊娠期間は195-265日。11-翌1月に1-4頭の幼獣を産む。幼獣は生後28か月は母親と一緒に行動する。生後5-6年で性成熟する。生後21年で繁殖を行ったメスもいる。寿命は25-30年。

500kgの雄の個体の体重を維持するには1日に12000-14000カロリーを必要とし、これには1週間でアザラシ1頭の捕食を必要とする。このため食糧事情により個体差が大きく分かれ、飢え死にする個体も多い。食糧事情が乏しいときは、同種の子を狙うことも多い。これはオスばかりでなく子の母親でも同様である[脚注 3]。

交尾相手のメスをめぐり、オス同士が争うこともある。ただし、この争いは相手の殺害が目的ではなく、威嚇を重視したものでレスリングに近い。なお、仔の2頭に1頭は生後1年以内に死亡することが多く、この中にはホッキョクグマのオスの成獣に捕食される個体も多い。このため子グマをつれたメスはオスを大変に恐れ、警戒する。

生息地帯において銃を持った人間以外脅威となるものは殆ど存在しないが、ごく稀に水中活動中にシャチに襲われる例が確認されている。近年は海氷が激減したことにより、必然的に泳がなければいけない距離が長くなり、以前よりシャチに襲われる危険性が高まっている。ホッキョクグマに限らず、大型の海生動物の減少には、シャチによる捕食が拍車をかけているという指摘もある。
出典・ウィキペディアフリー百科事典。

★ゴリラ★ニシローランドゴリラ

2012年10月02日 | ★動物★
ゴリラは、動物界脊索動物門哺乳綱サル目(霊長目)ヒト科ヒト亜科ゴリラ族ゴリラ属(Gorilla)に分類される構成種の総称。

分布

アンゴラ(カビンダ)、ウガンダ、ガボン、カメルーン南部、コンゴ共和国、コンゴ民主共和国東部、赤道ギニア、中央アフリカ共和国南部、ナイジェリア東部、ルワンダ

形態

体長オス170-180センチメートル、メス150-160センチメートル。体重オス150-180キログラム、メス80-100キログラム。毛衣は黒や暗灰褐色。

出産直後の幼獣は体重1.8キログラム。オスは生後13年で背の体毛が鞍状に白くなり(シルバーバック、生後18年で後頭部が突出する。写真は上野動物園のニシローランドゴリラ。

分類

本属の構成種の和名として大猩猩(おおしょうじょう、だいしょうじょう)が使用されたこともある[1]。また過去には本属をチンパンジー属に含める説もあった。

以前はゴリラ1種から構成され、低地個体群(亜種ローランドゴリラG. gorilla)と高地個体群(亜種マウンテンゴリラG.beringei)の2亜種に分けられた。後に同じく1属1種ながら亜種ローランドゴリラを西部低地個体群(亜種ニシローランドゴリラ)と東部低地個体群(亜種ヒガシローランドゴリラG. graueri)の2亜種に分割し3亜種に分けられた。しかしミトコンドリアDNAの塩基配列による分子系統学的解析では、西部個体群と東部個体群(亜種ヒガシローランドゴリラと亜種マウンテンゴリラ)との遺伝的距離が大きいとして2種に分ける説もある。ミトコンドリアDNAの解析からニシゴリラとヒガシゴリラが分化したのは2,500,000年前と推定されている。

Gorilla gorilla ニシゴリラ
Gorilla beringei ヒガシゴリラ



























生態

多湿林に生息する。地表棲。昼行性で、夜間になると地表に日ごとに違う寝床を作り休む。10-50平方キロメートルの行動圏内で生活し、1日あたり0.5-2キロメートルを移動する。1頭のオスと複数頭のメスからなる約10頭の群れを形成する。

食性は植物食傾向の強い雑食で、果実、植物の葉、昆虫などを食べる。亜種マウンテンゴリラ(季節によっては果実なども食べる)や乾季に食物が少なくなると植物の葉、芽、樹皮、根などの繊維質植物を食べる。

