いつの日か還る
新撰組で一番大きい男
島田魁ときいてなんとなく新撰組にいたな。と思う人くらいはいるだろう。それもそのはず。新撰組内では至って地味。身長182センチ体重170キロの巨漢。現在でいえば力士のような体格をした地味な監察方。しかしながらこの男、意外なエピソードが多く味のある人生を送った。そんな中でも私が好きなシーンを掻い摘んで紹介します。
免許皆伝
力自慢の島田魁。新撰組内での渾名は「力さん」そのまんまですね。今も昔も渾名なんてそんなものかと。この力士のような男は実はかなりの剣術使いでして故郷大垣藩から江戸に出てから「心形刀流 伊庭道場」に通っていた。この道場の師範代幕臣の坪内主馬の従事として仕え剣術を磨いていた。圧倒的なパワーで相手を寄せ付けずなんと数年で免許皆伝。その他にも鎗術も通っており、後に新撰組で合流する「谷万作、谷三十郎」の種田流鎗術でも免許皆伝になったほどの腕前だった。新撰組の華々しい池田屋や蛤御門での戦闘に剣士と参加して実績を残していた。常に冷静だったため池田屋では騒動の後すぐに池田屋内に隠してあった武器や弾薬も押収したのもこの力さんだった。近藤勇に報告したが近藤は「平隊士を使って運び出せ」と。しかし平隊士たちはこの戦闘直後の事で疲れ切っていてその場に座り込んでいる者ばかり。近藤達幹部は激高したまま酒を飲んでいた。人のよい力さんは平隊士に声をかけるのはかわいそうだと思い自分だけで運ぼうとするが、永倉新八が「自分たちだけ酒を飲んで平隊士にまだ仕事させると人望が落ちるぞ」とキツイ忠告をしたため一息ついたらみんなで押収した武器を運ぶ事になった。このことからか以後、近藤からあまり好かれていないんですよ。
江戸の道場通いで時代に出会ったのが「永倉新八」であり以後、新撰組として行動を共にするのである。永倉の紹介で新撰組に入隊したのだった。地味すぎて知らない人多いと思いますが、島田魁は新撰組が京都で結成された時には近藤派として参加しているんですよ。しかも、この巨漢からか意外にも芹沢鴨にも親切にされていたらしいのです。
不器用な大男
この人の本を読んでいて心がほっこりするのは愛する妻の「おさと」との出会いややり取り。
監察方として街になじむために潜入した先の丹波屋の納屋を仮住居としていた。「おさと」はこの丹波屋の養女だった。身長130センチに満たない体でしたが力さんの部屋の掃除や食事の用意などしてくれていた事がキッカケ。30歳を超えてから一般の女性と接する事になりどのような接し方をした方がいいか悩んだりしている大男の姿は想像するだけでかわいらしいだろう。そんな彼も新撰組の激務の合間を縫って「おさと」との結婚にこぎつけたのだが、意外な男が祝福をしてくれた。力さんには親戚などがほとんどいなかったため、結婚式には親しいメンバーだけ出席してもらった。永倉新八や原田佐之助など。ただ、結婚式当日を非番にしてもらうために『土方歳三』に非番許可の申し入れをしたところ、快く承諾してくれて、「何かと入用だろう」と祝儀を渡してくれた。そんな粋な行動に力さんも冷酷だと思っていた土方歳三への見かたが変わった。結婚式に呼べば良かったなと後悔すらした。以後、土方歳三との距離も近くなり、常に土方歳三の傍らにいて函館戦争まで戦い抜いた。
敗戦後
函館戦争で降伏。その後は元新選組隊士として処罰を待つ身となり名古屋で収監されたが明治3年釈放される。明治4年になって京都に戻り「おさと」や子供たちとの平穏な生活が待っていたはずだが、この大男には商売の才がなかったらしく、『レモネード』屋を始めたが全くうまくいかなかったため店をたたんだ。想像してみて下さい。平均身長160センチに満たない時代に、『レモネード』本人曰く酸っぱくてまずかった!との事。これを売るお店の店番が力士なみの大男。もちろん顔に愛想はない。今でも売れないだろうと容易に思い浮かぶだろう。最終的には「島田剣術道場」を開くのだが最初こそ門下生が多く入ったものの、時代の流れで剣術がすたれ出し門下生も減りその収入だけでは家族を養えなかったので西本願寺の夜警の仕事を掛け持ちしていた。明治17年、56歳の力さんこの年に末っ子が生まれ5男1女の大家族に。そしてこの西本願寺こそ新撰組時代に屯所としていた場所だ。まさかこのような形でここに還って来る事になるとは。しかしそこで思いがけない再開も。なんと明治19年になってから「永倉新八」が西本願寺の力さんの元を訪ねてくるのであった。その理由とは…。
と、数あるエピソードの中で私が好きなシーンを少し紹介させてもらいました。新撰組のファンの方は非常に興味を持ってくれたのではないでしょうか。不愛想な大男「島田魁」の物語を読み込んでみては如何でしょうか。
