毘沙門道中記

長野県を中心にお城や古戦場跡など古代のロマンを追いつつ、お寺や名水などの
観光名所なども巡っていきたいと思います!!

28 義仲館

2007-08-27 21:06:48 | Weblog
 義仲館には木曽義仲に関する事を詳しく紹介している資料館です。信濃の国にも”朝日将軍義仲も~”で歌われているわけですが、実際木曽義仲はこの信濃で生まれたわけではありません。
 久寿元年(1154年)、源義賢の次男として武蔵国大蔵館(現在の埼玉県)に生まれました。幼名は駒王丸といいます。駒王丸2歳の時に、父親が源氏内の対立で殺害されると、畠山重能、斉藤実盛らの温情により信濃の木曽へ逃れます。そしてそこの豪族である中原兼遠の養育を受けることになりました。そこで元服をし、通称、木曽次郎義仲と名乗るようになります。なお義仲の愛妾である巴御前とは、この中原兼遠の娘なのです。
 1180年、平清盛と対立していた後白河法皇の皇子である以仁王が、全国に令旨を発し、叔父の新宮行家が挙兵を促すと、義仲はこれに応じます。旗揚げ後、越後に向けて進撃する義仲軍は倶利伽羅峠で、火牛の計を用いて平家の大軍を撃滅させます。
 京都に入った義仲は後白河法皇より”朝日将軍”というくらいを拝領します。しかしこの名は、この時突然に後白河法皇により創られたものであり、全く前例のないものです。義仲が征夷大将軍を欲するのを牽制するために創られたといわれています。
 その後、京都の治安回復などに失敗し、徐々に後白河法皇と距離が離れていってしまいます。後白河法皇は義仲を京都より追い出そうと、西国の平氏追討を命じます。やけくそになった義仲は法王を幽閉し自ら政権を握り征夷大将軍になります。
しかしまもなく、後白河法皇の策により源範頼、源義経ら鎌倉軍が攻め寄せてきます。京都の防備を固め鎌倉軍との開戦に望んだが、法皇幽閉などの暴挙を行った義仲のもとから次々に兵士は逃亡してしまいます。そして宇治川の戦いにて義仲自身も戦死をしてしまいます。享年31歳でした。

館の入り口にある巴御前と木曽義仲の像となります。



周りには義仲の旗印でしょうか??家紋関係はまだまだ勉強不足であります。

 

27 米子大瀑布

2007-08-22 21:05:17 | Weblog
 須坂にある米子大瀑布。不動滝、権現滝という2つの滝が流れ落ちるさまは壮観であり、日本の滝百選にも選定されています。
 ここへいくまでが一苦労でした。国道から林道へ入るわけですが、道が狭く、うねうね曲がりくねっていて、それでおいて対向車はいっぱいくるし・・・滝の駐車場へ行くまでに運転に気を使って疲れました。
 駐車場へ車を停めて山道へ入って行きます。滝までは約1キロ。道沿いを流れる米子川はとても綺麗です。

道がとにかくキツイ。今まで色々歩いてきましたが、ここが一番キツイと思いましたね。



 800メートルほど登ると神社が見えてきました。ここは米子不動尊といいます。千葉県の成田不動尊、新潟県菅谷の不動尊と並び、日本の三大不動尊といわれています。毎年6月14日のお山登りと9月14日のお山降りには多くの信者が集まるそうです。
 板の間の部分で休憩してる人、横になって寝ている人がいました。自分も普段途中で休んだりしませんが、この日はさすがに参ってしまって。。しばらく休みました。



 不動尊から200メートルほど登るとついにみえてきました。こちらは不動滝です。流れ落ちる水がまるで薄いカーテンみたいに見えました。思わず”おー!”と声をあげてしまいました。滝のすぐ下までいくことができます。この日はいませんでしたが、滝に打たれて修行する人もいるとのこと。
 跳ね返ってくる水しぶきというか霧状の水がとても気持ちよく感じました。