繁殖形態は胎生。妊娠期間は平均256日。出産間隔は3-4年。寿命は40-50年で、53年の飼育記録がある。

基本的には四足歩行で、握り拳で地面を突くナックルウォーキングと呼ばれる歩き方をする。

発見以来長年に渡って凶暴な動物であると誤解されてきたが、研究が進むと、交尾の時期を除けば実は温和で繊細な性質を持っていることが明らかになった。海外の動物園のゴリラの檻に誤って小さな子供が落ちた際、泣き叫ぶ子供の側でメスのゴリラが他のオスのゴリラを近づけないように見守る姿がテレビで紹介されたこともある。
自分から攻撃を仕掛けることはほとんど無いとされ、人間の姿を見て興奮した群れのオスゴリラをシルバーバックが諌めるという行動も確認されている。群れの間では多様な音声を用いたコミュニケーションを行い、餌を食べる時などに鼻歌のような声を出しているのが確認されている。

ゴリラは警戒心が強く、神経性の下痢にかかりやすい、心臓の負担から死にいたるなど、ストレスに非常に弱いことも明らかになっている。とくに交尾の時期には、オスがメスを殺すことがあり、動物園での繁殖には細心の注意が必要とされる。

マウンテンゴリラでは息子が成長しても群れに残って複雄群となることもある。群れ同士は敵対的だが、なわばりを持たずにお互い避け合うことが知られている。交尾は一年を通じておこなわれ、発情期による「交尾の季節」は存在しない。
ゴリラのメスには、チンパンジーに見られるような性皮の腫脹がないため、外見では発情しているかどうかわからない。外敵を威嚇する際には、二足で立ち上がって両手で胸をたたき、ポコポコポコと高く響く音を立てるドラミングと呼ばれる行動をとる。落ちている枝を折って見せるのも威嚇の一種だと考えられている。

自然界での脅威は人間による密猟や環境破壊の他、分布域が重なるヒョウに捕食されることも確認されている。。ガギスバーグは、ゴリラを襲おうとしたヒョウが逆に殺されたという現地人による観察例を報告しているが、ゴリラの研究者として有名なシャラーは、シルバーバック1例を含む(その他は全て雌と子供)ゴリラがヒョウに捕食された実例を報告している。動物学者の小原秀雄は、ゴリラを含む類人猿は知能が高いので恐怖や痛みに極めて敏感であり、ヒョウなどの捕食動物には不得手であると述べている。

人間との関係

開発による生息地の破壊、乱獲、内戦の影響などにより生息数は減少している。またコンゴやガボンではエボラ出血熱によっても生息数が減少し、疥癬(1996年、2000年ウガンダ)やはしか(1988年ルワンダ)の感染・死亡例もある[5]。生息地は保護区に指定されている地域もあるが、密猟されることもある。

コロンバス動物園が世界で初めて飼育下繁殖に成功した。日本では1954年に初めて輸入されて以降、2005年現在ではニシゴリラの基亜種のみ飼育されている。1961年に亜種マウンテンゴリラが2頭輸入されているが、2頭とも数日で死亡している。日本では1970年に京都市動物園が初めて飼育下繁殖に成功した。1988年に「ゴリラ繁殖検討委員会」が設置され、1994年から各地の飼育施設で分散飼育されていた個体を1か所に集めて群れを形成し飼育下繁殖させる試み(ブリーディングローン)が恩賜上野動物園で進められている。

カルタゴの航海者ハンノは紀元前480年頃に西アフリカ(シエラレオネの辺りだと考えられている)へ遠征した際、とある島の湖の中に在る島に上陸し、毛深くて女ばかりで通訳のリクシット人(リクシタイ人とも。ギリシア語では。パウサニアスはアトランテス人の別名としている)からは「ゴリライ(ギリシア語訳では女性複数形の)と呼ばれている部族と接触した。
ハンノ一行が部族を捕らえようとした所、ゴリライの男達は茂みに逃げたが女達は踏み止まっていた。3人の女を捕まえると噛み付き引っ掻きして抵抗してきたのでハンノ一行は女達を殺して皮を剥ぎ、死体を持ってカルタゴへ帰還した。
ハンノの冒険譚はカルタゴ語で記録された後、カルタゴを侵略したローマのスキピオ・アエミリアヌスに由ってギリシア語とラテン語に訳され、カルタゴ語版とラテン語訳が失われた結果ギリシア語訳で広まっていった。

