今日は・・・
実母の命日。当時のことをいろいろと思い出す。
とても感謝している。育ててくれて。
こんなにいい母は、他にはいないと思っているくらいだ。
誕生日のカラーでいうと、私よりもパワーのある母
(カラーセラピストの友人に言われた)
私の方が、パワーがないらしい
母がよく言っていたのは・・・
「こどもは好きでこの世に生まれてきたわけではないし~」
私も、数年前までは、そう思っていた。
しかし、ジョナサン・ケイナーの本にも
こどもは、親を選んで生まれてくるというのがある
先輩セラピストさんも同じことをいっていた。へぇ~
健康だけがとりえの母が、急に病にかかってしまったのだ。
それも、世間一般では治らないと言われている病気だ。
余命1年。
いつも母は、その病気にだけはかからないといっていたのだ。
家系にいないから。。。
私も「そっかあ~家系にいないとかからないわけ 」
と、そう思っていた。
さ~て、告知するかしないか。。。家族での話し合い。
弟いわく「治ると言われているなら、頑張っていこうねーとも言えるが
言わない方がよいと思う。本人がかからないと言っている病気だし」
実父 何も言わず。。
私も、たしかに、絶対かからない などと普段から言っている
人間に言えるわけがない
言った途端に、倒れてしまうかも
との判断で、本人には言わず・・・検査入院から退院、自宅に戻った。
ただでさえ、普段から病院にはいかないで、市販の薬を飲む母。
検査入院しただけでも、かなりの疲労だったようだ。
言わないでよかったかな~と思った。
家族の協力が始まった。いとこに相談したりして
ネットで漢方を知る。たまたま吉祥寺にお店があり、支店も調布にあって
すぐ手に入った。でも、本人を連れてはいけないので
自由のきく私が、車であちこち走り回った。
人間せっぱつまると、馬鹿力?がでるものだ。
さ~てと、また問題なのは、母の協力が得られないことである。
白湯に混ぜたり、錠剤は元気になるからと、病院から処方されている
ものとは別に飲んでもらったりした。
ウソをつくのが、こんなにも大変なこととは・・・
また、ひとつ問題なのは、私が一緒に住んでいないことであった。
やはり男二人では、なかなか無理なこともあり。困った。
ただ、本人はただの便秘?だと思い、退院もしたし、病気とも
思っていないことも問題。あまり、病人扱いすることも出来ず・・・
この時期いろんな本も読んだし、いろいろ学んだ。
もし、母と同じ病気にかかったとしたら、家族皆、自分でわかるね
この時に一番重要だと思ったことは、「水分」
人間の体は、水分でできている。
水分と言っても、やたらめったらジュースを飲めばよいわけではない。
質のよい水分をとること
もともと、水分を取らない母は、これもまたネックとなってしまった。
塩分(おせんべい大好き) 水分取らない と悪循環。
そこに、過度のストレスがかかって、病に。
母に、おんぶにだっこしていた家族全員の責任である。
「ストレス」
一言でいうが、これがくせものである。
死に至らしめることである。
普段から、上手に解消していかないとね。もちろん食事も重要
最初の病院でも治らないと言われ、なんでも好きにしてください~
と言われた。一時、その漢方ですごい勢いで元気になったのだが・・・
昼間一人でいた母は、消化の悪いものを食べたりしていて、失敗。
せっかく、調子よくなってきた矢先、1ヵ月ほどで再入院。
そのまま、退院することはなかった。
今度は、近くの病院の方が、便利だということで違う病院に。
また、そこでも、医師に「治らない病気ですから」と言われ
すっごく頭にきた。医師からして治らないと決め付けているではないかー。
アロマセラピーに出会っていた私は、「何それー」
そんなことはない と、思わず、医師にけんかを売りたくなった。
友人のおじいさまも、いろいろよいお水やらで、治った話もきく。
病院選びも重要であることを学ぶ。
ただ、告知していない母に、その専門の病院に移るなどとは言えなかった。
みなさんなら、いかがですか~
この問題は、難しいです。自分だったら、どうかな~と考える。
後悔のない人生なんて、あるのだろうか。。。
私自身、会社がいやだー、といい、辞め、また違うことを始め
やりたいことをやってきたと思う。わがままに
ただ、対人 となると、自分の思うようにはことが運ばない。
相手があることだから・・・
余命1年と言われ、五ヶ月の奮闘に終わってしまった。
すごい勢いで過ぎた日々だったので、直後は
気が抜けてしまい、しばらくは復活できなかった。
もう少し、こうすればよかったな~と、いろいろ思うときりがない。
たら、れば、の話ばかり。
起こるべくして起こったこと?必然?
