梅干しを漬けゐし甕(かめ)に浮草を入れてメダカの届くを待てり
大小のメダカのまじる甕(かめ)のなかわれの眼(まなこ)は小さきを追ふ
メダカ飼ふ甕(かめ)にひともと咲(ひら)きたりうすむらさきの浮草の花
水草に生(う)めるメダカの卵(らん)いくつ気泡に似つつはつか光れり
水盤に浮草ふたつ浮かばせて孫の掬(すく)ひし金魚およがす
「銀次郎」と孫は名づけてデメキンの餌(え)を買ひにゆく小遣ひもちて
とろとろとまどろむ午後をデメキンが尾(お)鰭(びれ)に水を打つたかき音
老いの身の虚(うろ)に入り来て激(たぎ)らする和楽器の音まして小鼓
客席がどつと沸きたり勘三郎が大分弁に台詞(せりふ)をいひて
白塗りの勘三郎が舞台にてにやりと笑めばぞくりとしたり
五十名の奏(かな)づる笙(しょう)と篳篥(ひちりき)の音色深かり腸(はらわた)にしむ
ソーラン節の男声合唱高まれば観客席より手拍子おこる
ステージの父をみつけし男(お)の孫は指をさしつつ誇らしげに言ふ
イスラエルの歌ならひたりあらためてユダヤの民の流浪おもふ夜
盆に来し孫らが「大地讃頌(だいちさんしょう)」を四部合唱す夫(つま)聴くらむか
前傾にシンバル打ちゐし女高生フィナーレは高く手をかかげたり
祖国愛たからかに歌ふ混声の「フィンランディア」に拍手はやまず
筆ペンに万葉集をなぞりつつやまとことばに今宵は遊ぶ
脳鍛ふる音読ドリル声あげて読みてあそびぬひとりの午後を
卓の上(へ)の紙風船をふくらませひとり突きをりありのすさびに
胡瓜切る手を休ませて習ひこし太極拳を厨(くりや)に復習(さら)ふ
つかの間を吾(あ)はからつぽでゐしならむ降りるバス停気づかずに過ぐ
熱湯を注ぎて見つむティーポットに薔薇の小花のひらくたまゆら
身に過ぐる言葉のいくつ胸裡(むなうち)にしまひて手紙の束は焼やさむ
賜はりし手紙の束が庭隅にはや一条の煙となりぬ
六月の歌会の朝(あした)涼しくて縫ひしばかりの単衣(ひとえ)をまとふ
デパートの文具売り場にささやかなプレゼント選る五人の孫に
ペットボトルかたへにおきてわが体枯らさぬやうに水はやるべし
開閉式のスタジアムドーム縁のなき物と思へど見学に行く
開かれしドームいつぱい空ありて一羽のカラスがよぎりゆきたり
作業所の木にかけられしラジオより「美しき天然」風にのりくる
ブランデーの香りたちそめわが為のバースデーケーキ焼きあがるらし
ひさびさに帰りし婿につき合ひて飲みし一杯のビールに欠(あく)ぶ
お湯割りの麦焼酎を酌みかはしふたりの婿はまたも握手す
花おこす風のいたづら玄関の信楽の狸落ちて割れたり
「かはいさう」と言ひつつ割れし信楽の狸の破片 娘(こ)はかたづくる
いにしへに還(かえ)るときめき掌(て)にひとつどんぐりの粉の縄文の菓子
百年を木は生きてあり八丁味噌六トン容(い)るる樽干されをり
泣きゐるや笑ひてゐるや永きねむり解かれて出でし最古の仮面
纏向(まきむく)の仮面にあきし穴三ついにしへ人の素朴を愛す
なすすべもなきと仮寝の一時(ひととき)を覚むれば水は跡かたもなし
水嵩(みずかさ)の跡が襖にのこりをり計りてみれば五十二センチ
台風の水の引きたる泥畑に一きは赤く彼岸花咲く
気に入りの紬の着物を着し義兄(あに)の柩に浮子(うき)と釣りの本あり
祖父の骨拾ふ甥の子大き声に喉仏とはどこかと問へり
ICUにふる里の夢見るならむ義妹(いも)は方言に譫言(うわごと)を言う
日赤の看護婦たりし若き日の淡き恋いふ癒えゆく義妹(いも)は
サファイアの指輪を抜きて八十歳(はちじゅう)の義姉(あね)は見送るわが指に嵌(は)む
空港のガラスのむかう杖をつく義姉(あね)の後姿(うしろで)小さくなりぬ
