先日、『15 MINUTES MADE VOLUME 5』という公演を池袋まで観にいった。
ぼくの所属しているサークルのOB劇団が出ていたので、
けっこう知り合いなども出ていたのだけど、
どの劇団も、劇団としてのプライドをもって臨んでいて、雰囲気は甘くなかった。
合計6つの劇団が出展(出展、だろうなあ)していて、休憩を挟んで3団体ずつ、
前半、後半にわけられていたのだけど、
ぼくが疲れてしまったせいか、お腹をすかせてしまったせいか、
後半はさほど、面白くなかった。
前半の3団体(Mrs.fictions、ジエン社、MOKK)には共通の思想を感じた。
「想像力」の問題について、それぞれがそれぞれの表現をしていたように思う。
Mrs.fictionsは、劇団名そのままに、「あくまでフィクションである」ことから
物語としての意義を成立させようとしていた。
「松任谷由美」という実在の人物を描いているという体裁でありながら、
それはまったく、悪ふざけのすぎたフィクションに過ぎなくて、
それでも、フィクションとして生まれてしまった「偽」松任谷由美に、
ぼくたちは感情移入をしてしまうので、
彼女を「贋物だから」という理由で葬り去ることは、とてもできない。
フィクションが実在として、誕生してしまった。この大変な事実に眼を向けさせられる。
周到で、完成度の高い作品だったと思う。一番好きだった。
二番手のジエン社が、先輩の劇団であったわけだけど、
「観客が勝手に想像して線引きをする空間」を引き裂く演出だけで、
ぼくの思考はそっちばっかになってしまった。
つまり、舞台上に二つの空間を作っておきながら、
その空間の違いを、時々無視する。
ふたりは違う場所にいるはずなのに、なぜか触れられる。
こういう演出は、さほど目新しいものではないけれど、
そういう演出にびっくりしてしまうのは、
ぼくらが勝手に想像する高度な脳みそを持ってしまっているからだ。
「お前はつまりは人間なんだ」と言われた気がした。
勝手に思っただけだけど。
三作め、MOKKはコンテンポラリーダンスだった。
ろうそくの火からはじまって、肉体の野生をみせる、荒々しいダンス。
でも時々理性があって、理性と野生の対立構造もつくる。
けど、この理性と自然の関係は、なぜか見ていてとても不快だった。
というのも、ぼくは自分の中の自然がとても不快で、
自分の心臓の鼓動にすら、嫌悪感を感じるときがある。
なぜかというと、自分の中に自然を見出すということは、
自分が微量の電気や化学物質の増減で動いていることを知ることであって、
そこにある椅子やテレビや冷蔵庫と大差ないことを思い知らされるからである。
ぼくは自分のなかの自然にとても敏感だ。
しかし世間一般は、自然に鈍感な傾向にあるらしい。
ぼくらの年代にリストカットや身体改造が流行ったことがそれを証明している。
MOKKの描いた自然と理性は、この世間一般の感覚に立脚しているように感じた。
とても不快だった。しかし不快に感じるのは、それが自分にとってよい作品だったということだ。
後半三つは、特に何も感じるところはなかった。
青☆組は、このような演劇形態(いかにも、お芝居、という)が
未だに行われていることに驚きはしたが、それだったら三谷幸喜を見るなあ、と思ってしまう。
東京ネジは、漱石の『夢十夜』第一夜を題材にしていたが、
日数の数え方がワン・トゥー…というビートに乗せたカウントダウンで、
そのリズム感覚に違和感を感じた。
それと、「郊外の団地で生まれ育った」ような感覚が、
ぼくのなかにあんまりないので、白々しく思ってしまった。
トリのDULL-COLORED POPは、特筆すべきことがあまりなく思った。
総合的に考えると、結局、自分の思考材料になるものだけ持ち帰った感じだった。
あまりいい観劇をしているとはいえない。反省したいなあ。
来週、能を観にいく。人生二回目の、生で観る能だ。そこでは健全にお芝居を観られる気がする。
