義仲館には木曽義仲に関する事を詳しく紹介している資料館です。信濃の国にも”朝日将軍義仲も~”で歌われているわけですが、実際木曽義仲はこの信濃で生まれたわけではありません。
久寿元年(1154年)、源義賢の次男として武蔵国大蔵館(現在の埼玉県)に生まれました。幼名は駒王丸といいます。駒王丸2歳の時に、父親が源氏内の対立で殺害されると、畠山重能、斉藤実盛らの温情により信濃の木曽へ逃れます。そしてそこの豪族である中原兼遠の養育を受けることになりました。そこで元服をし、通称、木曽次郎義仲と名乗るようになります。なお義仲の愛妾である巴御前とは、この中原兼遠の娘なのです。
1180年、平清盛と対立していた後白河法皇の皇子である以仁王が、全国に令旨を発し、叔父の新宮行家が挙兵を促すと、義仲はこれに応じます。旗揚げ後、越後に向けて進撃する義仲軍は倶利伽羅峠で、火牛の計を用いて平家の大軍を撃滅させます。
京都に入った義仲は後白河法皇より”朝日将軍”というくらいを拝領します。しかしこの名は、この時突然に後白河法皇により創られたものであり、全く前例のないものです。義仲が征夷大将軍を欲するのを牽制するために創られたといわれています。
その後、京都の治安回復などに失敗し、徐々に後白河法皇と距離が離れていってしまいます。後白河法皇は義仲を京都より追い出そうと、西国の平氏追討を命じます。やけくそになった義仲は法王を幽閉し自ら政権を握り征夷大将軍になります。
しかしまもなく、後白河法皇の策により源範頼、源義経ら鎌倉軍が攻め寄せてきます。京都の防備を固め鎌倉軍との開戦に望んだが、法皇幽閉などの暴挙を行った義仲のもとから次々に兵士は逃亡してしまいます。そして宇治川の戦いにて義仲自身も戦死をしてしまいます。享年31歳でした。
館の入り口にある巴御前と木曽義仲の像となります。
周りには義仲の旗印でしょうか??家紋関係はまだまだ勉強不足であります。
久寿元年(1154年)、源義賢の次男として武蔵国大蔵館(現在の埼玉県)に生まれました。幼名は駒王丸といいます。駒王丸2歳の時に、父親が源氏内の対立で殺害されると、畠山重能、斉藤実盛らの温情により信濃の木曽へ逃れます。そしてそこの豪族である中原兼遠の養育を受けることになりました。そこで元服をし、通称、木曽次郎義仲と名乗るようになります。なお義仲の愛妾である巴御前とは、この中原兼遠の娘なのです。
1180年、平清盛と対立していた後白河法皇の皇子である以仁王が、全国に令旨を発し、叔父の新宮行家が挙兵を促すと、義仲はこれに応じます。旗揚げ後、越後に向けて進撃する義仲軍は倶利伽羅峠で、火牛の計を用いて平家の大軍を撃滅させます。
京都に入った義仲は後白河法皇より”朝日将軍”というくらいを拝領します。しかしこの名は、この時突然に後白河法皇により創られたものであり、全く前例のないものです。義仲が征夷大将軍を欲するのを牽制するために創られたといわれています。
その後、京都の治安回復などに失敗し、徐々に後白河法皇と距離が離れていってしまいます。後白河法皇は義仲を京都より追い出そうと、西国の平氏追討を命じます。やけくそになった義仲は法王を幽閉し自ら政権を握り征夷大将軍になります。
しかしまもなく、後白河法皇の策により源範頼、源義経ら鎌倉軍が攻め寄せてきます。京都の防備を固め鎌倉軍との開戦に望んだが、法皇幽閉などの暴挙を行った義仲のもとから次々に兵士は逃亡してしまいます。そして宇治川の戦いにて義仲自身も戦死をしてしまいます。享年31歳でした。
館の入り口にある巴御前と木曽義仲の像となります。
周りには義仲の旗印でしょうか??家紋関係はまだまだ勉強不足であります。