ハンノ一行がゴリライに接触してから約2300年後の1836年、アメリカ合衆国の植民地リベリア連邦(ハンノ一行が上陸したと思われるシエラレオネの隣国)にて、宣教目的で赴いていたアメリカ人の医者兼宣教師のThomas Staughton Savageが未知の類人猿の物と思われる頭蓋骨と幾つかの骨を発見する。1847年8月18日、博物学者兼解剖学者のJeffries Wymanが新種の生物だと確認したニシローランドゴリラに対し、ハンノの逸話に因んで「Troglodytes gorilla(穴居人+「gorillai」の単数形)」という学名を付ける。これに由ってゴリラの存在が科学的に認知された。実際の生態とは違い「Troglodytes」と名付けられたのは、ヨーロッパで信じられていた穴居人(Troglodytes)という人間に似た怪物の正体とされたチンパンジーと、新発見されたゴリラとが仲間であると推測された為である。

欧米では19世紀半ばに発見されるまでゴリラはチンパンジーと同一種とされていたか、或いは情報が乏しく知られていない動物だった。頭骨標本がヨーロッパに送られた以降も、生息地が欧米の研究者の探索し難い密林の奥深くであった為中々正確な生態は掴めず、長い間人間を襲う凶暴な動物だと誤解されていた。出典:ウィキペディア フリー百貨辞典より。

★鈴虫★昆虫

2012年09月28日 | ★動物★
スズムシ(鈴虫)は、バッタ目コオロギ科の昆虫。古くは「マツムシ」とも言った。

体長は17〜25ミリ。日本産コオロギ科昆虫としてはかなり大型の部類に入る。夜行性のため触角が非常に長い。触角は白い部分が多く、一部が黒い。頭部は小さく、複眼のみで単眼は退化している。翅は幅広く、瓜の種のような形をしている、羽は二枚と思われがちだが、羽化直後の成虫個体は4枚あり、その後に後脚で後翅を自ら脱落させる。羽化間もない個体は飛ぶこともあり、明かりに集まり、自動販売機の下などで鳴き声が聞かれることもある。なお、長翅型と短翅型があり、飛ぶのは長翅型のみである。飼育を重ねた販売個体は短翅型の割合が多い上、飛翔筋の発達も悪いことが多いため飛ぶことは非常に稀である。

雄の羽は幅が広く、脈が発達している。太い脈の一部はヤスリのようになっており、羽を垂直に立てて左右に細かく震わせ、ヤスリを擦り合わせて弱い前奏の後「リーーン・リーーン…」と数回繰り返す節回しで美しく鳴く。野外では鳴き方が少し異なり、前述の鳴き方の後「リィィィィ・リィィィィ…」と寂しげな鳴き方をする。そのため声を聞いてもスズムシとは思われないことが多い。雌は腹部尾端に長い針状の産卵管を持つ。



















分布

北海道(移入)、東北南部以南の本州、四国、九州。

生態

成虫は夏に出現し、森林縁またはススキなどの多い暗い茂みの地表に生息する。自然の豊かな農村などでは、田畑の脇の草むらで大きな石やコンクリート片などをひっくり返すと、多数の個体が潜んでいる姿に出会うこともある。他の地表性の種、たとえばエンマコオロギなどに比べ脚が比較的長く、細いため、穴を掘ることはなく物陰に隠れるのみである。

基本的に夜行性であり、昼間は地表の物陰に隠れ、夜に下草の間で鳴き声を上げるが、曇りの日などは昼夜を問わず良く鳴く。雌は産卵管を土中に挿し込み産卵する。

成虫の羽化は7月下旬頃より始まり、9月いっぱいまで鳴き声が聴かれる。10月初旬にはほぼ全ての野生個体が死亡するが、飼育下ではしばしばさらに遅くまで生存する。

食性は雑食性で、野生下では草木の葉や小昆虫の死骸等を食べている。

飼育

古くから鳴き声を楽しむ対象とされ、平安時代から貴族の間では籠に入れ楽しまれていたが、江戸時代より虫売りの手で人工飼育が始まり、盛んに販売されている[1]。現在では簡単に養殖物が手に入るが、野生のものも全国に分布している。養殖物から逃げたものも多数存在するものと考えられ、遺伝子汚染が進んでいる可能性は否定できない。但し羽化してまもない新成虫個体は後翅も存在する。またメス個体の場合も腹部の卵巣が未成熟な時期には、産卵時期に比べ体重が軽い。そのため、晩夏から初秋にかけて飛翔していることが確認できる。水銀灯や時には家屋の明かりに来ることもある。このことから近親交配を避け各地の生息域に分散している可能性もある。

