やーっとレポートに全てケリがついたぞー。
これで向こう2ヶ月あまりの自由は保障されわけだが……
まあいいんだよ、んなことは
例のごとく日付が変わって水曜になっても即座にサンデーが読めるわけではないから、また無意味にハヤテについて語りだす、そんな2月の夜。
で、今回のお題はタイトルに書いたとおりです。
つまりヒナギク嬢と雪路姉さん
(むしろ姐さんと呼びたい。特に意味はないが)のコンビは実は非常に理想的なコンビではなかろうか、とマジで今更ながらに思ったわけです。
ヒナファン、雪路ファンの方々からすれば
「何を今更」って感じかもしれませんがね。
ただしワタシは咲夜贔屓なので、最終的には咲夜に話が繋がっていきます。多分。
以下、すんげえ長い考察が始まりますが、ご容赦の程を。
まあ、簡単に言ってしまうと、このハヤテという作品には非常に珍しい(というかむしろ作品の性質としてはあってはならないはずの)
子供と大人という対比の構図が桂姉妹の関係には存在しているのですよ。
この構図をワタシが重要視するのには一応ちゃんとした根拠、というか論拠が存在しています。もっとも漫画ではなく小説からですが。しかもえらく昔のものなので、記憶違いっていう可能性もなきにしもあらずですが……
小説家、田中芳樹氏の代表作である
「創竜伝」の単行本版第六巻(染血の夢)の巻末対談において、著者である田中芳樹氏と同じく小説家である太田忠司氏(だったと思うけども)との対談が書かれていたのですが、その中で
「子供がいろんなモノにかかわり、事件を解決していくにしても、見守る大人の存在が不可欠である」ということを太田氏が言っており、田中氏もそれに賛同していた文章があった覚えがあります。同氏の作品で言うと、狩野俊介における野上英太郎ということだそうですが……詳しくはまた今度調べてみます。
まあそれはさておき、ワタシはどんなに子供が活躍するような話であっても、保護者としての大人の存在を描き出すことは決して無意味な行為ではない。むしろ
子供が頑張れば頑張るほどに、そういった大人の存在をしっかり描き出す必要がある、という上述の理論にとても納得がいったんですな。
たいがいの少年少女を主人公に据えた作品では、登場する
子供たちは大人顔負けの才覚や能力や信念を持っていて、大人ですら相手にしたくないような敵や困難に対しても果敢にぶつかっていき、それを倒し、乗り越えていきます。こうした作品性そのものには、ワタシは何の文句もありません。
むしろ清々しい。
しかし、そんな子供たちが中心となる作品において、意外と抜け落ちてしまいがちなのが、
彼ら「子供」に対置されるべき「大人」の存在意義なんだと思うんですわ。
子供がどれほどにスバラな力を持っていても、時として如何ともしがたい行き詰まりを見せることがあるはずです。それは
彼らがむしろ「子供」であるからこその躓きであったりもします。どれほど登場する子供たちが賢くて、冷静であったとしても「子供心」を失っているはずはありません。読者である子供たちに共感を持たせるためには、あるいは大人の読者にとって彼らが子供であるというリアリティを見せるためには、
彼らはどんな力を持っていようと「子供」であって「子供心」の持ち主なんですよね。
「若さゆえの過ち」っていうのはかなりベタベタな表現でしょうが、例えばガンダムなんかはその典型、というか極端な一例じゃないでしょうかね。まだ子供と呼べる主人公達が戦争の中で苦悩するっていう描写は、
彼らが子供だからこそ描き出せるものでしょう。で、それの対置として、彼らの周囲にはしっかりした大人がいつもいますね。
SEEDを例に挙げれば、
ニコルの死をもってアスランがキラに対して明確に敵意を持ったような、そんな感じでしょうか。
「何故旧友同士で殺しあうのか」というカガリの問いかけに対するアスランの答えは、彼が子供であるからこそ持ちうる感情も必ず幾分かは含まれているはず。
まあガンダムはかなり極端かもしれませんが、とにかくスバラな能力を持った子供であっても、子供だからこその苦悩は必ず付いて回るものです。
これが描かれなかったら、彼らは子供である必然性がなくなってしまう。どんな完璧超人だ、ということになっちゃうでしょう。
だからこそ、逆に言えば
大人がしっかり描かれている作品ほど、子供は子供らしく振舞うことができるんだと私は思うんです。
一方で大人が子供と分かたれる決定的な差は、つまりは「大人」そのものであるということ。
端的に言えば年齢と、それに裏打ちされた経験です。これは子供がどんなに望んでも、普通は大人以上に手にすることはできません。
で、子供がその子供らしさゆえに躓いたとき、
後ろからしっかりと彼らを見てやっている大人がいることで、子供は更に前に進んでいくことができるのではないか、と。
ただ、大人が直接子供にアドバイスしたりとかする必要はない気がするんです。ていうか、こういう作品では子供のほうが力があるわけだから、
アドバイスなんかで大人の出る幕なんぞ殆どないはず。でも後ろにはちゃんと大人がいて、見守ってくれている。そのこと自体が子供にとっては安心できるよりどころであるわけで。
非常に表現しにくいところではあるんですが、そういう
目には見えないし言葉にもならないけれども確かにある、大人が持つ「安定感」これが子供を更に前に進ませていける原動力になるんじゃないかと、私は思うわけです。
いうなれば
「ナルト」におけるカカシ先生のようなもんだろうか? いや、イルカ先生や児雷也の方が合ってるか?