初夏の頃、何処にでも咲いているコスモスに似た黄色い花、オオキンケイギク。この花を知覧の人は特攻花と呼ぶそうです。夫は、若い日、志願して第十三期海軍甲種飛行予科練習生(予科練)となり、国分航空隊に入隊、観音寺、霞ヶ浦と移動し、敗戦を千歳航空隊で迎えました。零式戦闘機の乗員であった夫は、訓練中に飛行機の故障で墜落しましたが九死に一生を得たと言っていました。
散りそむるオオキンケイギクまたの名を特攻花と聞くは哀しき
散華(さんげ)せし特攻兵の碑(いしぶみ)に残(のこ)んのさくら吹かれ来にけり
葉ざくらとなりて散りそむさくら花 やまとごころも死語となりたり
油浮く水を飲みしと彫られある碑にこもごもに真清水そそぐ
「お日(ひい)さんを二つも並べくさつてのう」原爆劇の科白(せりふ)の重し
色褪せし軍事郵便 孫(うまご)らに見せつつ平和のありがたさ言ふ
知覧より帰れば庭の特攻花ひとつひらきて風に揺れをり
夫は大病もせずに七十二歳を迎え、平成十年四月には故郷奄美へ同窓会出席の為帰郷しました。十日間程滞在し、島中を巡ったと楽しそうに話しておりましたが、五月に入り風邪を引き、肺炎をおこして入院。入院中に肺癌(腺癌)が見つかりました。抗癌剤の治療中、転移や副作用があり病状は悪化し、娘達と交代で二十四時間の看病に当りましたが、わずか三ヶ月の闘病生活で亡くなりました。
告げられし病名は夫(つま)に伏せしまま帰りの道に涙あふれ来(く)
瞬(またた)きもせず窓の外(と)を見つめゐる告知を受けて外泊の夫(つま)
外泊を許されし夫(つま)東京より帰りし孫とオセロしてをり
ふるさとの夜光貝なり桔梗(きちこう)を活けて肺病む夫(つま)の辺に置く
選択の是非を思ひぬ夫(つま)の手術せぬとふたりで決めたるあとも
放射線の照射うけきて昼食を眺めしままに箸つけぬ夫(つま)
ふた夜さを夫(つま)の看取(みと)りに寝ねざれば強き言葉のおのづと出でつ
ひすがらを家に帰ると言ひゐたる夫(つま)が点滴の管を引き抜く
餌を待つ雛(ひな)のごとしも口をあけ吾(あ)がさし出すを只に待つ夫(つま)
電話機にテレホンカードのもどる音 消灯あとの病廊にひびく
眦(まなじり)にひとつの涙浮腫しるき夫(つま)が眠りて見る夢は何
病む夫(つま)をベッドに起こす一仕事あはれ抱擁の象(かたち)にか似る
手の窪(くぼ)に載るほどの便いでしこと病む夫(つま)と吾(あ)のけふのよろこび
克明に夫(つま)書きてあり咳止めの服用時刻と効きたる時刻
病む夫(つま)のかたへにありて「幸福の木」はみどり葉の数をましゆく
病む夫(つま)の熱なき体のいずこより湧きくる汗ぞ夜を徹し拭く
ゆふつかた酸素マスクをされし夫(つま)眠りしままに翌昼逝きぬ
病よりとき放たれて零戦(ぜろせん)に翔(かけ)し空へと逝きたるや夫(つま)
半世紀の変貌ありし霞ヶ浦夫(つま)の写真をたづさへめぐる
枯葦のむかうに湖(うみ)はひろごりて冬晴れの陽のひかりをまとふ
どの遺書も父母の文字のみ多かりき霞ヶ浦の予科練記念館
飛行機を背に出撃の前ならむ笑顔に挙手の関大尉はも
[神風特別攻撃隊第一号]
出撃の前夜別れの酒酌みし菊の御紋の白き別杯(べっぱい)
展示室闃(げき)と声なし特攻の遺書に茶髪の子が泣きてをり
胸を衝(つ)く特攻の遺書なかんづく「俺が死んだら何人なくべ」
出撃の前夜「月光」弾きしとふフッペルのピアノいまだ艶もつ
初盆の準備をしている時、お供えの宅急便が届きました。ドアを開けると同時に一匹のとんぼが入って来て、仏壇のある座敷をしばらく飛んでから出ていきました。夫の化身の様に思えました。
宅急便とともに入り来しシホカラのとんぼは奥の部屋ぬちを飛ぶ