飼育は非常に容易で、キュウリやナスを主な餌とし鰹節など動物質の餌を与えると、共食いも防げる。ジャンプ力はあるが、ガラスやプラスティックは上らないため、ある程度の高さがあればプラケースやガラス水槽などで飼育できる。赤玉土などを敷いて湿度を保っておくと雌雄がいれば容易に産卵する。翌年まで湿度を保っていると、5月下旬から6月上旬ぐらいに数週間かけて孵化する。地域の気温、飼育場所の温度差により差異もあるが、何回か脱皮をすると早い個体では7月下旬ごろ成虫になる。鳴く虫は秋のイメージがあるが、本種含め本来は比較的暑い時期から鳴き始める。最近ホームセンター等で晩春から初夏にかけて売られている成虫個体は温度管理により羽化を早められたものである。

上記の通り、キュウリやナスはもちろん、カボチャやサツマイモに至るまで食べる。自然界においてはススキやクズの群生地で野生個体を多く見かける為そのことから、食草は比較的幅広いと推測出来る。

鳴き声

鳴き声が細かく鈴を振るようだというので鈴虫と言うが、かつてはこれを松林をわたる風と聞いたらしい。逆にマツムシのチンチロリンを鈴の音と聞いていたようである。

また、他の鳴く虫にも言えることだが周波数が高すぎて、一部の録音機材では録音できず、電話(携帯電話含む)では鳴き声を伝えられない。

文部省唱歌の「蟲のこゑ」では、「あれマツムシが鳴いているチンチロ チンチロ チンチロリン」に対して「あれスズムシも鳴きだした リンリン リンリン リーンリン」とある。

★ツマグロヒョウモン★蝶

2012年07月25日 | ★動物★
ツマグロヒョウモン

ツマグロヒョウモン(褄黒豹紋)は、チョウ目(鱗翅目)タテハチョウ科ドクチョウ亜科ヒョウモンチョウ族に分類されるチョウの一種。雌の前翅先端部が黒色で、斜めの白帯を持つのが特徴である。

特徴

成虫の前翅長は38-45mmほど。翅の模様は雌雄でかなり異なる。雌は前翅の先端部表面が黒(黒紫)色地で白い帯が横断し、ほぼ全面に黒色の斑点が散る。翅の裏は薄い黄褐色の地にやや濃い黄褐色の斑点があるが、表の白帯に対応した部分はやはり白帯となる。また前翅の根元側の地色はピンクである。

全体に鮮やかで目立つ色合いだが、これは有毒のチョウ・カバマダラに擬態しているとされ、優雅にひらひらと舞う飛び方も同種に似る。ただしカバマダラは日本では迷蝶であり、まれに飛来して偶発的に繁殖するだけである。南西諸島ではその出現はまれでないが、本土では非常に珍しい。つまり、日本国内においては擬態のモデル種と常に一緒に見られる場所はなく、擬態として機能していない可能性がある。

雄の翅の表側はヒョウモンチョウ類に典型的な豹柄だが、後翅の外縁が黒く縁取られるので他種と区別できる。












分布

アフリカ北東部からインド、インドシナ半島、オーストラリア、中国、朝鮮半島、日本までの熱帯・温帯域に広く分布する。この分布域は他のヒョウモンチョウ類が温帯から寒帯にかけて分布するのとは対照的である。

日本では南西諸島、九州、四国、本州南西部で見られる。本州では1980年代まで近畿地方以西でしか見られなかったが、徐々に生息域が北上し1990年代以降には東海地方から関東地方南部、富山県・新潟県の平野部で観察されるようになった。2002年には北関東でも目撃報告がある。2006年現在、北関東でもほぼ定着し、普通種になりつつある。

生態

成虫は平地の草原や庭・空き地や道端など身近なところで見られる。地域にもよるが、成虫は4月頃から11月頃まで見られ、その間に4、5回発生する。他のヒョウモンチョウ類がほとんど年1回しか発生しないのに対し、多化性という点でも例外的な種類である。冬は幼虫や蛹で越冬する。