RPGで例えるなら
「テイルズオブファンタジア」におけるクラースみたいな。この人は本当に保護者という立場ですがね。
あるいは
「デジモンテイマーズ」における山木室長やジェンの父さんみたいな。
もっとハッキリした例を挙げると
「カードキャプターさくら」における藤隆さんや桃矢だったり。
こうした作品は全て
子供が主人公ですから、大人たちはたいてい子供のやることに強く反対したりはしません。しかし子供が何かをやり遂げる様を最後まで見届けています。そう、
何もしなくても見届けている人がいる。そういう感覚が大事なんじゃあないかと。
……で、えらく長いこと書いてますが、
これをヒナギクと雪路のコンビに当てはめると、いろいろな面でしっくりきます。
ヒナギクは基本的に何でも出来る子です。才色兼備どころかオールラウンダーです。それも超高水準の。雪路はどの辺とっても(胸以外は)ヒナギクには勝てそうにありません。
でもそんなヒナギクにも、人には言えない弱い面が存在します。それは彼女にとって忘れたくても忘れられない過去の遺恨でもあるわけですし、 tanabeebanatさんなどは
この2面性こそがヒナギクの人気の秘密でもある、と仰っています。ただの完璧超人ではなく、ちゃんと弱さを兼ね備えている。だからこそ親近感が沸く。言うなれば弱点こそが長所なわけです。
ところがその一方で同じような境遇にあったにもかかわらず、
雪路はそういった過去の遺恨に大きくとらわれているような様子はあんまりありません。むしろ済んだこととして心の中で整理が付いてしまっているように思えます。これはハッキリ言えば
彼女が良くも悪くも大人だからでしょう。もちろんヒナギクと比較してって意味ですがね。雪路はヒナギクのように過去を引きずらず、
むしろ笑い飛ばしてしまえるようなバイタリティーの持ち主ですが、これは彼女が大人だからこそ成せる業。そしてここにこそ、雪路が大人としてヒナギクに対することの大きなメリットがあるのではないでしょうか。
子供であるヒナギクがいくら才色兼備で雪路よりもはるかに優れていたとしても、子供であるが故の苦悩や迷いというものは必ずついてまわるわけで。それこそが自分を捨てた両親への執着であったりするのですが。一方雪路はヒナギクと比較すれば確実に頼りない大人ですが、何より人生経験を積んだ
大人であるということそのものが、彼女をヒナギクを見守ることの出来る存在へと押し上げていると私は思います。だからこそヒナギクは、雪路に妹として接するんでしょうね。
自分が苦悩しているその一点のみにおいて、自分は姉のように割り切ることはできない。だからこそ似た過去を持つハヤテに興味を持ち、いろいろと騒動が巻き起こったわけですが。
さて、
ここでハヤテと雪路との大きな差異に気をつけなければなりません。ともにヒナギクと同じような境遇に置かれていた2人ですが、
ハヤテは子供で雪路は大人です。そしてこの境遇、雪路にとっては「済んでしまった過去」ですがハヤテにとっては「現在進行形で解決しなければならない事態」です。この
2人のうちヒナギクと距離が近いのはどちらかといえば、明らかにハヤテですね。ヒナギクは多かれ少なかれ過去をまだ引きずっているわけですから。
で、近しい二人同士が対話したからこそ、ヒナ祭り編においてヒナギクは過去の遺恨に対して一応の見切りをつけることになったわけでしょう。同じ境遇に置かれていた人物でありながら、大人の雪路ではなく、同じように苦悩するであろう子供のハヤテだからこそ、ヒナギクの苦悩を分かち合い、軽減することも可能なんですな。
雪路は大人であるがゆえに、ヒナギクの苦悩を分かち合うことはできません。 ただ、そういった苦悩に整理をつけた身として、彼女を後ろから見守るだけです。
この位置関係がミソ。このハヤテという作品においての主役が「子供」であるということを暗に示しています。
自身の苦悩を
最終的に解決するのは「子供」であるヒナギクやハヤテ自身であって、そこに雪路が何かを差し挟むことはまずできません。
彼女はただ「大人」として見守るわけです。ヒナギクと長年連れ添っていた雪路ではなく、ハヤテがヒナギクと語らうことで、彼女の苦悩を軽減したのは、当たり前とはいえ
大人と子供という決定的な差異が存在しているからこそなのではないか、と私は思います。
もちろんヒナギクが倒れそうになったりしたら雪路は姉として支えはするでしょうが、他のポテンシャルで雪路に勝っているヒナギクは、最終的には自身の力で立ち上がろうとするはず。
雪路は基本的には見守る存在です。
この作品は
子供の成長を主眼に捉えている以上、大人である雪路は既に変わらぬ存在として、見守るだけの存在として描かれているわけですが、それ自体が非常に重要なポイントでもあるんです。だからこそ当の雪路は
何があってもまず倒れそうにない、あんなバイタリティに溢れたキャラとして描き出されたんだろうと、今更ながらに私は考えています。
倒れて苦悩し、答えを見出すのはヒナギクのすることですから。
うげ、めっちゃ長い。今日提出したレポートよりも。咲夜について言及するのはまたってことでいいっすかね?
やっぱり文章は短くしていく努力をせな……