chance operation

引用、メモ。

吉川洋『ケインズ ―時代と経済学』(ちくま新書)

2012-03-30 | 経済
この本で描かれたケインズからは、いかにも英国人らしいプラグマティズムの精神を感じた。
ケインズは、自らの学知を、論理的な整合性を追及する対象ではなく、現実にアプローチするための道具と捉え、現実の複雑さに見合うだけの複雑さを獲得しようとする。ケインズの学説は、道具として耐える精緻を追求した結果、それに見合うだけの「複雑さ」に至った。
それは、例えば、古典主義―新古典主義経済学の「複雑さ」とは、その性質を異にする。新古典主義経済学の学徒達は、現実には実現しえない「均衡状態」を礎定し、そこに整合的な理論モデルを構築しようとする。新古典主義経済学の「複雑さ」は、「実現しえない整合性」を追求した結果の、いわば純理論的な次元での「複雑さ」なのだ。一方、ケインズの学説は、道具を組合せ使用する手続きにおける、いわば技術的な次元での「複雑さ」なのである。


■圧倒的な生産力を誇る「世界の工場」、「七つの海の制覇」が生み出す大幅な非貿易収支黒字、海外への資本輸出(貸付)をコントロールするロンドン国際金融市場の繁栄。

さて工業製品の旺盛な輸出にもかかわらず、原材料・食料輸入との差額である「貿易収支」は、ナポレオン戦争が終結した1815年から第一次世界大戦の始まる1914年まで、百年の長きにわたって恒常的に赤字だった。
しかしサービスの輸出入の差額である「非貿易収支」が大幅な黒字であったおかげで、二つの収支を合わせた「経常収支」は、百年間大幅な黒字を続けた。

大幅な経常黒字と貿易趣旨の赤字が百年もの間同居していたという事実は、今日のわれわれ日本人には少々奇異な感じがする。1980年代の初頭から日本経済は恒常的に経常収支の黒字を生み出しているが、これはほぼそっくりそのまま貿易収支の黒字に等しいからである。日本経済の場合には経常収支の黒字が「貿易摩擦」に直接結びつく所以である。
これに対して十九世紀イギリスの経常収支のパターンは全く異なっていた。貿易収支は恒常的に赤字だったのだが、それを上回る非貿易収支の黒字が生み出されてきたのである。

それほど大きな非貿易収支黒字の原泉は一体何だったのだろうか。ナポレオン戦争直後から1970年代まで、第一の稼ぎ頭は海運収入だった。七十年代中葉以降一次大戦まで、単独の項目としては投資から上る収益が一位となるが、商社活動の収入、保険料、海運業を合わせると最後まで投資収益を上まわっている。
十九世紀は国際貿易が急速に成長した世紀である。1820年から90年まで七十年間に、世界の貿易数量は十五倍に拡大した。イギリスは海運、保険、商社という国際貿易のインフラストラクチャーを世界の津々浦々まで供給し、そうしたサービスが貿易収支の赤字を上まわる収益を生み出したのである。
その背後に保険・商社業務などの優れたノウ・ハウがあったことはいうまでもない。
が、それに加えて見逃せないのが、イギリスの海軍力である。強力な海軍に支えられて、イギリスの商船団は世界の海を自由に航行した。正に大英帝国は、「七つの海」を制覇したのである。
圧倒的な生産力を誇る「世界の工場」、「七つの海の制覇」が生み出す大幅な非貿易収支黒字、海外への資本輸出(貸付)をコントロールするロンドン国際金融市場の繁栄。これが壮年期イギリス経済を支えた三本の柱であった。<P53>


■「戦艦と軍旗」の代替物としての「マクロ経済学」

十九世紀にはケインズ的な「マクロ経済政策」は存在しなかったし、多くの経済活動は「私企業」によってなされていた。しかしだからといってそれは決して「自由放任」の経済ではなかった。多くの政府は「戦艦と軍旗」によって需要をつくり出していたのである。二十世紀の「マクロ経済政策」は、力による需要創出がもはや不可能になったとき、それに代わるべきものとして登場したのである。<P60>


■共同体を内破する「不均衡」

われわれの住む社会、そして経済にとってインフレが重要な問題になるのは、現実の物価上昇は必ず不均衡であり、そのプロセスで富と所得の不当な再配分が行なわれるからである。<P84>
※第一次世界大戦後のヨーロッパを襲った激しいインフレは、「金利生活者」の没落を決定的にした。ケインズはこの「中産階級」の没落を目の当たりにして、「ほとんど全ての良きものを生み出してきた中産階級が、ヨーロッパ中で貧しくなるなら、やがて科学も芸術も衰退していくにちがいない」と哀惜の念を吐露している。
「企業家」は、インフレによって「棚ぼた」式の超過剰利潤を享受した。これはしかし、企業家にとって、けっしてプラスになることではない。ケインズはその理由についてこう書いている―「まともな人なら、自分より豊かな連中がギャンブルで財を成したなどという事に我慢できないだろう。企業家を暴利を貪る悪党に変えることは、資本主義にとって致命的なことなのだ。何故ならそれは、企業家の得る高い報酬を人々に納得させてきた心理的な均衡を破壊してしまうからである。……企業家が社会に受け入れられるのは、彼の手にする利潤が何らかの意味で社会への貢献に対応していると考えられているからである」。