こちらは、不動滝の反対側にある権現滝です。こちら側の滝には近くへいく道はなかったので遠くから見たのみです。



両方の滝を見終わって、また山道を戻っていきます。行きとは違う道を行った訳ですが、ふいに山道がひらけて草原にでます。自分はこの景色がとても気に入りました。すごく素敵な光景とおもいました。



草原の道を歩いていき、米子大瀑布と書かれた看板がみえてきます。そこで後ろを向くと、先ほどの不動滝、権現滝の両滝を見ることができます。



歩いていくと、草原は平らになってきます。この辺りは昔は硫黄などを産出する米子鉱山があったそうで、鉱山で働く人の家や子供の通う学校などがあったそうです。最盛期にはここに1500人もの人が生活をしていたとのことです。今では何もありませんが。

で駐車場へまた山道へと入っていきます。とにかく疲れました。








26 光前寺

2007-08-18 19:20:39 | Weblog
 駒ヶ根にある光前寺。長野県屈指の大寺であり、南信州の中では随一の祈願霊場となっています。ここには”霊犬 早太郎”の伝説があります。
 今よりおよそ700年ほど前に光前寺には早太郎という強くて大きな山犬が飼われていました。その頃遠州府中(現在の静岡県磐田市)にある見付天神社では、毎年祭りの夜に一人の子女を人身御供(生贄)として神前に供えるという悲しい慣わしが続けられていました。弁存という僧は、これを救おうと祭りの様子を探ります。すると、生贄として出されて子女は老ヒヒの怪物にさらわれていることが分かり、更にその怪物は信州の早太郎を恐れているということも知りました。信州に尋ね行った弁存は光前寺の早太郎を探しだし、力を借りることになりました。
 次の祭りの日、生贄となった娘の代わりに早太郎が行き、怪物と戦います。怪物を退治した早太郎ですが、自身も傷ついてしまいました。そんな体で光前寺に戻った早太郎。和尚さんに怪物退治の報告をするかのごとく一声吠えるとそのまま息をひきとってしまいます。弁存は報恩のために大般若経を書与し、光前寺に納めます。以来、早太郎を不動明王の化身として、災難除、厄除の霊犬として今でも広く信仰を集めています。



入り口の仁王門です。



両側にある石垣の間には光苔が見えます。自分の写真ではちょっとわかりづらいですかね。。。実際はとても光っていて綺麗に見えます。



この杉並木は戸隠神社にも似た感じが伺えます。苔の絨毯もいいですね。



三門をくぐり本堂が見えてきます。



本堂の脇にある延命水。字の如く寿命が延びる???のでしょうか?とりあえず飲んどきました。



早太郎のお墓になります。参拝者の方はお墓の前で手を合わせていました。




三重塔とそのふもとにある早太郎の像。この三重塔は県指定の重要文化財になっております。



アジサイもきれいにさいていました。ここも戸隠と同じように、曇っていたり、少し雨が降っているくらいの方が神秘的でいいと思いますね!




25 建福寺

2007-08-14 12:00:48 | Weblog
 武田勝頼の母のお墓がある建福寺。その母の実名は明らかではなく、通称は諏訪御料人。新田次郎の小説の中では”湖衣姫”(諏訪湖の湖と、そこに注ぐ衣ノ渡川の衣で名づけた)といい、井上靖の小説では”由布姫”(この小説を湯布院温泉で書いたことから)と呼ばれています。今回の大河ドラマは後者である由布姫ですね。
 ”かくれなき美人”と評された諏訪御料人は天文元年(1532年)、諏訪頼重の娘として生まれます。諏訪氏が武田により滅ぼされた後、天文14年に武田晴信の側室として嫁ぎます。この時14歳。家臣達は御料人を側室に迎えるのを反対します。滅ぼした相手の姫に男子が生まれた時に、正室の産んだ男子とのお家騒動を懸念したのが1つ。子が大きくなり諏訪衆をまとめて武田に歯向かうのではと考えたのが1つ。しかし、山本勘介は、”諏訪と武田の間に子が生まれれば、諏訪は武田に従属するようになる”と反対する家臣を押えました。翌15年、勝頼が生まれると諏訪衆は大いに喜び、甲斐へ人質を差し出し、武田の譜代衆に劣らない奉公ぶりを見せるようになりました。
 弘治元年(1555年)、御料人は24歳の若さでこの世を去ってしまいます。
勝頼はこの時10歳。御料人の産んだ子供は勝頼1人だけでした。彼女のお墓は、勝頼が成長して高遠城代になると建福寺に建立されたといわれています。(一説では信玄が建てたとも)

