元警視庁捜査一課長
日本協会会長
「法然上人教えを信じて地獄に墜ちるのは本望である」法然上人を一途に信じ従って仏道に精進した親鸞の言葉です
花房東洋氏を思う時、三上卓を生涯の師として仰ぎ、師の一言を純粋に遵守し、愚直に道を求めている花房氏と親鸞がダブります。
花房氏が「生長の家」の先輩の紹介により、練馬富士見町の三上宅を訪問したのは、昭和四〇年、花房氏が一八歳の時でした。
五・一五事件の首魁であり、「青年日本の歌」の作者の住まいにしては貧弱、しかも初めて面談する三上先生は柔和、もの静かで寡黙であることにカルチャーショックを受けました。
「三上先生」と言いますと、傍に居た夫人が「先生と呼ばないで下さい この人は殺人者ですよ」とにこやかに云われ、当人もにこやかに聞き流しておられる。
三時間余滞在しましたが、さしたる言葉のやり取りは無く、静かに時が流れました。肩の力が抜けた自然体で、大人格者の風格、えも言われぬオーラが出ている先生にすっかり魅せられ、生涯の弟子になることを誓います。
以後、手紙で教えを乞い、ハガキで回答を頂きながら指導を受け続けていました。
昭和四二年、二〇歳の時、意を決して自分の将来の進路について指示を仰ぎます。師は何も言わず、静寂が続きます。三時間後……
「岐阜へ行け」
と一言。なぜ「岐阜」なのか、その理由は一切言われません。花房氏も聞きません。「ハイ!!」と一言返事をしてこれを受け止めます。
これぞ男と男のやりとり、男同士に無駄な言葉は不要。
この一幕に私は感動します。言葉の持つ重みを思います。
見ず知らずの地、岐阜に赴きます。デザインの特技を生かして生計を立て、漸次人脈を拓き、道を求めて岐阜の地に根を下ろしていきます。
四年後、三上先生は六六歳で急逝されます。
結局「岐阜へ行け」と言われたその理由を聞くことは出来ませんでした。
師が亡くなった以上、岐阜から離れ、自由の身になればいいと普通は思いますが、花房氏はあくまでも師の言葉を遵守し、四五年これを貫いておられます。一度師と決めた以上、その師の言葉を忠実に守り通す、その純粋さ、一徹さに敬服します。
「師匠の言われた意味が分かってきたような気がします」と花房氏は言いますが、明言はしません。
師の言葉を忠実に守り通した、その歩みこそが、今の「花房東洋」という人格を形成したものと思います。
花房氏との出会いは今年(平成二三年)の九月四日です。
下呂温泉で行なわれた「楠公回天祭」に参加した際、偶々畏友の村瀬博一氏(島津書房社長)から「下呂温泉にいるのであれば、岐阜市に花房東洋という一角の人物がいます。是非会われるべし」として紹介されたことによります。
花房氏とは面識がありませんでしたが、岐阜駅に降りた時、改札口で待っておられた一見して道士の雰囲気をもっておられる人物こそ花房氏と判別しました。
花房氏の拠点である、真砂町の大夢館に案内されました。まさしく勤王の日本男児の館、各部屋を案内されましたが、随所に三上卓先生の書が掲げられ、三上先生を信奉しておられることがよく分かります。
二時間ばかり懇談してすっかり意気投合、「次回は剣菱熱爛にて一献を!」
と約しました
二ヶ月後の一一月一九日午後七時半、大夢館を訪問「同志と飲む酒は剣菱熱爛」、旁らには爛をする女性と、花房氏の同志長谷川裕行氏(同氏は飲酒せず)、肴は雪見鍋、盃を重ねるにつれて意気投合、肝胆相照らし、話が弾みます。気がつけば、剣菱二升が空、更に盃を重ねること幾杯? 心地よく酔い、同志としての絆を深めました。
花房氏と会ったのは二回だけですが、数十年来の知己の如し、得難い同志を得たことを有り難く思っています。
この度、自伝「大愚記」を上梓されたことを機に益々精進され、師・三上卓という満月を超える「花房東洋という月」を満たされます様期待致します。