能は次の世紀のひとたちでもぼくらと同じように楽しんでるだろうからね。
ぼくの所属しているサークルのOB劇団が出ていたので、
けっこう知り合いなども出ていたのだけど、
どの劇団も、劇団としてのプライドをもって臨んでいて、雰囲気は甘くなかった。
合計6つの劇団が出展(出展、だろうなあ)していて、休憩を挟んで3団体ずつ、
前半、後半にわけられていたのだけど、
ぼくが疲れてしまったせいか、お腹をすかせてしまったせいか、
後半はさほど、面白くなかった。
前半の3団体(Mrs.fictions、ジエン社、MOKK)には共通の思想を感じた。
「想像力」の問題について、それぞれがそれぞれの表現をしていたように思う。
Mrs.fictionsは、劇団名そのままに、「あくまでフィクションである」ことから
物語としての意義を成立させようとしていた。
「松任谷由美」という実在の人物を描いているという体裁でありながら、
それはまったく、悪ふざけのすぎたフィクションに過ぎなくて、
それでも、フィクションとして生まれてしまった「偽」松任谷由美に、
ぼくたちは感情移入をしてしまうので、
彼女を「贋物だから」という理由で葬り去ることは、とてもできない。
フィクションが実在として、誕生してしまった。この大変な事実に眼を向けさせられる。
周到で、完成度の高い作品だったと思う。一番好きだった。
二番手のジエン社が、先輩の劇団であったわけだけど、
「観客が勝手に想像して線引きをする空間」を引き裂く演出だけで、
ぼくの思考はそっちばっかになってしまった。
つまり、舞台上に二つの空間を作っておきながら、
その空間の違いを、時々無視する。
ふたりは違う場所にいるはずなのに、なぜか触れられる。
こういう演出は、さほど目新しいものではないけれど、
そういう演出にびっくりしてしまうのは、
ぼくらが勝手に想像する高度な脳みそを持ってしまっているからだ。
「お前はつまりは人間なんだ」と言われた気がした。
勝手に思っただけだけど。
三作め、MOKKはコンテンポラリーダンスだった。
ろうそくの火からはじまって、肉体の野生をみせる、荒々しいダンス。
でも時々理性があって、理性と野生の対立構造もつくる。
けど、この理性と自然の関係は、なぜか見ていてとても不快だった。
というのも、ぼくは自分の中の自然がとても不快で、
自分の心臓の鼓動にすら、嫌悪感を感じるときがある。
なぜかというと、自分の中に自然を見出すということは、
自分が微量の電気や化学物質の増減で動いていることを知ることであって、
そこにある椅子やテレビや冷蔵庫と大差ないことを思い知らされるからである。
ぼくは自分のなかの自然にとても敏感だ。
しかし世間一般は、自然に鈍感な傾向にあるらしい。
ぼくらの年代にリストカットや身体改造が流行ったことがそれを証明している。
MOKKの描いた自然と理性は、この世間一般の感覚に立脚しているように感じた。
とても不快だった。しかし不快に感じるのは、それが自分にとってよい作品だったということだ。
後半三つは、特に何も感じるところはなかった。
青☆組は、このような演劇形態(いかにも、お芝居、という)が
未だに行われていることに驚きはしたが、それだったら三谷幸喜を見るなあ、と思ってしまう。
東京ネジは、漱石の『夢十夜』第一夜を題材にしていたが、
日数の数え方がワン・トゥー…というビートに乗せたカウントダウンで、
そのリズム感覚に違和感を感じた。
それと、「郊外の団地で生まれ育った」ような感覚が、
ぼくのなかにあんまりないので、白々しく思ってしまった。
トリのDULL-COLORED POPは、特筆すべきことがあまりなく思った。
総合的に考えると、結局、自分の思考材料になるものだけ持ち帰った感じだった。
あまりいい観劇をしているとはいえない。反省したいなあ。
来週、能を観にいく。人生二回目の、生で観る能だ。そこでは健全にお芝居を観られる気がする。
能は次の世紀のひとたちでもぼくらと同じように楽しんでるだろうからね。