当時、いとこやら弟に、「よくやったと思うよ」と言われるが・・
なかなかそうは思えないよねぇ。悔やまれることばかり。
今やっと、違う考え方ができるようになった。
当時、友人たちに、「母は偉大だよ~」
いるうちに、いろいろ孝行したりした方がね~。なんて。
二度目の病院では、1日以外を除いて、私の病院通いが始まり
一人暮らしをしたことがない母なので、毎日行こうと決めていた。
最初の病院に連れていくことが一番大変だった。
9月に定期健診があるから、そのときでよいと、先延ばしにしていて・・・
一緒に病院の検査に連れていったので、母に命綱だといわれ。。。
検査の結果も、父ではなく、私に一緒についてきて欲しいと。
しかし、結果が出るよりも先に、検査の途中で即刻入院となった。
危篤となってからも4日も生き延びた母。
医師に驚かれるほどであった。
私にもその根性が少しは入っている?
意識がなくなる前日は、私以外みんな、私の病気を知っている
と言っていた。怒っていた。
意識がもうろうとしていた中でか・・・
病室の患者さんたちが、母の病名を知っているはずがない!
なぜ、そのようなことを言い出したのか である。
その言葉が最期の言葉となってしまい・・・なんとも言えない気持ちである。
4日間の危篤状態の中、一度だけ、父の声に起き上がって
なんだか、もぐもぐと言っていた。聞き取れなかった。
なんと言っていたのだろう~。
命綱だと言われていた私ではなく、父の声に反応したのだ。
親子の繋がりよりも、母は他人である夫婦の方が
より強かったのかは?わからないが・・・父と母が仲良かったのは
子供としても、よい光景であった。
あと、母に言われて、20代の頃、よくひっかかっていた言葉
「どうせ、この子は○○だから~」
うっかり言いそうな言葉である。
でも、これは子供に対しては、あまり言わない方が・・・ね。
気にしない人は、気にしないであろうが。
自分でも暗示にかけてしまい、そうなってしまうこともある。
難しいが、出来れば、言わない方がよいかな、と思うね。
今は、全然なんのことはないが。。。思い出した言葉。
まあ、私は、恵まれていたと思う。
やりたいこともさせてもらい、感謝している。
ベタベタしている親子関係ではなかったが
ある年齢からは、ともだちみたいだったね。
なので、当初は、大事な友人を失ったようで、なんだか欠けている感じ。
チョー強気の私が、崩れてしまった。
それ以来、強めの香りは、少し苦手になり
当然、施術も(受け手の場合)ぐりぐりと強めもいまいちになり~
自分自身、変わるものだなぁと感じている。
朝の4時過ぎから、家族全員がかけつけ・・・
母が旅立ったその朝は、とてもよいお天気の始まりで
病院の窓から富士山が見えた。八時きっかりだった。
母は、晴れ女なのだ。いつもお天気に恵まれている。
当然、他のお母さんのことは知らないが
私は世界一だと思っている。家族全員の誇り。私は幸せものである。
育ててくれて、「ありがとう」
実母の命日。当時のことをいろいろと思い出す。
とても感謝している。育ててくれて。
こんなにいい母は、他にはいないと思っているくらいだ。
誕生日のカラーでいうと、私よりもパワーのある母
(カラーセラピストの友人に言われた)
私の方が、パワーがないらしい
母がよく言っていたのは・・・
「こどもは好きでこの世に生まれてきたわけではないし~」
私も、数年前までは、そう思っていた。
しかし、ジョナサン・ケイナーの本にも
こどもは、親を選んで生まれてくるというのがある
先輩セラピストさんも同じことをいっていた。へぇ~
健康だけがとりえの母が、急に病にかかってしまったのだ。
それも、世間一般では治らないと言われている病気だ。
余命1年。
いつも母は、その病気にだけはかからないといっていたのだ。
家系にいないから。。。
私も「そっかあ~家系にいないとかからないわけ 」
と、そう思っていた。
さ~て、告知するかしないか。。。家族での話し合い。
弟いわく「治ると言われているなら、頑張っていこうねーとも言えるが
言わない方がよいと思う。本人がかからないと言っている病気だし」
実父 何も言わず。。
私も、たしかに、絶対かからない などと普段から言っている
人間に言えるわけがない
言った途端に、倒れてしまうかも
との判断で、本人には言わず・・・検査入院から退院、自宅に戻った。
ただでさえ、普段から病院にはいかないで、市販の薬を飲む母。
検査入院しただけでも、かなりの疲労だったようだ。
言わないでよかったかな~と思った。
家族の協力が始まった。いとこに相談したりして
ネットで漢方を知る。たまたま吉祥寺にお店があり、支店も調布にあって
すぐ手に入った。でも、本人を連れてはいけないので
自由のきく私が、車であちこち走り回った。
人間せっぱつまると、馬鹿力?がでるものだ。
さ~てと、また問題なのは、母の協力が得られないことである。
白湯に混ぜたり、錠剤は元気になるからと、病院から処方されている
ものとは別に飲んでもらったりした。
ウソをつくのが、こんなにも大変なこととは・・・
また、ひとつ問題なのは、私が一緒に住んでいないことであった。
やはり男二人では、なかなか無理なこともあり。困った。
ただ、本人はただの便秘?だと思い、退院もしたし、病気とも
思っていないことも問題。あまり、病人扱いすることも出来ず・・・