斎場のどの花よりも美(くは)しかりき夫(つま)の柩(ひつぎ)をおほふ軍艦旗
「海ゆかば」聴きつつ夫(つま)のきりもなく噎(むせ)びゐし暑き夏のめぐり来(く)
メモせるをひとつづつ消し亡き夫(つま)の初盆むかふ準備ととのふ
生きてあらば嬉しからむを亡き夫(つま)にけふ阪神の優勝報(し)らす
居酒屋にともに飲まむと吾(あ)を招く下戸(げこ)なりし夫(つま)が夢にきたりて
亡き夫(つま)にひと日の無事を告げにつつ恙(つつが)あらざる大事を思ふ
亡き夫(つま)の告げたきは何あかときを三夜つづけてわが夢に来ぬ
あかときの夢に来たりて去(い)に際に「お前を守る」と言ひし夫(つま)はも
夫が亡くなった翌年、愛知県岡崎市に住む当時六十歳だった弟が急逝しました。「姉ちゃんに逢いたい」と言っていたと義妹から聞いた時は、胸の潰(つぶ)れる思いでした。
逢ひにゆくと約せし時を待たずしてあはれ逝きたる吾弟(あおと)よ吾弟
抗癌剤服(の)みて二ヶ月弟は食欲のなく眠れぬといふ
弟が一生(ひとよ)過ぐしし街なかを秋陽をかへし菅生川(すごうがわ)ゆく
九階のベランダに佇(た)ち弟が生きて見たりし景を見てをり
弟の散歩路なりし葉桜の木陰を歩く一周忌の朝
三番目の弟が亡くなった翌年、すぐ下の弟も相次いで亡くなりました。定年後は、闘病生活で入退院を繰り返していましたが、最期は安らかに旅立ちました。
いく度の入院ならむ弟を見舞へば足にギブスして臥す
静脈瘤三たび除(と)りたる弟の眼窩(がんか)くぼみて亡き母に似る
枕辺に日記を置きて弟は体温、食事つぶさに記せり
晩年の母のくせ毛を思はせて病む弟(おと)の髪伸びてカールす
十五センチ小さくなりしと弟は腹水引きし腹を撫でたり
アイスキャンデーばかりを欲りする弟が三口(みくち)かじりて旨いと言ひき
黄疸の眼を見ひらきて一点を見つむる弟の息あらくなる
息ほそくなりし弟の耳許(もと)に「父さんありがたう」とその子ら言へり
力しぼり待ちゐしならむ子と孫に逢ひたるのちに弟逝きぬ
弟の葬(はふ)りの礼(いや)に来し御(み)寺六月を鳴くうぐひすの声
義妹(いも)逝きて吾(あ)が来し奄美の道の辺に緋寒桜のくれなゐ深し
さかづきのお別れの酒ひと口をふふむ黒糖焼酎甘し
ひと壺のみ骨となりし義妹(いもうと)は膝にぬくとし忘れざらむや
青色をさまざまに変へ果てしなき奄美の海を車窓に見倦(あ)かず
老いの身に抱く骨壺の重くして時に揺すればカサリと音す
如月(きさらぎ)の降る雨見つつ空港にお骨を抱きてよるべなかりき
母は昭和四十年一月、風の冷たい夜、還暦を迎えないまま、心臓麻痺にて急逝しました。信心深かった母には、自分の死がわかっていたのでしょうか。亡くなる三日前、我が家に来て死期が近いこと、高野山に納骨してほしいこと等を話しました。その時、私は余りにも若く、人は簡単には死なないと言ってしまいました。若いということは時に残酷です。一人娘である私に、言い残したかった母の気持ちが、いまの私にはとてもよくわかります。
死は近しと告げ給ひしは三日前われ若くして耳貸さざりき
われもまた母のごとくに逝きたかり湯を浴み倒れ一日(ひとひ)も寝ねず
自(し)が骨は高野山にと吾(あ)に言ひて三日の後に母逝きましぬ
黙々と母が襁褓(むつき)をたたみゐる夢より醒(さ)めぬけふは母の忌
亡き母の転生かとも白き蝶草引くわれのめぐりを去らず
染め替へし母の着物をけふは着て苦労絶えざりし母おもひをり
亡き母が四十路(よそじ)の頃に締めし帯けふ歌会にはじめて結ぶ
しつけ糸かかりしままの母の着物衣桁(いこう)にかけて飽かず見てをり
きつすぎずゆるすぎもせず結びをふ母の形見の帯やはらかし