日本協会会長
「法然上人教えを信じて地獄に墜ちるのは本望である」法然上人を一途に信じ従って仏道に精進した親鸞の言葉です
花房東洋氏を思う時、三上卓を生涯の師として仰ぎ、師の一言を純粋に遵守し、愚直に道を求めている花房氏と親鸞がダブります。
花房氏が「生長の家」の先輩の紹介により、練馬富士見町の三上宅を訪問したのは、昭和四〇年、花房氏が一八歳の時でした。
五・一五事件の首魁であり、「青年日本の歌」の作者の住まいにしては貧弱、しかも初めて面談する三上先生は柔和、もの静かで寡黙であることにカルチャーショックを受けました。
「三上先生」と言いますと、傍に居た夫人が「先生と呼ばないで下さい この人は殺人者ですよ」とにこやかに云われ、当人もにこやかに聞き流しておられる。
三時間余滞在しましたが、さしたる言葉のやり取りは無く、静かに時が流れました。肩の力が抜けた自然体で、大人格者の風格、えも言われぬオーラが出ている先生にすっかり魅せられ、生涯の弟子になることを誓います。
以後、手紙で教えを乞い、ハガキで回答を頂きながら指導を受け続けていました。
昭和四二年、二〇歳の時、意を決して自分の将来の進路について指示を仰ぎます。師は何も言わず、静寂が続きます。三時間後……
「岐阜へ行け」
と一言。なぜ「岐阜」なのか、その理由は一切言われません。花房氏も聞きません。「ハイ!!」と一言返事をしてこれを受け止めます。
これぞ男と男のやりとり、男同士に無駄な言葉は不要。
この一幕に私は感動します。言葉の持つ重みを思います。
見ず知らずの地、岐阜に赴きます。デザインの特技を生かして生計を立て、漸次人脈を拓き、道を求めて岐阜の地に根を下ろしていきます。
四年後、三上先生は六六歳で急逝されます。
結局「岐阜へ行け」と言われたその理由を聞くことは出来ませんでした。
師が亡くなった以上、岐阜から離れ、自由の身になればいいと普通は思いますが、花房氏はあくまでも師の言葉を遵守し、四五年これを貫いておられます。一度師と決めた以上、その師の言葉を忠実に守り通す、その純粋さ、一徹さに敬服します。
「師匠の言われた意味が分かってきたような気がします」と花房氏は言いますが、明言はしません。
師の言葉を忠実に守り通した、その歩みこそが、今の「花房東洋」という人格を形成したものと思います。
花房氏との出会いは今年(平成二三年)の九月四日です。
下呂温泉で行なわれた「楠公回天祭」に参加した際、偶々畏友の村瀬博一氏(島津書房社長)から「下呂温泉にいるのであれば、岐阜市に花房東洋という一角の人物がいます。是非会われるべし」として紹介されたことによります。
花房氏とは面識がありませんでしたが、岐阜駅に降りた時、改札口で待っておられた一見して道士の雰囲気をもっておられる人物こそ花房氏と判別しました。
花房氏の拠点である、真砂町の大夢館に案内されました。まさしく勤王の日本男児の館、各部屋を案内されましたが、随所に三上卓先生の書が掲げられ、三上先生を信奉しておられることがよく分かります。
二時間ばかり懇談してすっかり意気投合、「次回は剣菱熱爛にて一献を!」
と約しました
二ヶ月後の一一月一九日午後七時半、大夢館を訪問「同志と飲む酒は剣菱熱爛」、旁らには爛をする女性と、花房氏の同志長谷川裕行氏(同氏は飲酒せず)、肴は雪見鍋、盃を重ねるにつれて意気投合、肝胆相照らし、話が弾みます。気がつけば、剣菱二升が空、更に盃を重ねること幾杯? 心地よく酔い、同志としての絆を深めました。
花房氏と会ったのは二回だけですが、数十年来の知己の如し、得難い同志を得たことを有り難く思っています。
この度、自伝「大愚記」を上梓されたことを機に益々精進され、師・三上卓という満月を超える「花房東洋という月」を満たされます様期待致します。