花房東洋情報 大愚叢林

大愚記 花房東洋 

大 愚 言 ・生まれつきの時代劇馬鹿だった 大愚叢林庵主 大愚東洋

2017年07月09日 22時52分57秒 | 大愚言
書類の整理をしていたら、一冊の古い絵日記が出てきた。
それは、僕が小学一年の夏休みに宿題として描いたものであった。(末尾添付)その中には「笛吹童子」や「紅孔雀」、「怪傑黒頭巾」から「白虎隊」まで出てきて懐かしい。
どうやら当時は、時代物の映画や本をやたら観ていたようだ。遊びもチャンバラばっかりしていたのが、よく分かる。
そして、この絵日記に附記されていた担任の先生の所感を読んで、愕然とした。
そこには、こう記述されている。

むかしのさむらいのまねをすることはありません。そんなことばかりかんがえていると「おひげ」が生えてきますよ。げんしけんびきょうやひこうき、でんぱなどたくさんあたらしいことばかりがうまれてきています。うしろばかりみないでもっと前ばかりをみているほうが、よいとおもいます。おしばいやえいがは見るもので、まねをするものではありません。もうすこし自分のせなければならないことを考えて、「しょうわ」の人になってください。

嗚呼、宜なるかな、先生の予言は正に的中した。
先生の教えを守らないで、うしろばかりみてきた所為で、とうとう「おひげ」が生えてしまった。
そして、未だ平成はおろか「しょうわ」の人にすらなりきれていない。
そして今、「ホンモノの時代劇づくり」を最後の御奉公と思い定め、残生を賭して専念している。
「三ツ子の魂百まで」というが、これは生まれつきの性分、一生直らないと、つくづく観念した。

それはともかく、多くの人が前ばかりみて進んだ結果、今や自由圏と共産圏の対立、人口増加と食糧不足の矛盾など世界の現状は人類的危機にさらされている。
これらの要因は、自然を征服し、宇宙を支配するという西洋思想にあり、これから明日に向けては、むしろ自然そのものと不二一体となるところに真の平安があり、幸福があるとした東洋思想が希求されるようになる。

この極大の果てに極小があり、無の中に一切があり、見えざるものこそ、見えるものの根源とする理論物理学の究極にある霊性の宇宙観こそ明日の文明原理となるのであろうことを僕は確信する。

(平成二十九年七月三十日認)




















(平成二十九年七月十日認)

大 愚 言 ・時代劇馬鹿の夢は明日に翔ける  大愚叢林庵主 大愚東洋

2017年07月03日 22時59分53秒 | 大愚言
予てより企画製作していた映画「輪違屋糸里 ―京女たちの幕末― 」がようやく完成した。
先の大愚言(平成二十八年八月一日付)で

いま「時代劇の再生は日本の再生」と確信し、膨大な製作費のアテも算段もなく、浅田次郎原作「輪違屋糸里」の映画化を企画し、採算を度外視して「ホンモノの時代劇づくり」に挑んでいる。
 満洲映画協会の理事長であった甘粕正彦の辞世の句「大博奕身ぐるみ脱いですってんてん」の心境である。
と述べている。
「すってんてん」は素より覚悟の上であったが、時代劇というものは大層お金のかかるもので、江戸時代なら八百両を上回る借財が出来てしまった。
しかし、人様に迷惑をかけていないことが唯一の救いである。
残念なことは「ホンモノの時代劇づくり」を目指し、志を共にしてきた仲間の一部が去っていったことだ。

わが大愚叢林では

 人の悪口を言うな
 自分の悪口は聞き流せ

と伝えている。
生来、僕は人と比べたり、人のことは気にしないタチなので「人の悪口」は言ったこ
とがない。
しかし「自分の悪口」は中々厄介なもので、聞き流すのは難しい。

人は、自分が責任を果たせなくて離脱していくとき大体、自分を正当化・自己弁護するために「悪口」を言うものである。
「後足で砂をかける」とはよく言ったもので、犬や猫は自分のした糞を隠すために後足で砂をかける。
人には後足はないのだが、そういった類いの人は「悪口」で自分のした「糞」を隠そうとする。

僕の人生は、生きるか死ぬかの運動の日々であったので、この類いの人の裏切りには慣れている。
とはいえ折角、映画が完成して愉しい気分なのに、そういう「悪口」を聞くと興醒めてしまう。
しかし、多くの仲間や関係者が支えてくれて、会心の時代劇を完成することができた。

完成披露会では

「日本人のDNAが呼び起こされた」
「若い日本人に観てもらいたい映画だ」
「始めて時代劇を観たが時代劇が好きになった」
「幕末の女性が強く逞しく生きる姿を見て勇気づけられた」

などと多くの好評を得て、「すってんてん」になっても、「悪口」を言われても、映画を創ってよかった、とつくづく思う。

こうなると、時代劇馬鹿は俄然馬鹿の本領を発揮して、心は既に次回作に翔けている。

(平成二十九年七月五日認)