新撰組で一番大きい男
島田魁ときいてなんとなく新撰組にいたな。と思う人くらいはいるだろう。それもそのはず。新撰組内では至って地味。身長182センチ体重170キロの巨漢。現在でいえば力士のような体格をした地味な監察方。しかしながらこの男、意外なエピソードが多く味のある人生を送った。そんな中でも私が好きなシーンを掻い摘んで紹介します。
免許皆伝
力自慢の島田魁。新撰組内での渾名は「力さん」そのまんまですね。今も昔も渾名なんてそんなものかと。この力士のような男は実はかなりの剣術使いでして故郷大垣藩から江戸に出てから「心形刀流 伊庭道場」に通っていた。この道場の師範代幕臣の坪内主馬の従事として仕え剣術を磨いていた。圧倒的なパワーで相手を寄せ付けずなんと数年で免許皆伝。その他にも鎗術も通っており、後に新撰組で合流する「谷万作、谷三十郎」の種田流鎗術でも免許皆伝になったほどの腕前だった。新撰組の華々しい池田屋や蛤御門での戦闘に剣士と参加して実績を残していた。常に冷静だったため池田屋では騒動の後すぐに池田屋内に隠してあった武器や弾薬も押収したのもこの力さんだった。近藤勇に報告したが近藤は「平隊士を使って運び出せ」と。しかし平隊士たちはこの戦闘直後の事で疲れ切っていてその場に座り込んでいる者ばかり。近藤達幹部は激高したまま酒を飲んでいた。人のよい力さんは平隊士に声をかけるのはかわいそうだと思い自分だけで運ぼうとするが、永倉新八が「自分たちだけ酒を飲んで平隊士にまだ仕事させると人望が落ちるぞ」とキツイ忠告をしたため一息ついたらみんなで押収した武器を運ぶ事になった。このことからか以後、近藤からあまり好かれていないんですよ。
江戸の道場通いで時代に出会ったのが「永倉新八」であり以後、新撰組として行動を共にするのである。永倉の紹介で新撰組に入隊したのだった。地味すぎて知らない人多いと思いますが、島田魁は新撰組が京都で結成された時には近藤派として参加しているんですよ。しかも、この巨漢からか意外にも芹沢鴨にも親切にされていたらしいのです。
不器用な大男
この人の本を読んでいて心がほっこりするのは愛する妻の「おさと」との出会いややり取り。
監察方として街になじむために潜入した先の丹波屋の納屋を仮住居としていた。「おさと」はこの丹波屋の養女だった。身長130センチに満たない体でしたが力さんの部屋の掃除や食事の用意などしてくれていた事がキッカケ。30歳を超えてから一般の女性と接する事になりどのような接し方をした方がいいか悩んだりしている大男の姿は想像するだけでかわいらしいだろう。そんな彼も新撰組の激務の合間を縫って「おさと」との結婚にこぎつけたのだが、意外な男が祝福をしてくれた。力さんには親戚などがほとんどいなかったため、結婚式には親しいメンバーだけ出席してもらった。永倉新八や原田佐之助など。ただ、結婚式当日を非番にしてもらうために『土方歳三』に非番許可の申し入れをしたところ、快く承諾してくれて、「何かと入用だろう」と祝儀を渡してくれた。そんな粋な行動に力さんも冷酷だと思っていた土方歳三への見かたが変わった。結婚式に呼べば良かったなと後悔すらした。以後、土方歳三との距離も近くなり、常に土方歳三の傍らにいて函館戦争まで戦い抜いた。
敗戦後
函館戦争で降伏。その後は元新選組隊士として処罰を待つ身となり名古屋で収監されたが明治3年釈放される。明治4年になって京都に戻り「おさと」や子供たちとの平穏な生活が待っていたはずだが、この大男には商売の才がなかったらしく、『レモネード』屋を始めたが全くうまくいかなかったため店をたたんだ。想像してみて下さい。平均身長160センチに満たない時代に、『レモネード』本人曰く酸っぱくてまずかった!との事。これを売るお店の店番が力士なみの大男。もちろん顔に愛想はない。今でも売れないだろうと容易に思い浮かぶだろう。最終的には「島田剣術道場」を開くのだが最初こそ門下生が多く入ったものの、時代の流れで剣術がすたれ出し門下生も減りその収入だけでは家族を養えなかったので西本願寺の夜警の仕事を掛け持ちしていた。明治17年、56歳の力さんこの年に末っ子が生まれ5男1女の大家族に。そしてこの西本願寺こそ新撰組時代に屯所としていた場所だ。まさかこのような形でここに還って来る事になるとは。しかしそこで思いがけない再開も。なんと明治19年になってから「永倉新八」が西本願寺の力さんの元を訪ねてくるのであった。その理由とは…。
と、数あるエピソードの中で私が好きなシーンを少し紹介させてもらいました。新撰組のファンの方は非常に興味を持ってくれたのではないでしょうか。不愛想な大男「島田魁」の物語を読み込んでみては如何でしょうか。