幼虫は各種スミレ類を食草とし、野生のスミレ類のみならず園芸種のパンジーやビオラなども食べる。満腹になると地表に降りて他の餌を求めて移動するため、花壇に植えた株が次々と食べられてしまうこともある。終齢で体長30mm程度、黒色の体の背に一本の赤い筋が縦に通る。体には分岐する棘状の突起が各節に6本ずつある。突起は体の前半部では黒く、後半部のものは根元が赤く先が黒い。かなりとげとげしい毛虫である。派手な体色は毒虫を思わせるが、突起で刺すこともなければ毒も持たない。

蛹は尾でぶら下がるもので、背面に金属めいた銀色の棘状突起が並ぶ。
出典:ウィキペディア フリー百貨辞典より。

★動物★猿回し

2012年05月17日 | ★動物★
猿回しとは、猿使いの口上や太鼓の音に合わせて猿が踊りや寸劇などを見せる大道芸の一種。猿飼、猿曳、猿舞、野猿まわしなどとも呼ばれている。

猿を使った芸は奈良時代に中国から伝わったとされている。昔から馬の守護神と考えられてきた猿を使った芸は、武家での厩舎の悪魔払いや厄病除けの祈祷の際に重宝され、初春の祝福芸を司るものとして、御所や高家への出入りも許されていた。

それが室町時代以降から徐々に宗教性を失い、猿の芸だけが独立して、季節に関係なく大道芸として普及していった。

江戸時代には、全国各地の城下町や在方に存在し、「猿曳(引)」「猿飼」「猿屋」などの呼称で呼ばれる猿まわし師の集団が存在し、地方や都市への巡業も行った。近世期の猿引の一部は賤視身分で、風俗統制や身分差別が敷かれることもあった。

明治以降は、多くの猿まわし師が転業を余儀なくされ、江戸・紀州・周防の3系統が残されて活動した。昭和初期になると、猿まわしを営むのは、ほぼ山口県光市浅江高州地域のみとなり、この地域の芸人集団が全国に猿まわしの巡業を行なうようになった。

猿まわし師には「親方」と「子方」があり、子方は猿まわし芸を演じるのみで、調教は親方が行なっていた。

高州の猿まわしは、明治時代後半から大正時代にかけてもっとも盛んだったが、昭和に入ると徐々に衰え始める。職業としての厳しさ、「大道芸である猿まわしが道路交通法に違反している」ことによる警察の厳しい取締り、テキ屋の圧迫などから、昭和30年代(1955年 - 1964年)に猿まわしはいったん絶滅した。

しかし、1978年(昭和53年)に周防猿まわしの会が猿まわしを復活させ、現在は再び人気芸能となっている。



























★動物★ 猿

2012年05月01日 | ★動物★
★動物★ 猿

猿回しとは、猿使いの口上や太鼓の音に合わせて猿が踊りや寸劇などを見せる大道芸の一種。猿飼、猿曳、猿舞、野猿まわしなどとも呼ばれている。

猿を使った芸は奈良時代に中国から伝わったとされている。昔から馬の守護神と考えられてきた猿を使った芸は、武家での厩舎の悪魔払いや厄病除けの祈祷の際に重宝され、初春の祝福芸を司るものとして、御所や高家への出入りも許されていた。

それが室町時代以降から徐々に宗教性を失い、猿の芸だけが独立して、季節に関係なく大道芸として普及していった。

江戸時代には、全国各地の城下町や在方に存在し、「猿曳(引)」「猿飼」「猿屋」などの呼称で呼ばれる猿まわし師の集団が存在し、地方や都市への巡業も行った。近世期の猿引の一部は賤視身分で、風俗統制や身分差別が敷かれることもあった。

明治以降は、多くの猿まわし師が転業を余儀なくされ、江戸・紀州・周防の3系統が残されて活動した。昭和初期になると、猿まわしを営むのは、ほぼ山口県光市浅江高州地域のみとなり、この地域の芸人集団が全国に猿まわしの巡業を行なうようになった。

猿まわし師には「親方」と「子方」があり、子方は猿まわし芸を演じるのみで、調教は親方が行なっていた。
高州の猿まわしは、明治時代後半から大正時代にかけてもっとも盛んだったが、昭和に入ると徐々に衰え始める。職業としての厳しさ、「大道芸である猿まわしが道路交通法に違反している」ことによる警察の厳しい取締り、テキ屋の圧迫などから、昭和30年代(1955年 - 1964年)に猿まわしはいったん絶滅した。

しかし、1978年(昭和53年)に周防猿まわしの会が猿まわしを復活させ、現在は再び人気芸能となっている。