この時期いろんな本も読んだし、いろいろ学んだ。
もし、母と同じ病気にかかったとしたら、家族皆、自分でわかるね
この時に一番重要だと思ったことは、「水分」
人間の体は、水分でできている。
水分と言っても、やたらめったらジュースを飲めばよいわけではない。
質のよい水分をとること
もともと、水分を取らない母は、これもまたネックとなってしまった。
塩分(おせんべい大好き) 水分取らない と悪循環。
そこに、過度のストレスがかかって、病に。
母に、おんぶにだっこしていた家族全員の責任である。
「ストレス」
一言でいうが、これがくせものである。
死に至らしめることである。
普段から、上手に解消していかないとね。もちろん食事も重要
最初の病院でも治らないと言われ、なんでも好きにしてください~
と言われた。一時、その漢方ですごい勢いで元気になったのだが・・・
昼間一人でいた母は、消化の悪いものを食べたりしていて、失敗。
せっかく、調子よくなってきた矢先、1ヵ月ほどで再入院。
そのまま、退院することはなかった。
今度は、近くの病院の方が、便利だということで違う病院に。
また、そこでも、医師に「治らない病気ですから」と言われ
すっごく頭にきた。医師からして治らないと決め付けているではないかー。
アロマセラピーに出会っていた私は、「何それー」
そんなことはない と、思わず、医師にけんかを売りたくなった。
友人のおじいさまも、いろいろよいお水やらで、治った話もきく。
病院選びも重要であることを学ぶ。
ただ、告知していない母に、その専門の病院に移るなどとは言えなかった。
みなさんなら、いかがですか~
この問題は、難しいです。自分だったら、どうかな~と考える。
後悔のない人生なんて、あるのだろうか。。。
私自身、会社がいやだー、といい、辞め、また違うことを始め
やりたいことをやってきたと思う。わがままに
ただ、対人 となると、自分の思うようにはことが運ばない。
相手があることだから・・・
余命1年と言われ、五ヶ月の奮闘に終わってしまった。
すごい勢いで過ぎた日々だったので、直後は
気が抜けてしまい、しばらくは復活できなかった。
もう少し、こうすればよかったな~と、いろいろ思うときりがない。
たら、れば、の話ばかり。
起こるべくして起こったこと?必然?
当時、いとこやら弟に、「よくやったと思うよ」と言われるが・・
なかなかそうは思えないよねぇ。悔やまれることばかり。
今やっと、違う考え方ができるようになった。
当時、友人たちに、「母は偉大だよ~」
いるうちに、いろいろ孝行したりした方がね~。なんて。
二度目の病院では、1日以外を除いて、私の病院通いが始まり
一人暮らしをしたことがない母なので、毎日行こうと決めていた。
最初の病院に連れていくことが一番大変だった。
9月に定期健診があるから、そのときでよいと、先延ばしにしていて・・・
一緒に病院の検査に連れていったので、母に命綱だといわれ。。。
検査の結果も、父ではなく、私に一緒についてきて欲しいと。
しかし、結果が出るよりも先に、検査の途中で即刻入院となった。
危篤となってからも4日も生き延びた母。
医師に驚かれるほどであった。
私にもその根性が少しは入っている?
意識がなくなる前日は、私以外みんな、私の病気を知っている
と言っていた。怒っていた。
意識がもうろうとしていた中でか・・・
病室の患者さんたちが、母の病名を知っているはずがない!
なぜ、そのようなことを言い出したのか である。
その言葉が最期の言葉となってしまい・・・なんとも言えない気持ちである。
4日間の危篤状態の中、一度だけ、父の声に起き上がって
なんだか、もぐもぐと言っていた。聞き取れなかった。
なんと言っていたのだろう~。
命綱だと言われていた私ではなく、父の声に反応したのだ。
親子の繋がりよりも、母は他人である夫婦の方が
より強かったのかは?わからないが・・・父と母が仲良かったのは
子供としても、よい光景であった。
あと、母に言われて、20代の頃、よくひっかかっていた言葉
「どうせ、この子は○○だから~」
うっかり言いそうな言葉である。
でも、これは子供に対しては、あまり言わない方が・・・ね。
気にしない人は、気にしないであろうが。
自分でも暗示にかけてしまい、そうなってしまうこともある。
難しいが、出来れば、言わない方がよいかな、と思うね。
今は、全然なんのことはないが。。。思い出した言葉。
まあ、私は、恵まれていたと思う。
やりたいこともさせてもらい、感謝している。
ベタベタしている親子関係ではなかったが
ある年齢からは、ともだちみたいだったね。
なので、当初は、大事な友人を失ったようで、なんだか欠けている感じ。
チョー強気の私が、崩れてしまった。
それ以来、強めの香りは、少し苦手になり
当然、施術も(受け手の場合)ぐりぐりと強めもいまいちになり~
自分自身、変わるものだなぁと感じている。
朝の4時過ぎから、家族全員がかけつけ・・・
母が旅立ったその朝は、とてもよいお天気の始まりで
病院の窓から富士山が見えた。八時きっかりだった。
母は、晴れ女なのだ。いつもお天気に恵まれている。
当然、他のお母さんのことは知らないが
私は世界一だと思っている。家族全員の誇り。私は幸せものである。
育ててくれて、「ありがとう」