■HV=((C/D)+(R/D)/(C/D)+1)PT

フィッシャーの数量方程式は、貨幣数量M、物価水準P、実質取引量T、そして「貨幣の流通」Vの間に成立する次のような関係である。
MV=PT
(中略)数量方程式MV=PTにおいて、Vが一定、TがMから独立であれば、MがPにどのような影響を与えるかは自明である。貨幣量Mが20%増大すれば、それは物価Pを20%上昇させる。貨幣量が二倍になれば、物価が二倍になる。貨幣数量の変化は、物価を比例的に変える。これが貨幣数量説のよく知られた結論である。リカードも、フィッシャーもこの結論を強調した。
『貨幣改革論』において、ケインズは貨幣数量説を自らの拠って立つべき「基本的な理論」として受け入れた。しかしいくつかの重要な点で、ケインズの理論は、リカードやフィッシャーと異なる。

まず第一に「貨幣」と一口に言っても、バンク・オブ・イングランドが直接その数量をコントロールできる銀行券や金貨はほんの一割程度にすぎない。貨幣の九割を占める民間銀行の預金は、銀行の信用供与(貸出)によって創り出される。(中略)彼は貨幣数量説を次のように修正する。貨幣数量Mは、非銀行部門(企業・家計)が保有する銀行券・金貨など「現金通貨」Cと「預金」Dから成る。
M=C+D

一方銀行は、預金の一部を準備金Rとして銀行券・金貨の形で保有する。CとRの和は、バンク・オブ・イングランドの外にある銀行券・金貨の総量(これは今日われわれが「ハイパワードマネー」Hと呼ぶものに相当する)になるが、H(C+R)とMの間にはその定義から次のような関係が成立する。
M/H=(C/D)+1/C+D/C+R=(C/D)+(R/D)
この式のHを右辺に移項し、Mを先の数量方程式MV=PTに代入・整理すれば結局次の式がえられる。
HV=((C/D)+(R/D)/(C/D)+1)PT
この式においてバンク・オブ・イングランドが直接コントロールできるのは、ハイパワードマネーHである。
リカード・フィッシャーによって強調された貨幣数量説の単純な結論が成り立つためには、Hが変わった時、TやVと並んでC/DやR/Dも不変に保たれなければ成らない。(中略)

リカード、フィッシャーの考え方に立てば、物価Pを安定させるためには、中央銀行からのハイパワードマネーHを安定させればよい。ケインズは貨幣数量説の妥当性を認めながらもこうした考え方を否定する。
彼は同じ数量方程式において、流通速度Vや実質取引高Tを出発点にとった。その上で、放置すれば変化するであろう物価Pを、ハイパワード・マネーHや準備率R/Dの変化を通して安定化すること、これこそが金融政策の役目だと主張したのである。
<P88>


■購買力平価。為替レートの不安定は「投機の不足」に起因する。

変動する為替レートには全くアンカーが存在しないのか。金本位制に復帰するにしても、どのようなレートで復帰するのがよいのか。
こうした問に答えるためには、何らかの意味で「適正な」為替レートの水準を知る必要がある。この「均衡為替レート」に関する最も広く受け入れられている理論が「購買力平価」にほかならない。

購買力平価は、スウェーデンの経済学者カッセル(1866-1945)によって最初に提唱された(1918年)。『貨幣改革論』でケインズは、実証分析も交えながらこの理論に彫琢を加えた。
購買力平価とは、「貿易財について国際的な一物一価を成立させるような為替レート」ということができる。(中略)

為替レートの大まかな動きは購買力平価で説明できるにしても、現実の為替レートは折にふれてそれから乖離している。ケインズはとりわけ現実のレートに観察される季節的な変動を重視した。そして為替レートにこのような季節変動がみられるのは、外国為替市場において「投機」が不足しているからだと指摘した。(中略)
「投機」に関する世間の常識は、価格を不安定にするというものであろう。経済学者の考え方は逆である。投機家が利潤を手にするためには、安い時に買い(したがって価格を上げ)、高い時に売る(したがって価格を下げる)ことが必要である。したがって投機は、それが存在しない場合に比べて、価格の変動幅を小さくするのである。<P93>


■アニマル・スピリッツ

ケインズによれば、経済の成長と循環を生み出す投資を左右するのは、結局のところ「アニマル・スピリッツ」である。「アニマル・スピリッツ」という言葉は、元々中世医学で自律神経など運動を司る目に見えないスピリッツ(霊)を意味していたという。やがてそれはケインズが用いているような「衝動」へと転意した。ケインズがケンブリッジ大学一年生の時につくったデカルト「情念論」に関するノートにも、「アニマルスピリッツ」という言葉が登場する。「アニマル・スピリッツは常に動いている。われわれの意志はただその方向を定めるだけである。」デカルト哲学においては、正しい認識へと導く「理性」に対して、ケインズが「アニマル・スピリッツ」という言葉で要約した「衝動」は、それだけではわれわれを誤りと後悔へ導くものであるにすぎない。
コレに対してケインズは何も投資が不合理な気まぐれで行なわれる、という事を言おうとして「アニマル・スピリッツ」という言葉を用いているわけではない。企業の投資行動は、いかに合理的な計算を装っても究極のところで「アニマル・スピリッツ」に依存している事実を強調しているのである。「もしアニマル・スピリッツが衰え、投資が計算な可能な期待収益にのみ依存するようになったとしたら、企業は衰退するにちがいない。」<P152>