 このお寺の創建は古く、安元2年(1176年)までさかのぼれるとのことです。衰退と復興を繰り返しながら、戦国時代に武田信玄により保護されたそうです。





3つお墓がありますね。右から、諏訪御料人、保科正直、保科正光となります。保科の2人がどういった人なのかは???自分はわかりません。武田の家臣に保科正俊という武将がいますが、その一族でいいのかな??????勉強不足です・・・

24 桂泉院

2007-08-09 20:20:29 | Weblog
高遠城内にある法憧院郭とは、もともとそこに法憧院というお寺があったのでそこからきている名前です。その後城内より出て桂泉院と名前が変わっています。この名前の変わった経緯としては、ある晩、夢の中に老人が現れ、清泉の湧口を教えた。果して桂の木の元から湧き水が出て、桂水と名づけられました。そして桂泉院と号するようになりました。




何ともなさそうなこの場所ですが、実は山本勘介が高遠城を築城にあたり、この場所に立って全体を見渡した場所だそうです。


この鐘は、織田信忠が信濃侵攻の際に下伊那の開善寺というお寺から軍鐘として奪ってきたものです。



お寺の裏を登っていくと、武田信玄の父、武田信虎のお墓があります。信玄により駿河の今川へと追放された信虎ですが、後年甲斐へ戻ろうとします。その途中高遠城により武田勝頼と対面しましたが帰国は許されず、この地で没します。信虎についてはまたそのうち詳しく紹介しましょう。

23 高遠城

2007-08-05 12:40:02 | Weblog
 高遠は代々諏訪家の領土であり、地名にならって高遠氏としているのであって本性は”諏訪氏”であります。しかも高遠氏の方が諏訪家の宗家でした。なぜ宗家の方が高遠にいるのかといいますと、事は南北朝の動乱まで遡ります。当時諏訪の惣領であった諏訪直頼は室町幕府に反抗して南朝に属します。しかし、応安5年(1372年)三代将軍足利義満の前に降伏をします。宗家である直頼の系統は高遠に移され、直頼の弟の系統が諏訪へ引き継がれました。戦国時代、諏訪頼重と高遠頼継(諏訪頼継)はこの宗家の地位をめぐって対立していきます。
 その後、武田軍の侵攻により高遠城は落城。跡には山本勘介、秋山虎繁らに命じて築かせた難攻不落の城となり伊那方面への信仰拠点となりました。
 天正10年(1582年)織田信長の信濃侵攻が始まります。高遠城に攻め入る織田軍は信長の長男信忠を総大将とする6万。対して高遠城に篭る武田軍は信玄の五男である仁科盛信を城将とする3千。武田軍は奮闘しますが城は落城。3千全てが玉砕、盛信は自分の腹をさばき、腸をつかみ出して壁に投げつけ絶命しました。

 また高遠といえば桜の名所ですね。コヒガン桜1500本は”天下第一の桜”として毎年春には多くの観光客でにぎわっています。玉砕した武田軍3千の血が桜に赤みを与えているなんていうお話もありますね。


この先は法憧院郭といい、織田軍の滝川一益はこの方面から攻め寄せてきました。


空堀  ここを登る敵に上から矢や鉄砲などを撃ち込みます。


桜雲橋  高遠のパンフレットなんかだとこの橋は必ず映りますね。


今では大駐車場として使われてるこの広場は元は勘介郭という山本勘介の作った郭の跡です。