真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

コサックの頭目の孫10歳(じつは11歳)、歌いながら南へ単独行千キロ~ビクトル古賀さん 1

2010-06-13 | 読書-歴史
『たった独りの引き揚げ隊―10歳の少年、満州1000キロを征く』
石村 博子【著】
角川書店 角川グループパブリッシング〔発売〕 (2009/12/15 出版)

父(古賀仁吉):北満の裕福な事業家。柳川の武士の家系。
母(クセーニア・フィヨドロブナ・ラパルジナ):コサックの頭目と貴族の娘の間の娘。

母方の祖父(フョードル・ミハイロヴィチ・ラーパルジン):日露戦争で捕虜となり日本に滞在し、日本びいきになったコサックの元頭目の長老。
近衛騎兵としてサンクトペテルブルグに上り、貴族の娘を娶る。

革命軍に敗れて満州に逃げ、関東軍に協力してパルチザン要員としてソ満国境の開拓村に暮らす。
(特務機関にサポートされた反ソ、パルチザン要員というわけね)

ソ連のコサックが実質的に消滅させられたので、(満州に逃げた彼らは)コサックがコサックとして生きた最後の一員ということになるわけか。
誇り高き元近衛騎兵は、ソ連の満州侵攻時、行方不明に。

騎兵が戦車にかなわないのは、1939年のポーランドも一緒…。
じつはそんなことは百も承知で、国境地帯に住まわせておくには最適…という判断だったのかな、関東軍。

ビクトル(古賀正一/ビクトル・ニキートヴィチ・ラーパルジン)は4人兄弟の長男。
なるほど!ニキチの息子なのでニキートヴィチか。今気がついた。

母方の祖父が「この子はコサックとして育てる」と宣言して、馬と生きるコサックの魂とノウハウを濃密に伝授する。
お前はサムライとコサックの血を引いているのだ、と。
(次男以下はそっちで好きにしろ、と)

「最後のコサック」として育ったビクトルは、そのお陰で独りで千キロの引き揚げを生き延びる。

引き揚げ団に入れてもらう話がついていたはずなのに、「ロスケの子なんか駄目だ」と(自分たちのことで精一杯の引き揚げ団リーダーらに)置いていかれる。
合流-放逐が複数回あり。
(写真で見る限り、顔つきは日本人なのだが、目の色などで問題発覚・・・らしい)

引き揚げ団の生死はリーダーの器量次第だった由。
遊牧民のように、生きるか死ぬかの状況では、リーダー次第なのだなあ。

農耕民族はあまりそのような場面に遭遇しなかったのね。
~これは、カミサマが沢山いる宗教(多神教)と、唯一絶対のカミサマ(一神教)の違いにも波及していると思う…。

ビクトル少年、遠くから見た煙突から立ち上る煙でロシア人の家を見分ける。
牛糞、馬糞を燃やす中国人の家と、白樺、石炭を燃やしてパンを焼くロシア人の家は煙が違う由。

ロシア人の家を慎重にタイミングを図って訪ね、歓待され、栄養と物資の補給に努める。
家に入れてもらうと、まず祭壇に祈りを捧げる。これポイントね。
こういう時にも、「ぼく10歳です」の方が受ける由。

「まあ、それは可哀そうに。えらいのねぇ…」。
じつは満11歳、数えだと12歳のはずだが、智恵を働かせるわけ。

線路沿いの死体(引き揚げ列車内の死亡者や、徒歩前進中の死亡者多数)から靴などを頂戴することもしばしば。
足を痛めないコサックのノウハウも、当然身につけている。
仰向けでは(顔面を食われる等で悲惨なので)かわいそうだと、うつ伏せにして十字を切って祈り、前進する逞しい少年。

線路のすぐ脇などは(襲われるなどの)危険度が高いので歩かない。
視界の端に線路をかすかに捉えるくらいの距離を取って、南へ。

磁石などなくても方角は分かるし、川も分かるもん。
コサックのじいちゃんにしっかり仕込まれたので。

鳥などにより線路脇の死体の存在は知れるが、すぐには接近しない。
死体狙いの動物や物取りと鉢合わせのリスクを避けるため、慎重に様子を窺ってから接近する。

基礎体力・判断力・精神力・対人能力なども含めて、総合的にサバイバビリティの高い少年だったのだな。
survivability

http://en.wikipedia.org/wiki/Survivability
英語のほかには、ロシア語とリトアニア語だけか…。
(チェックした時点では)

その2につづく

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