「平成つれづれぐさ」

 昨今の世の中、どこも妙なことが多すぎます。年寄りだからと黙っていないで、もう一頑張り、世間にもの申してみましう。

”自死”と”自殺”を一つにくくるな。

2007年06月29日 | 日記 随想

 自殺と自死は違う。 違うと思うのである。
ところが、この違いを”違い”として認知できないところに、「人間社会の弱さ」がある。日本という世間の「弱点」がある。

 日本にはキリスト教世界のような宗教的に自殺を否定する文化は無い。イスラムやほかの宗教ではどうかは知らないが、日本の社会で、「自殺を悪いこと」としているのは、多分に”情緒的な精神分野”からきているところが大きいと思う。或いは、医療にかかわる世界からの「死は悪である」という古典的な思想も影響しているだろう。

 われわれ日本人は「死」を情緒的に扱ってきたし、「死」にかかわって宗教的な制約も無い。だから、翻って、「死」を理性的に取り扱いうる。
 「死」というものを情緒的に扱う場合、死の原因に対して、我々は”慎重”でなければならない。とくに近年のように死の原因が多様化してきた場合にはなおさらである。「死」をひとくくりにして、「可哀想なこと」とか「哀れなこと」とかたずけてはならない。 喜ばしい死やお目出度い死もありうるのである。「死」は”情緒の世界”の問題ではなく、”理性の世界”で扱うべき問題だと思うのである。

 そして、問題にしたいのは「自殺」と「自死」のことである。
今の日本の社会では「自死」ということは「社会的認知」を得ていない。自死も自殺もおなじに扱われている。本当は大きな違いがあるのにである。
 「自死」が社会的に認められていないので、自死は自殺の範疇にひとまとめにされ、自殺は”悲惨”で”陰湿”で”哀れな”ことになっている。そうされているのである。情緒的には安易に「可哀そう」とおもわれながらである。
 
 近頃、「老人の医療」について言われている。「老人の介護」の問題が騒がれている。そして、「尊厳死」や「Q.O.L.
」のことも論じられている。
 これらの問題はいずれも”老人”にとっては、「死ぬ」ことと繋がっている。
「いかに死ぬか」ということに繋がっているのである。老人医療に関しては「過剰医療」や「医療費」の問題がある。老人の介護に関しては「介護担当者」や「介護制度」の問題がある。尊厳死やQ.O.L.に関しては「生命の尊厳」や「医療技術」の問題がかかわってくる。人間的な現実的なところと哲学的な抽象的なところが絡み合ってくるのである。
 しかし、どれもみな、もとはといえば「死ぬ」というきわめて”動物的”、”自然的”、”原初的”な事柄を扱っているのである。

 人の死ぬことを良しとしてこなかった。死ぬことは”悪”とするこうした過去の「思い方」が間違っているのではないだろうか。死ぬことを良しとし、死ぬことを悪いことだと思わなければ、人間とくに老人のありようは大きく変わるのではないだろうか。「死」を待つのではなくて「死ぬ時」を待つという生き方に変わりうるのである。
 すなはち、「死に方」を選択できるのである。「死」を”良し”として受け入れれば、人が自ら「死を選択すること」も受け入れられるはずである。
 そこで「自死」の概念が成り立ってくる。「自死」が社会的に認められてくるのである。

 人は自ら望んで生まれてくる者はいない。生まれさせられるのである。
だから、せめて、死ぬことくらい、自分で選択したい者にはそれを認めるべきだと思う。そして「自ら死を選択した者」を大雑把に「自殺者」としてひとくくりにしないことである。
 「自ら死を選択した者」の死は「自死」であり、やむを得ず「死」に逃避した、或いは追い込まれた、「自殺」とは区別するべきである。 そして「自死」にはそれなりの「社会的承認」を与えるべきである。そして、さらに言うなれば、「自死」のための適正な「手段」をも社会は提供するべきだと思う。   
   しかし、残念なことに、そのような「手段」を合法化すれば、必ずそれを悪用するやからが生ずるのである。だから、そのような考え方の「効」と「罪」を、どのように考えるかという問題が生じてくる。

 しかし、そうすることによって、近年問題になってきた前記の「老人医療」、「老人介護」などの問題や、「尊厳死」「Q.O.L.」の問題にも”解決の近道”が見えてくると思うのである。
 ただし、政府にとっては、「自死」と「自殺」を区別することはありがたいことではないと思う。これを区別することによって、「自殺」は今よりももっと
”悲惨”で”惨め”で”哀れ”なものとなり、そのような「選択」しかなしえない者を生むという社会のありように対して、「見る目」が何倍にも厳しくなるからである。

 今の社会は「自殺」を「自死」と一緒くたにすることにより、「自殺者」の
”悲惨さ”をマスキングし、誤魔化してているのである。
 「自死」と「自殺」は明確に区別するべきだと思う。
 



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7 コメント

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近々に自死を決行します (レクター)
2011-07-06 20:52:15
私は上からの招待状は待ちません。
人生の最終章は自らピリオドをうつます

自分で歩けて自我もしっかりしている
時に幕をひくのです。

64年間の過去は振り返りません
後悔もしていません満足で幸せな
人生だったとおもいます。
天涯孤独で悲しむひともいません

誰にも見つからない所で
決行します。

人間は不幸なことにオギャーと
生まれた時から死へのカウントダウンが
始まります。つまり人間は死ぬために
生まれてくるのです。
万人に公平に。
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Unknown (生死万歳)
2012-01-13 11:36:40
自死と自殺は同じです。自死という日本語すらおかしい。自殺した人の遺族の気休めでしかない。
>「自ら死を選択した者」の死は「自死」であり、やむを得ず「死」に逃避した、或いは追い込まれた、「自殺」とは区別するべきである。

あなたの論理は究極的に同じことを意味します。逃避しても追い詰められても死なない人は死なないし、死ぬ人もいる。そこで死ぬ人は最終的に自ら死を選択したのであって自死と言う言葉自体が事態を直視出来ない弱さからくるごまかしである。言葉遊びで癒されているかの錯覚に過ぎない。

その上で自殺に社会的承認を与えることには大賛成である。老人よ、ダラダラ長生きするな!
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ご意見に賛同します (黒潮丸)
2012-02-22 15:53:13
あなたのご意見に賛同します。

特に超高齢化社会、介護、社会保障制度と絡んで、自死についての考察を深めるべきでしょう。

「自死の日本史」(モーリス・パンゲ 講談社学術文庫)のご一読をおすすめします。
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なんだかな (青山)
2014-02-02 11:06:13
自分もただの言葉遊びだと感じます。
単語の意味合いとしては何も変わりません。
ただ単にどういう意味合いで捉えるかという個人の自由なだけであって周りに押し付ける物ではないと思います。

自死の美化こそが自殺を促しているとすら思えます。
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Unknown (sh)
2014-06-25 22:40:33
自死ということは生命は自分のものであるという傲慢な思想である。
命は神より授けられたものであるという謙虚さがあれば自死など使わない。自死など共産主義者の言葉遊びである。
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Unknown (ロジャー)
2016-04-02 22:49:56
死にたいなら自ら
死を選ぶ事の何が一体悪いことかわからない。
自死だろうが自殺だろうが、それは言葉に表しただけの事。
自らの命を絶つことが、何故、非難されるのか?
自らに、ケジメをつけて何が悪いのか?
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質問 (けんけん)
2017-06-14 21:53:43
Q.O.Lってなんですか?
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